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CSCDスペシャルコラム

「ひとごと」と「自分ごと」のあいだ〜中之島哲学コレージュ「絵本で死について考える」

青木 健太(大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)

「ひとごと」と「自分ごと」のあいだ〜中之島哲学コレージュ「絵本で死について考える」

文学研究科の青木さんは、2014年からアートエリアB1で、絵本を通して死を考える試みを続けてきました。青木さんが死というテーマに取り組むのはなぜなのでしょう? そして、死についての対話を可能にする、絵本や中之島哲学コレージュの特徴とは?

青木 健太(あおき けんた)

大阪大学大学院文学研究科博士後期課程。臨床哲学研究室で、ハイデガーの思想を手がかりに「死」について研究する傍ら、空掘哲学カフェや中之島哲学コレージュなど、街中で哲学対話を実践する。


京阪なにわ橋駅には「アートエリアB1」というオープンスペースがあります。壁やパーテーションによる仕切りはなく、駅のコンコースの一画に設けられた場所です。

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このスペースを使って、「中之島哲学コレージュ」というイベントが開かれています。各回ごとにテーマを提案する人がいて、そのテーマついて集まった人たちが話し合います。予約も参加費もいらないこのイベントには、色々な理由で人々が集まります。テーマに興味があったから、話し合うこと自体が好きだから、誰かの話すことをじっと聞きたいから、たまたま都合がよかったから。バラバラの理由で来た人々は、それぞれの観点でテーマについて考えます。そうした人々の対話によって、様々な方向からテーマが描き出されていきます。


中之島哲学コレージュ

アートエリアB1で、大阪大学が提供するトークプログラム「ラボカフェ」のなかのシリーズのひとつ。総合コーディネーターは、本間直樹(CSCD准教授)。共催:カフェフィロ。

中之島コレージュのサイト


私はこの中之島哲学コレージュで、いくつかのテーマの進行役をしてきました。その中でも、「絵本で死について考える」というスタイルのものが回数を重ねてきています。イベント開催時のテーマとしては絵本のタイトルを使っていますが、スタイルは共通するので「絵本で死について考えるシリーズ」とここでは呼ぶことにします。

私は哲学を専攻し、哲学の中で死について考えています。私がいつも参考にしているのは、ドイツの哲学者M・ハイデガーが『存在と時間』で死について議論しているところです。普段の私たちにとって死はどこかの誰かにおきるいわば「ひとごと」で、私たちがいわば自らのこととして死に向き合うことはふつうないと彼は言います。彼が言うことをヒントに、「ひとごと」ではないいわば「自分ごと」として死について考えるということの難しさについて、私は考え始めました。

私が死について考えていると言うと、それを聞いた人が驚くということがしばしばあります。病気をしているわけでもない若い人は、死について考える必要がないと思われているのでしょう。そして、私にはその反応が「死はあなたと関係がないことだ」という意味に思えて、除け者にされたような気分になります。一方、私が死について考えているということを深刻に受けとめて、戸惑う人もいます。この人は、私が見た目の健康さに反して精神を病んでいると理解したのです。死について考えることと死にたいと思うことはイコールではないだろうと思いつつ、それでもやはり死が私自身と無関係だとも思えません。

命の危険にさらされることや、身近な誰かが亡くなることほど、死が「自分ごと」として身近になることは他にないでしょう。しかし、そのときにしか「自分ごと」としての死に出会わないのだとしたら、「自分ごと」として死について考える人は何らかのかたちで死が身近な人に限られます。逆に言えば、そういった状況にない今の私は「自分ごと」としての死と何の関わりもなく過ごしているかのようになります。生き物である以上、死をただの「ひとごと」ですますことはできないはずにもかかわらず。では、だからといって死について考えれば死は「ひとごと」ではなくなるのか。病のゆえに死を身近に感じる人とそうでない私とでは、死について考えるとき何が違うのか。

こうしてたどり着いた「死について考えるとはどういうことなのか」という問い。「死について考える場所をつくる」という意味でこの問いに結びついているのが、私にとっての「絵本で死について考えるシリーズ」です。

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「絵本で死について考えるシリーズ」では、これまでに『100万回生きたねこ』、『だいじょうぶだよ、ぞうさん』、『わすれられないおくりもの』、『死神さんとアヒルさん』、『さいごのぞう』、『ウラオモテヤマネコ』の6冊をとりあげてきました。どの絵本も何らかの形で死が物語中に現れる作品です。たとえば、『だいじょうぶだよ、ぞうさん』は仲のいいネズミとゾウの物語です。年老いて弱っていくゾウをネズミが助けながら一緒に暮らし、最後にゾウは年老いたり病気になったゾウが行かなければならない「ゾウの国」へ行きます。ネズミはゾウがそこへ行く手助けをし、見送ります。この絵本の回ではゾウとネズミの関係をもとに主に「看取り」について考えました。ゾウの立場から最期のときまでの過ごし方を考える人、ネズミの立場から寄り添うことの意味を考える人など、参加者それぞれに気になったところを考えて対話をしました。

このシリーズの中で、私は絵本の絵と文のどちらにも独特な性質があることに気がつきました。そして、それは「死について考えること」ができるようにする力をもっていました。

ほとんどの回で絵は表紙絵を見る程度で残りの絵は見ず、物語の大まかな内容だけを共有するというかたちをとります。それでも絵本の物語だという前提があるので、参加者は自分なりに絵を思い浮かべながら物語の展開を追っていきます。作家さんの協力があって、動画として絵本を最後から最後まで絵も含めて見ることのできた回もあります。

参加者がおのおのに自分で絵を思い浮かべている場合はもちろんですが、みんなで絵を見ている場合も「同じ絵を見ている」とは言い切れません。たとえば、描かれているものの大きさが場面によって全く違うことに、気づく人もいれば気づかない人もいます。思い浮かべるにしても、実際に見るにしても、絵本の絵は見る人の自由な見方をある程度受け入れてくれます。

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文にも似たような傾向があります。絵本の文は、詳細な描写を控えた語りすぎることのない言葉でつくられています。整合性のある理解を求めるのではなく、最低限の素材を与えて読む人に想像を促すような文になっています。語りすぎることのない文は、読む人が物語を自分なりにアレンジすることを許容してくれます。

絵も文も正しい解釈を求めるのではなく、読む人がその人なりの物語への入り方をして考えることを促しています。これが対話の題材になったときの絵本の特徴です。

実際のところどうかというと、参加者の物語への入り方は大きく二つあります。ひとつは、自分の経験を絵本に重ね合わせて考えるというものです。この入り方をする人は、絵本を手掛かりにして自分自身の経験を思い出し、そのとき自分が何を思っていたか、いま自分は何を思うかを言葉にしていきます。もうひとつは、絵本をそこに描かれていることから解釈していくという入り方です。まったく自分のことをさしはさまずということもないかもしれませんが、この入り方の人は自分の経験と重なるかどうかに関わらず絵本を読み解いていきます。

絵本の物語を自分と結びつくものとして考える人と、とりあえず自分と直接結びつけずに考える人。両者は入り方こそ違うものの、同じ絵本について考えている。だから、自分自身の事として考えている人とそうでない人の間であっても、お互いの語りを結びつけることができます。

そして、絵本のこうした特徴が「死について考えること」への入り口を開きます。いまのところ死が身近でない人であっても、絵本の中の想像上の出来事として死について考えることができます。その一方で、自分の死か他人の死か、いずれにしても死と向き合っている人が自分のことを重ね合わせて考えることもできます。この両者が同じ絵本について語り聞きます。たとえば、ファンタジーとして死について考えていた人は、より身近な出来事としてそれを語る声を聞くかもしれません。たとえば、身近な死について考えていた人は、近すぎて見えなかったことを自分とは異なる視点から語る声を聞くかもしれません。こうして、絵本をとおして死についての対話が繰り広げられます。

死についての対話にとって絵本がもつ力は大きいのですが、その力は中之島哲学コレージュという場を支えにして発揮されていると思われます。そこでは発言を義務づけられることがなく、たどたどしい語りも、それまでの話の流れをひっくり返す言葉も歓迎される。必ずしも個人的な経験に結びつけて話さなければならないことはなく、だからといって一般的な語りだけが求められることもなく。そして、ただ聞くに徹するとしても消極的だと咎められることはなく、何も考えていないともみなされない。同じテーマについて考え、語り、聞くことをするのであれば、あとのことはその場にいる人々に委ねられる。こうした、中之島哲学コレージュという人々の集まり方が、絵本の力を引き出し、深さと広さのある対話を成り立たせます。絵本は死をテーマにすることを可能にしますが、さらに死についての対話ができるためには中之島哲学コレージュのような場が必要です。

「ひとごと」なのか「自分ごと」なのか最初から割り切らなくても対話できる。自分に関係があるとはっきり言い切れる人もそうでない人も一緒に考えられる。中之島哲学コレージュには、そういう場所としての意義があると私は考えています。「ひとごと」と「自分ごと」の曖昧さのあいだで漂っていることは、死以外にも人それぞれにあることでしょう。それらの中には、確実に「自分ごと」として向き合わなければならないときがくるものがあるかもしれません。しかし、そのときが来る前にも、できるだけ「自分ごと」に近づけて考えられないか。こうした問いに応じ、「実際のところどうなのか考えてみよう」と集まることのできる場所が中之島哲学コレージュなのです。

自分に関係あるとかないとかではなく、まず考えてみようという場所。中之島哲学コレージュが開かれるアートエリアB1が、空間的な仕切りをもたず周りの世界から隔絶されることなく存在していることは、意味のないことではないのでしょう。

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