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CSCDスペシャル活動レポート

科学と社会の対話とは?~社会と科学技術の関係を考える時間~(2)

2012.5.21 小林 傳司教授セミナー@アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター

科学と社会の対話とは?~社会と科学技術の関係を考える時間~(2)

去る2012年5月21日、アサヒグループホールディングス株式会社とCSCDの共同研究の一環として、アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター(茨城県守谷市)にて、小林傳司教授による「科学と社会の対話とは?〜社会と科学技術の関係を考える時間〜」と題するセミナーが行われました。レポートの2回目(完結編)です。

【小林傳司教授セミナー(後半)】

 そもそも、科学技術なんていうのは専門家に任せておいたら良いと考える人もいます。なぜコミュニケーションが必要なのか、という話になるのです。今我々がこれほど科学技術を使っていると、色々厄介なことが出てきます。
 私は、『トランス・サイエンスの時代』という本を書きましたが、そこで、「科学に問うことはできるが、科学が答えることができない問題群」(=トランス・サイエンス的問題)が増えていると、1972年にAlvin M. Weinbergという核物理学者が言っていることを紹介しました。この人は色々な例を挙げています。例えば、「原子力発電所には多重の安全装置が備え付けられているが、これらが全てダウンしたらどうなるか?」という質問に対して、科学者の答えは一つです。「それは大変なことになる。」これは論争の余地がありません。科学の問いであり、科学者が答えることができます。次に「それら全ての安全装置が同時にダウンすることはあり得るのか?」と質問すると、ほぼ全員の科学者は「その確率は低い」と言います。しかし、「それほど低い確率なのだから、ほぼ安全とみなしていいのか?それとも、何らかの対策を考えるべきなのか?」という質問になると、科学者の意見は分裂します。このような問いに対してどう考えれば良いのか、というのがWeinbergの問いでした。アメリカという社会は、民主主義を標榜しており、このような意見が分かれる場面においては、技術者だけで決めることが出来ない社会である、だからこのような問題は社会とのディスカッションを通じて決める他はないというのがWeinbergの見解でした。 

 リスク論では、科学技術の専門家は消費者に対して「ゼロリスクは無い」とよく言います。それはそのとおりだと思います。しかしこれは裏返すと、事故は論理的には起こりうるということに等しいのです。3.11ではその低い確率がリアルになりました。ではどうすればいいのか、というのを私は本の中で書いたのですが、ゼロリスクが無いということは、事故はいつでも起こりうるということを覚悟しなければならないということです。しかし、科学技術を使わないという事には耐えられないし、無意味だろうと。科学技術を使うということを選択すると、最悪の場合事故はあり得ると覚悟をした生き方をしなければならない。納得のいく失敗をするための意思決定をするしかないでしょう。つまり、合理的な失敗です。「これは仕方がないだろう」と社会が思う所まで持っていくことです。例えば、山道を車で登っている時に『落石注意』と書いてあるところがあります。皆さんはどのように注意をしていますか?フェンスが張ってあったり、コンクリートの吹き付けがしてあったりはしますが、それでも落石の確率は原子力発電所の事故の確率より遥かに高いと思います。しかし、皆、文句を言わず走っている。そんな山道の前で逡巡して「ここを通るのをやめよう」なんてことは、あまりしないですよね。もしこれを技術的に全部対応しようとするとどうなるかというと、日本の自動車は全部装甲車になります。でもそこまで誰も要求しません。そういう線引きです。科学的に数値が高い低いだけで我々は判断しているのではありません。もっと複雑な判断が働いているはずです。そういう判断は科学からは出て来ません。


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 地球環境問題において、IPCC(気候変動に関する政府間パネル:Intergovernmental Panel on Climate Change)という報告書についてお聞きになったことがあるかもしれません。「地球温暖化を2度以内におさめるためには何%のCO2を削減するか」ということを科学者が言っています。しかし、昔の科学者の感覚では「何%削減しろ」なんてことは、絶対に言うことはできません。「このままいけばこうなります」という予測までは、科学は言えるでしょう。しかし、そこから何%削減とか、何度以内にすることを推奨するとかいう話は、完全に政治の話なのです。それが一つのレポートの中に書き込まれているという新しいタイプの科学報告書が出てきました。これが我々の時代なのです。これは先ほどのレギュラトリー・サイエンスの典型的な例です。こういうことを考える専門家の要請を日本は怠ってきたように思います。しかし、これからは特に、税金を使って研究をしている大学の研究者は「何のためにこの研究をしているのか。社会が何を期待しているのか。」を考える訓練をしていかないと空回りしていくだろうと思います。そして、こういう問題を考えることを通じてレギュラトリー・サイエンスの専門家が生まれてくればと思うのです。

 フランスOECD会議の資料をご覧ください。昔(golden age)においては「素人(lay person)には正しい知識を与えれば良い。素人は科学を正しく理解していないので、トップダウンで知識を教えれば良い。」という欠如モデルに基づいて議論されていました。つまり、基本的に一方向のコミュニケーションだったのです。しかし、それではもうもたないところまで来ています。科学の産物はもはや、自動的に社会にとって便益であるとは受け止めてもらえないところまで来ているのです。かつての「三種の神器(冷蔵庫、テレビ、洗濯機)」が普及した時代とは違います。だからこそ、双方向的な対話が必要です。科学者がこんな便利なものを作りました、そうですかありがとうございます、と人々が言うとは限らない、そういう時代なのです。ですから、研究者は普通の人の感覚、市民感覚を呼び起こして欲しいと思います。そういう感覚を呼び覚ますための大切な場が、研究者以外の人とのコミュニケーションの場です。

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 我々も、市民との対話の場として「サイエンス・カフェ」を主宰していますが、基本は大学の外でやることなのです。大学の中でやると、単なる研究室訪問になってしまうからです。わざわざ外でやって、研究者を少し不自由な状況に置くわけです。アウェイの環境で、パワーポイントも使わずにやりましょう、と。そうすると、大概の研究者の方は「それは難しい」とおっしゃいます。でも、一回それをやった人は「面白かった」とおっしゃいます。「自分の研究がこんな風に受け止められるのか」、「こんな風に期待されてしまうのか」、直接聞く事ができてびっくりした、そういう経験をします。この場では、自分の研究を正確に知識として相手に注入しよう、という工学的な情報移転モデルはふさわしくないのです。「ひとつのことに一生懸命になっている研究者はどういう人なのか」が伝わる事が大切なのです。研究者は「自分の研究を分かりやすく説明したい、分かりやすく説明したい」と前のめりになるものです。それで、喋り方の訓練から資料の作り方まで一生懸命になります。しかし、それをやればやるほど相手がひいていく。日常的には当たり前のことなのに、何故か研究のプレゼンになるとそうなってしまうのです。コミュニケーションは、相手の事を知る事から始めないといけません。でも、どうしても情報伝達モデルから入ってしまうのです。社会は何を期待しているか、自分たちの研究を社会はどういう風に見てくれているのかに関心を持つ事から始めるのが良いでしょう。

 ここで、1990年代のGM(遺伝子組換え作物:genetically modified organism)論争について触れたいと思います。当時、論争がヨーロッパで盛んでした。もちろん、日本でも議論がありました。日本でもヨーロッパでも専門家や政府は「正しい知識を与えましょう」と頑張りました。「遺伝子組換え食品は科学的に安全が確認されています。」と言い続けました。
 ところが、一般市民が抱いていた主要な疑問は別のところにありました。これは外国でも日本でも同様でした。「なぜGMOが必要なのか?その便益は何か?」「GMOで利益を得るのは誰か?」「GMOの開発は誰がどのように決定したのか?」「GM商品が商業化される前に、なぜもっとよい情報を与えられなかったのか?」...どれ一つとして、自然科学の知識で答えられるものはありません。この疑問に対して「科学的に安全です」「データはこうです」と繰り返しても、噛み合うわけがないのです。

 もう一つ見ていただきたいのは、日本橋の写真です。左は昭和初期の日本橋であり、右は現在の日本橋です。日本橋の上に首都高速がかぶさるように建設されています。今なら、このような計画をするでしょうか?いいえ、しないでしょう。しかし、当時は誰も気にしなかったのです。それが高度成長でのし上がった日本の姿でした。つまり、現在はかつてのように、研究者が面白いと思う事を追求すれば、それを社会が評価してくれる、とは言えないのです。研究者は社会としっかりとコミュニケーションをとらないと、その善意は空回りする可能性が高いのです。このようなことがあり、科学技術コミュニケーションが盛んに言われるようになったのです。

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 最後に、リスクについてお話したいと思います。生起確率×ハザードという式は、工学部等でよく使われる定式です。しかし、この式だと「しょっちゅう起きている小さなハザード」と「確率は低いが大きなハザード」は同値になります。これをどう捉えたらよいでしょうか?
 リスクについて考える時にいつも気になるのは、ハザードが何かがよく分からないということです。リスク論の専門家は、ハザードを客観的に比較可能なものにしなければならない、と言っています。しかし、それだけでリスクの話は終わりなのか、という疑問は残ります。定量化や客観化には、もともと様々な判断が入っているからです。そういう話をドイツの研究者が言っています。ヨーロッパでは、実際にリスクをマネジメントしなければいけない政府、企業がリスクに応じて適切に判断するための信号モデルというものが提案されています。リスクのタイプをグルーピングし、ギリシャ神話にちなんだ名前を付けているのです。ハザード×確率の式で値が同じものでも種類が違い、それによるマネジメントが異なるという事をわかりやすく図式化しています。日本もこういうキメの細かさで考えなければならないと考えます。

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 例えばDamocles型は、一度起こると大変な影響があるもの。例として挙がっているのは、原発、化学工場、ダム。Cyclops型とは、いつ起こるかわからないが、起こってしまった時のリスクは大きいもの。地震や津波などです。Pythiaは、遺伝子組み換え等、曖昧ではあるが存在するのではないか、というリスク。Pandoraとは、不可逆で広範囲で持続的、かつ人為的なリスク。例えばフロンガスのような、気が付いた時には回収できない厄介なものを指します。Cassandraとは、起きてから影響が顕在化するまでの時間が長くかかるもの。気候変動、地球温暖化など。Medusaは、人々を恐怖に落とし込むもの。専門家が考えるリスクと一般の人の考えるリスクの間に大きな差があるもの。例えば電磁波。
 このようなきめの細かさで分類をする必要があると思います。もちろん、どの場合がどれに当てはまるか、ということが簡単に決まるわけではありませんが、リスクに応じたコミュニケーションとマネジメントを考えることが求められていると思います。


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