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CSCDスペシャル活動レポート

『できないこと』から老いを考える〜研究者にとって、対話とは?〜(1)

2012.6.25 西川勝CSCD特任教授セミナー@アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター 

『できないこと』から老いを考える〜研究者にとって、対話とは?〜(1)

去る2012年6月25日、アサヒグループホールディングス株式会社とCSCDの共同研究の一貫として、アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター(茨城県守谷市)にて、アサヒグループホールディングス㈱の社員の方々約20名が参加され、西川勝教授による「『できないこと』から老いを考える」と題するセミナーが行われました。その様子を2回に分けてレポートします。

第一回目の今回は、セミナーの前半に西川教授により語られた「研究者にとって対話とは何か」です。

西川 勝(にしかわ まさる)

CSCD特任教授。専門は、看護・臨床哲学。
精神科病棟での見習い看護師を皮切りに、人工血液透析、老人介護施設と職場を移しつつ、二十数年にわたって臨床の現場での経験を積む。その一方で、関西大学の二部、大阪大学大学院文学研究科にて哲学を学び、看護の実際に即してケアのあり方をめぐる哲学的考察をおこなう。現在は「認知症ケア」に関わるコミュニケーションの研究・実践を進行中。

スタッフ紹介


ディスコミュニケーションとは

私はCSCDで「ディスコミュニケーションの理論と実践」という授業を担当していました。ディスコミュニケーションというのは、コミュニケーションの不全とか失敗とかいうものです。通常は「ディスコミュニケーションを解決するためにどうするか」という話になるのですが、私の授業はそうではなくて「ディスコミュニケーションには創造性はないのだろうか」ということを考える授業です。もう8年やっています。この授業を始めた頃は、「先生の授業の落としどころは一体どこなのですか」「結論は何ですか」「目的は何ですか」みたいなことをよく聞かれました。僕は学生に「あなたは研究者を志しているでしょう?今はお勉強の時代じゃないよね。」と返していました。今は少しずつ、答えのないものにどれだけしぶとくつきあえるかということを、学生たちも分かってくれるようになりました。

今日も、この会場のドアを入る前より知識が増えて帰る、ということはたぶんあり得ません。分かっていたつもりだったことが分かっていなかったかも、と思って、首を傾げて出て行くことはあるかもしれませんが。


老いについて語るために

例えば、「もう若くないと思ったとき」というテーマは、ずばっとは相手には聞きにくいテーマですよね。

対話プログラムっていうのは、研究も同じだと思うのですが、まだ自分が知らないこと、分からないことについて思考していくわけです。「もう若くないと思ったとき」というテーマについて話す時、相手がどう思っているのかというのは全く分からないわけです。それをいきなり「もう若くないと思ったときはどういうときですか」と質問すると、例えば「飲酒の量が減ったときですね」で話がポンと終わってしまいます。そうすると、この質問に対して相手が用意した答え以外は全くこちら側に入ってこないんです。これが理解の枠組みです。

何か答えがあることについて正解を知る、というのは勉強ですよね。小学生から大学生まではそうかもしれない。正解を知らずに、真理でないものを真理と思ったらそれはまちがいですよね。でもこれは訂正可能です。みなさんも研究の途中でしょっちゅうやられていると思います。真実を知ろうと思い、そのために色々な方法がある。ところが、何かミスがあるかもしれない。そう思ってもう一度やり直してみると、正しいものが見つかる。このような、非真理を真理と思ってしまうということはまだ傷が浅いわけです。

しかし、一番傷が重いのは、真理を見つけたと思って、これしかないと思ってしまうこと。他には真理はないと思ってしまうことです。自分の理解の「枠組み」で得られたこと真理だと思う。確かに正しいのだけれど、それは他の枠組みで見ると真理ではないかもしれない。つまり、他の枠組みでは見られなくなってしまうということです。

仮説検証型というような方法は、おおよその目星を付け、それを検証するためにはこういう方法でやっていこう、とやっていく。最初に結論を置いて、その背景にあるものを探っていく。そこである法則が明らかになったら、こんどはまた未知のものにそれを当てはめて、新しい真理を見つけていこうとします。

しかし、これは一つの結果があらかじめ見えている、それ以外のことには目がいかないということでもあります。ある意味では当然のことで、着実に研究成果を積み上げていく時には必要なのですが、これはあくまでも理解の「枠組み」の中のものしか見つけられない。他の枠組みなら他のものが見えてきたのかもしれないという、他の真理の可能性をすっかり忘却してしまう。こちらの方はなかなか訂正がきかないのです。なぜなら自分は正しいから。先ほどのような、非真理を真理と思い込んだ場合は事実だとか他の研究によって、間違っていたということが分かります。だからやり直しがきくのですが、自分の枠組みの中で見つけた真理しか存在しない、と思い込んでしまうということが恐ろしいところなのです。研究の幅をすごく小さくしてしまうということです。

「もう若くないと思ったとき」ということをぱっと聞かれたら、思いついた事をすぐ答えようとするかもしれませんが、例えば10分くらい考えていたら色々な思いがでてきて「そういえばこんなこともあった、あんなこともあった」というようなことが出てくる。それは直接的な質問だと出てこないんですね。

もっと言えば、「もう若くないと思ったとき」というのは質問しないけれど、他のことで、これにまつわるような「お酒は最近どうですか」みたいな話とか「同級生と会ってどうですか」みたいな感じでこれにまつわるけれどあまり関係のない話をすると、もっと豊かになってきます。

自分が喋りたい事を喋る事に人間は喜びを感じますが、相手に聞かれたことだけに答えるなんてことは非常に苦痛なわけです。だから、相手が喜びながら話をする、豊かに話をする、という中で、しかし自分はある一つのテーマをしっかり頭のどこかにおいておき、直接質問をすれば貧弱な答えしか出ないところをものすごく豊かな話を聞きながら、でも最後にストーリーにする。そういう聞き方があるのです。

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研究者に対話は必要か

研究者は、本当にそういう対話プログラムをしたいと思っているのか。何故、そんなことをしなければいけないのか。どうでしょうか。

研究者は基本的に、いわゆるもやもやもやとした話を研究成果として出すわけにいかないわけです。やってみて初めて分かった事でも、目的・対象・方法・結果・考察・結論と、試行錯誤の部分は外して、最初から結論が出ると分かっていたかのように出す。だから、プレゼンテーションについては研究者の皆さんは高い能力を持っているはずなんです。持ってなかったら研究者になれない。

でも、このプレゼンテーションということと、今我々が考えようとしている対話というのはちょっと違うわけです。

いわゆるおしゃべりというものもありますね。会話というもの。色々話して、適当に話し合っている感じになるもの。会話はどんな人とするでしょうか?やっぱり仲のいい人とします。「あいつ嫌いだ」っていう人とは会話は弾みませんよね。

プレゼンテーションは何でしょう?発表や説明というものです。これは競争ですよね。ディベートです。でも、これは仲間内のものでもあるのです。何故なら、発表はその内容が分からない人に対しては行いません。学会とか、そういうところでしますよね。だから、学術情報を使って良いわけです。そして、仲間ということは外に敵がいるわけですよね。競争があるわけです。

だから、同じように人と人とが話をする、話を聞くという事であっても、会話と発表・説明と対話とは違うものになります。

では、対話とは一体何なのか。要するに、未知の人と交わす、若しくは人の未知の部分について触れようとする、そういうものです。

発表・説明というのは勝ち負けがはっきりします。どちらかが勝ってどっちかが負ける。どちらかが説得される、もしくは説得されない。つまり、片一方は変わらないわけです。勝った方は変わらない。負けた方だけが変わるんです。会話というのはどちらも変わりません。対話は、どちらも変わります。

さて、研究とは何かというと、「自分が分からない状態から分かる」ということですよね。ではどれが大切なのかというと、対話が大切なのです。

研究している最中というのは、たった一人で研究していたとしても、実際は自分の中で対話しているはずです。自分と自分で対話している。それから、今までの自分と、今研究文献を読んでいるならその自分との間で対話を重ねているはずなんですよ。そういう対話的な知性がないと研究っていうのは決して前には進まないわけです。

研究活動の結果のアウトリーチというのであれば発表で良いかもしれない。人間関係を仲良しこよしでやりたいのなら、単なるおしゃべりで良い。でも、対話というのは自分が変わっていくということですね。こういうことが必要だから、研究者にとって、対話というのをもう一度見直してもらうというのが大事なのかなと思います。

この未知の人々、社会における自分たちの研究領域外の人々と交わすということについては、この間小林さんの話にもあったと思いますが、社会が研究者、科学技術とかそういうものに対して対話を求めてきているという部分もあります。それに対してはきちっと答える責務があります。それから、先ほどからずっと言っていますが、研究そのものが対話的知性のあり方である、ということで、より可能性のある事が社会の中にごろごろあるわけです。今の僕の考えとしては、研究者こそが社会との対話というものに一歩踏み出すことで、自分の研究の幅と粘り強さを獲得できるのではないかと思っています。

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釜ヶ崎での対話を通して

大阪に釜ヶ崎という場所があります。釜ヶ崎というところは、もともと住んでいた地域との縁が切れ、家族とも縁が切れた人が、たった一人で肉体労働をしながら、その日その日を生きていくということをやっている。更に今は、労働者も高齢化してきていて、日雇いなんかできないわけです。昔の簡易宿泊所が、今は福祉アパートになってきています。そして、孤独死というような事が多く起こっています。

これは言ってみれば、今の社会の少し先の話です。社会をぐっと凝縮した状態が釜ヶ崎の中にあるわけです。僕はもともと高齢者問題について研究して、今芽生えかけている高齢化社会、無縁社会というものに対する答えを知るということで釜ヶ崎に行こうと思いました。そしてそこで「哲学カフェ」という対話プログラムをやろうとしました。西成警察署の裏の西成市民館で部屋を借りて、そこを会場にして僕が「哲学の会」というものを始めました。

第一回目のテーマは「幸せについて」でした。十何人が参加されました。小綺麗にしているお年寄りが来られたり、女性も来られたりしました。あそこは、相手の来歴を聞かないのが暗黙のルールで、自己紹介はしなくてもいいですよ、と始めました。「毎週中央図書館に行って本を読んでいる。本を読むのは好きなんですが、その話をする相手がいなかった。哲学の会とあったので来てみました。」とか、それぞれ話をしだしました。「哲学の先生ですか?」と聞かれて、「いや、先生ではないですが、一応哲学科はでています」みたいな感じで話をしました。

どんな議論になったかというと、「幸せとは何か」というお決まりの問いにはならなかったんですね。「幸せについて何を考えたいですか?」という事をみんなに聞いていったら、「幸せとは追い求めるものなのか」というような話がでてきたり、「幸せというものは青い鳥じゃないけれども、身近にあるはずだ。見えていないだけだ。だからそれを発見するものや。自分の中にあるものを発見するものだ。」というような話がでてきたり。そういう問いが沢山出てきて、みんなで沢山議論しました。で、二時間が終わる頃には「美味しいもの食べるのが一番やな。」なんていうところで話がおちついたわけですけども。

ここで僕が「釜ヶ崎の暮らしはどうですか、幸せだと思いますか」みたいなこと聞いたら、「アホかお前」と言われるのがオチです。そうではなくて、「幸せとは何かについて話し合いましょう」、「幸せの何をどういう風に話し合いたいですか」っていうような問いをたてるところから始めると、色々な話が出てくるわけです。

ですから対話の一番の肝は、自分のあらかじめの理解をどれだけ崩せるか、どれだけ崩して相手の話を聞けるかという事だと思います。

(にしかわ まさる/大阪大学CSCD特任教授)


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