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CSCDスペシャルインタビュー

手さぐりで、力業で、コミュニケーション回路を作りだすということ

内田樹(凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授)

手さぐりで、力業で、コミュニケーション回路を作りだすということ

今年で設立10周年を迎えるコミュニケーションデザイン・センター(CSCD)。CSCDの外部評価委員(第2期)でもあった内田樹氏は、どのようなメッセージを寄せるのでしょうか。

内田 樹

凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授。1950年東京生まれ。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞、『日本辺境論』で2010年新書大賞。執筆活動に対して第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『憲法の空語を充たすために』『街場の共同体論』など。CSCD外部評価報告書はこちら


専門家同士の協働を支える「言語」が育つ場所

どんな学生も自分の専門領域に独特の用語やロジックはすぐに習得します。でも、その言葉づかいはそのままでは他の領域の専門家には通じません。専門家というのは他の領域の専門家とコラボレーションをしないと仕事にならない。他の専門領域の人と協働するためには、領域を超えるための言葉づかいやふるまい方が必要になります。でも、そのような「架橋のための技法」を習得するための機会はこれまで日本の大学ではほとんど整備されてきませんでした。 
 
個別的な専門知をどう連結させ、専門家同士をどう協働させるか、その技法にフォーカスした点がCSCDの最もユニークな点だと思います。専門と専門を繋ぐ知の技術は残念ながら研究室では誰も教えてくれない。でも、これを知らないと専門的な知見や技能を社会的に生かすことができない。

「専門の言語」と「協働のための言語」は別のものです。専門言語にどれほど習熟しても、そこから自然発生的に協働のための言語は出てきません。そうである以上、協働のための言語は別の仕方で学ぶしかない。

CSCDをつくった鷲田さん(鷲田清一。元 大阪大学学長。CSCD設立当時は副学長)は、知性というのは集団的に機能するものであるということを見通した上で、多様な専門分野が協働できるような「専門と専門を架橋するメタレベルの技術知」が必要だと考えていたのだと思います。ただし、この「架橋の技法」はそれは体系化したり、マニュアル化したりできるものではない。学生たちにそれを習得させようと思ったら、高度な専門家や実践者たちを集めておいて、実際に彼らが愉快に知的生産に励む様子を見せるしかない。学生たちがそれを見て、「なんて楽しそうなのだろう」と思って、自分もあんなふうに協働的に知性や技術を用いることのできる人間になりたいと思ってくれれば、それでいい。

戦前は旧制高校というすぐれた教育システムがありました。大学では別々の専門分野に散らばっていく十代の若者たちを一堂に集めて、寮で起居を共にさせた。そこで若者たちは共通の言語を会得し、コミュニケーションの作法を身につけた。大学では彼らはそれぞれ法律学や医学や工学や文学の専門に分かれるわけですが、とりあえず「あの分野のことなら、あいつに訊けばわかる」ということは知っていた。それが重要だったと思うのです。それは知の「マップ」を持つということです。図書館の案内図と同じです。どこの書架に行けばどの分野の本があるかわかっていれば、必要なときにすぐアクセスできる。自分自身は知っていなくてもいい。知りたいときにどこに行って、誰に聞けばいいかがわかっていれさえすればいい。「知についての知」です。旧制高校はこの「知についての知」の育成プログラムにおいて卓越していたと僕は思っています。

まずネットワークをつくる。それから専門領域に進む。戦後につくられた大学の教養課程ももともとは旧制高校的なプログラムのために設計されたものだったはずです。でも、大学の大衆化によって機能不全に陥った。知的協働のための作法を学ぶ機会が今の高等教育にはない。鷲田さんはそのことに危機感を持って、CSCDを通じて「教養課程の再構築」を考えていたのではないでしょうか。

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コミュニケーション能力とは「何もないところに回路を通すこと」

コミュニケーション能力というものは、勘違いしている人が多いけれど、すでに成立しているコミュニケーションの回路の上に適切な情報を円滑に流していく能力のことではありません。コミュニケーションが成り立っていない局面で対話の回路を立ち上げることです。ある種の「力業」なのです。でも、最近の若い人たちは、どうもコミュニケーション能力というのをコミュニケーションの回路を立ち上げる創造的な作業だということを知らないように見えます。コミュニケーションというのを「理解と共感で結ばれた関係の上に成り立つもの」だと思っている。もちろん、そんな関係は出来合いのものとして転がっているはずがない。自分で手作りするしかない。でも、そのやり方を知らない。学んだことがない。だから、仲間とハイテンションで、途切れなく「どうでもいい話」をすることで「深い理解と共感」で結ばれている「ふりをする」。そうでなければ、一人黙って、誰とも口をきかず、やかましく「友だちのふりをしている連中」を軽蔑する。そういう極端なかたちに二極化しているように見えます。

にじり寄るように他者との距離をつめ、「取り付く島」を探ってじわじわと言葉が通う回路を作り上げる能力がコミュニケーション能力なのです。コミュニケーションの場というものは誰かが用意してくれるものではない。私は語るべきコンテンツは持っている。だから、誰か「コミュニケーションの場」を作って持って来いというわけにはゆきません。もう一度言いますが、価値のあるコンテンツを流暢な語り口で告げることがコミュニケーション能力なのではありません。言葉が行き交う場を立ち上げるのがコミュニケーション能力なのです。

他者は原理的に理解不能、共感不能の存在です。いつだってコミュニケーションは部分的、一時的にしか成功しません。だから、「ふつうに」話していたのでは、言葉は通じません。「いつもはしないこと」をしないと、他者との距離は縮まらない。

秀才のコミュニケーション能力が低いのはそのせいです。彼らは教えられた問いと答えをセットで暗記できる力を知的能力だと思っている。だから、正解がわからない問いの前ではフリーズしてしまう。誤答を怖れるあまりに、間違えて恥をかくくらいなら何もしないという解を選んでしまう。でも、「正解がわからないから何もしない」という人には途絶したコミュニケーションの回路を通すというような芸当はできません。

コミュニケーションは「いつもはしないこと」をしないと開始しない。でも、どのような「いつもはしないこと」をすればいいのかは誰も教えてくれない。それは自分の直感で選ぶしかない。私たちが入学式のあと、見知らぬ新入生たちの中から「この人と友だちになろう」と目星をつけた相手に、どういう話題をどういう口調で切り出すか、そんなことにマニュアルはありません。直感を信じるしかない。

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予見できるイノベーションはない

僕はCSCDの評価委員ですが、実は本当に評価が嫌いなんです。本心を言えば、まるで無駄だと思っている。「どうですか?」「うん、なかなかいいね」「うん、ちょっと問題あるね」くらいでいいんじゃないかと思っています。研究教育機関の質は、何年か経ってからそのアウトカムを見ればおのずと社会的評価は定まる。それまで待てばいい。なぜそれまで待てずに単年度とか数年で評価を決定しようとするのか。アカデミアには単年度の評価になじまない部門がたくさんあります。全ての部門が毎年新しい問題点を発見して、毎年新しい解決方法を適用するなんて、どうしてそんな狂躁的なことをしなければいけないのか、僕には正直言って理解できません。組織の根幹部分の点検なんか十年に一度くらいで十分じゃないですか。

学術的アウトカムというのは予見不能なんですよ。「投資と収益」というビジネスタームで語れるものじゃない。イノベーションは予見不能だからこそイノベーションなのであって、ブレイクスルーというのは、既存の枠組みを破壊して、システムに乗っかった既得権益者をうっかりするとまるごと失業させるからこそのブレイクスルーなわけです。そんなものが既存の仕組みの中で計画的に生み出せるはずがない。

イノベーションっていうのは「みんな、まあ好きにやってくれ」とマッド・サイエンティストたちを放し飼いにしておく以外に仕掛けようがない。放っておくと、勝手に予想外の化学反応が起こって、そこから前代未聞のものが始まる。計画的にできるものじゃないんです。鷲田さんのような「好きにやってくれよ、責任はとるから」というな人が管理部門にいるときに組織はイノベーティブになるんです。


30年やり続けることの意義

教育プログラムは朝令暮改すべきものではありません。教育のアウトカムも学術と同じで、10年20年続けてみないと何が出るか分からない。自分が受けた教育の意味は卒業時点では計測できない。卒業した後も、毎年のように回顧的に書き換えられていくわけです。新たな経験をするたびに自分が学んだことの意味は上書きされて、評価は変わり、記憶は改変される。大学の時受けた教育の意味は「こんなこと」だったのかと得心するのは、まあ30年後じゃないでしょうか。それくらいでやっと評価が安定してくる。それまでは評価は乱高下します。卒業時点では自分が受けた教育についての評価は高すぎるか低すぎるかどちらかで、それが長い年月を経てだんだんと補正されて正確になる。

ですから、CSCDも10年目だということですけれど、あえて自己評価しないというのも一つの見識ですよね。あと20年後を見てくれ、と。


(聞き手:八木 絵香/大阪大学CSCD准教授)