CSCD

CSCDスペシャル活動レポート

『できないこと』から老いを考える〜研究者にとって、対話とは?〜(2)

2012.6.25 西川勝CSCD特任教授セミナー@アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター 

『できないこと』から老いを考える〜研究者にとって、対話とは?〜(2)

去る2012年6月25日、アサヒグループホールディングス株式会社とCSCDの共同研究の一貫として、アサヒグループホールディングス㈱研究開発センター(茨城県守谷市)にて、アサヒグループホールディングス㈱の社員の方々約20名が参加され、西川勝教授による「『できないこと』から老いを考える」と題するセミナーが行われました。その様子を2回に分けてレポートします。

第二回目の今回は、いよいよセミナーの後半部分の「『できないこと』から老いを考える」です。

できないことから「老い」を考える

今日のテーマは「できないことから老いを考える」ということです。僕はそんなに衣装持ちじゃないですが、いくつかの夏用のジャケットがあります。今日はどれを着ていこうかなと思いました。実は最初は、今着ているものでないものを選んだんです。それで、ズボンをこれにあわせて着ようと思ったら、入れへんのですよね(笑)。この1、2ヶ月でウエストが4センチくらい増えてしまいまして。今のところ入るのはこのズボンくらいしかない。だからズボンはこれしかなかった。そうするとジャケットが全然合わないからボツになりまして、ジャケットがボツになるとシャツもボツになって、結局今着ているものしかなかったわけです。

僕たちの普段の行為というのは、実はできることの理由から始まる時はどちらかというと少ないような気がします。自分ができないことは避けて、できるほうに行っている。できることの中からできることを選ぶというよりは、通常はできないものからやめていくっていうことです。例えば僕は大学の教員をしています。なぜ大学の教員になれたのか、それは看護師をやめたからです。看護師をずっとやっていたら、大学の教員にはなっていない。みなさんも、昔はなりたかったものがあったのかもしれません。野球選手になりたかった、看護婦さんになりたかった、パーマ屋さんになりたかった、ケーキ屋さんになりたかった。さまざまな可能性があっても、その可能性の中から、できなかったことをやめた。やらなかったことが、今の自分のできるを支えているのです。何故この服を着てきましたかと聞かれたら、夏服だしいいものだから、と言ったほうが話が早いというだけなのかもしれません。

僕たちは常にできることをできるほうから語りがちだけれども、実際にはしなかったこと、できなかったことが、僕たちの人生なり、自分の生活のあり方なり、自分の今の生き方なりの輪郭をつくっているのです。輪郭というものをしっかりさせるということは、自分は何で無いのか、何をしなかったのかということ。しなかったことは無限大にあるわけですから、しなかったことを説明するということは効率から考えて人はなかなかやりません。だからできることを、最初からこれがしたかったというような形で説明してしまいがちです。

こんな風に考えてくると、できないということを単純にある能力の欠如のような形で語るのではなくて、さまざまな生き方の選択として考えることができます。できるということは大抵ひとつです。それ以外の、全ての可能性ができなかった、しなかったというところに沈んでしまいます。僕たちは、その逆さまを負っていますよね。できることの方が豊かで、できないことは欠如だ、マイナスだと思いがちですが、実はそんなことはない。人間のさまざまな選択のなかで、できるっていうことはただのひとつ。他の選ばなかった可能性っていうのは山程ある。でもそれを、我々はできる、できないっていう形で言ってしまって、できないということがものすごく乏しいイメージになりますが、実はそうではないということでしょう。

120625asahi_nishikawa2.JPG


「在る」ことを考える「老い」

では、老いとは何なのか。できていたことができなくなった、というだけなのか。できないということだけじゃないですよね。何故なら、赤ちゃんは走れないですけど「老けているなお前」って言わないですよね。病気になって何かができない、それで老けたとは思わないですよね。これから先もできないと感じる、これは結構重要です。

例えば、ぐっと力を入れるっていうのは、コントロールのある程度範囲内ですよね。逆に、力を抜くというのは結構難しいんですよ。力を抜くというのは力を入れないという事ではないんです。抜くんです。分かりにくいですよね。例えば皆さんが何か、数字のようなものを見たとします。その直後に「忘れてください。」と言われたとして、忘れられますか?難しいですよね。覚えるということは努力して必死になったらできる。でも、忘れるということは必死になってもなかなかできない。だから、そういう意味では、我々が考えている、何か力を入れるだとか、何かを覚えるだとかというのだけが力じゃないんです。忘れようと思って忘れられる訳ではなく、おのずと忘れる。ああそんなこともあったか、という感じで。このように、できないことがさまざまに増えてくる訳ですけが、では、できなくなろうと思ったとしても、我々はできる間はやってしまうんですよ。できないが故に、できるときとは違う生き方を始めます。それが老いの力になっていきます。でもそれを、できるという能力だとか、力の入り具合という基準で見ている間は、老いの「力が抜けた状況」というのは分からないわけです。

我々は生まれてから、できないことをできることに変換しながら社会のなかで自分らしさを形作っていくわけですけが、そういう意味では、私の能力とか私というものは、最初から私ではないわけです。私になったのです。そして、私がなくなっていくっていうことです。例えば、大阪大学の西川が、コミュニケーションデザイン・センターの教員をしています、授業でこんなことをやっています、と、皆さんに僕のことわかってもらおうといろんなことをしゃべります。つまり、Doingの世界で自分のことを語ります。ところが、自分の過去について話をするっていうことをどんどんやめていくというか、思い出せなくなっていく、今していることはこれこれですと言うだけのことがなくなってきたらどうなるんでしょう。

本来、人間って言うのは、Doっていう、何かができるということで評価される社会です。例えば何らかの免許を持っている人は、それは「何かができたから」ということです。「あなただから」というわけではない。「あなただから」というのは、それは「在る」ということです。本当は、人間の尊厳というものは、「在る」にかかっているわけです。できないということでも、それは一つの「在り方」なわけですよね。老いのなかで、人々は「する」ということができなくなったときに、では一体、何とどういう風に向き合っているかというと、私は「何で在ったのか」ということです。私は何をしてきたか、今私は何をしているのかではなくて、私という人間は何であるのか、何であったのかっていうような、もうまるっきり自分の存在と向き合うような時間。それが老いであるわけですよね。すること、しなければならないことがあり、それを忙しくやっているときには、自分が「在る」、自分が生きているというのはどういうことなのか、考える暇もないわけです。ところが、この一番根本的な自分がこうして生きていることの、その問いに、真正面から向き合えるっていう、そういう老い。できなくなって初めて、そういう問いと向き合うことができるのですね。

自由の「自」という字は、「みずから」と「おのずから」という読み方があります。「みずから」というのは、自分が主体的に、ということですね。「おのずから」というのは、自分の意図とは関係がなく、自然と、ということです。僕たちの中では、「おのずから」ということを、それほど高く評価しない。「みずから」という、自分が主体的に何かをするということを重視する社会に生きています。でもこれは、老いが深まるにつれて、この「みずから」できるところというのは少なくなってくるわけです。さまざまな制限、不自由が増えてくるわけです。制限のなかで、自分が「在る」ということを引き受ける。おのずと。人間にとっての自由、不自由というのは、単に「みずから」できる、できないだけじゃなく、制限のあるその「在り方」をそのまま引き受けるということも、この自由のひとつ、もう一つの方になっているわけです。老いというのはある意味では、「する」ということに重心を置いていた人の生き方を「在る」という方向に移して行く、ということです。

120625asahi_board3.JPG


違う枠組みで老いを考える

できないことから老いを考えると言ったとき、老いということを「する」のレベルで、できないのが老いだと考えるのは、今の我々の老いに対する理解の枠組みです。非常に強固な枠組みです。そうではなく、人間は有限な存在で、できないという制限があると捉える。でもその有限性という制限を引き受けて「在る」、おのずから「在る」という生き方をするときが老いであるわけです。これは、するとかできないとかの枠組みでは決して見えない老いの部分です。

対話のときも、要するに自分ではコントロールできないという話をしました。それは、人間としての制限です。人と人とが出会うことの制限です。それを引き受けるというような、「する」のもう一方の「在る」のところを考える。そういうところが、老いの中には宝のように沢山あります。

僕たちはきっとそうなるのですよ。今できることでなんとかぐっと自分というものを守ろうとしていますが、いつかそれは必ずほどけてしまうのですね。最初から私として生まれて来て、最後までこの私でいられるということはないのです。最初は、やはり私ではなかった。それが私になっていった。そういう制限の中で、人間の生き方の中でやはり、ほどかれていくというか。その人生の始まりと終わりについて、深い思索がなくて、真ん中のうろつきまわってすることばかりにかまけている。そういう生産年齢の我々だけで文化ができているようなところがあって、それでは人の人生の最初から最後までいけない。そういう、今までとは違う枠組みで見てもらえたらと思っています。

(にしかわ まさる/大阪大学CSCD特任教授)

【関連記事】
アサヒ ラボ・ガーデン
『できないこと』から老いを考える〜研究者にとって、対話とは?〜(1)