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べんきょうしただけではなにもわからない、
うごいてみることがだいじです
かいせつ:いけだみつほ
■ゲーテというおじさんは、かつて「勉強しただけでは何も分からない。動いてみることが大事です」ということをいったそうです。ニーチェというおじさんは、こんなことをいいました。『私は身体であり、私は魂である』――こんなふうに子供は話す。大人が子供たちのように話してならないという理由はあるだろうか。そんな理由はないよ」。
■他方『聖書』には、次のような言葉があります。「小さい子供だったとき、私は小さい子供のように話しました。小さい子供のように思いました。そして小さい子供のように考えていました。大人になった今、小さな子供であった事を忘れてしまった」(コリントの信徒への手紙第13章11)。聖書のこの言葉は、その直前の言葉(「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」)から子供はまだ完成していない、つまり、子供は未熟だ、という大人中心の考え方を反映したものですが、ここでは大人が、子供のことをぜんぜん分かっていないことが(あるいは分かっているのに無視することが)昔から続いてきたことが分かります。
■私たちの身の回りの大人を見てみましょう。大人は勉強しなさい、憶えなさいと言います。たしかに、憶えることは大切です。かけ算の「九九」のように憶えることは便利で役立つことです。だけど、もっと重要なことは、私たちが何かを思い出すとき、それは身体から出てきたり、心の中のイメージと深く関連づけられているということです。さらに、もっと大切なことを言います。皆さんは、分からないことがあると「図書室に行って調べてみよう」と先生はおっしゃいますね? 図書室の司書の先生は、調べものをお願いすると「子供用の百科事典をまず調べましょう」と教えてくれます。図書室や子供用の百科事典は、私たちのかわりに、ものを憶えてくれる、もうひとつの身体です。
■図書室や子供用の百科事典がないと困りますねぇ。だって誰も図書室の百科事典のように物知りではないからです。昔、図書室や百科事典が無い時、学校の生徒は先生や大人、あるいは物知りの年寄りのおばあさん、おじいさんが頼りでした。今は、図書室や子供用の百科事典があります。そしてコンピューターやインターネットがあります。大事なことは、物事を知るということは、単に知識を頭のなかに詰め込むだけでなく、どこにその知識の在処があるのかということ。そして、憶えるということは、憶えた時の動作や場所にも関係するということです。どこに、その知識があるか、誰がその知識を知っているのか、私たちの身体を使ってよく探すことです。このような見方によれば、身体(からだ)は知識をさがす道具であると同時に、知識そのものなのです。
【ふるい ばーじょん】
■ ゲーテという おじさんは、かつて「べんきょうしただけではなにもわからない。うごいてみることがだいじです」ということをいったそうです。
■ ニーチェというおじさんは、こんなこと※をいいました。
「わたしはからだであり、わたくしはたましいである」
こんなふうに こどもは はなす。 そして、おとなが こどもたちのように はなしてはならない りゆうというものは あるだろうか(そんなりゆうは ないよ)。※
※ニーチェ『このようにツァラトゥストラは語った(上)』吉沢伝三郎訳、講談社、p.65、1971年を、引用者が子ども語ふうに訳しました。
◆ たほう 『せいしょ』 には、こんな ことばが あります。
「ちいさい 子ども だったとき、わたくしは、ちいさい子どものように はなしました。ちいさい子どものように おもいました。ちいさい子どものように かんがえていました。 おとなになったいま ちいさな こどもであったことのことを わすれてしまった。
※コリントの信徒への手紙第13章11を、引用者が子どもふうに訳しました。この直前の10の文章は「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(新共同訳)とありますから、これは完全に子ども=未熟説という大人中心主義の立場をとっています。
せいしょの おしえは、こどもは まだ かんせいしていない、つまり、こどもは みじゅくだ、という おとな ちゅうしんの かんがえかたですが、ここでは、おとなが、こどものことを ぜんぜんわかっていないことが(あるいはわかっているのに むしする ことが)むかしから つづいてきた ことが わかります。
● わたしたちの みのまわりの おとなをみてみましょう。おとなは、べんきょうしなさい、といっていろいろなことをおぼえなさいといいます。
■ おぼえることはたいせつです。かけざんの「くく」のようにおぼえていることはべんりなことです。
● だけど、もっとたいせいせつなことは、わたしたちがおもいだすとき、それはからだからでてくるものなのです。ということはおぼえているときも、からだにおぼえさせているということなのです。
■ さらに、もっとだいじなことをいいます。みなさんは、わからないことがあると、せんせいは「としょしつにいって、しらべてみましょう」とおっしゃいますね?
● としょしつの、ししょのせんせいは、しらべものをおねがいすると、「こどもようの、ひゃっかじてんをしらべましょう」とおしえてくれます。
■ としょしつや、こどもようのひゃっかじてんは、わたしたちのかわりに、ものをおぼえてくれる、もうひとつのからだです。
【大人の方に解説】図書室において、さまざまな書物に囲まれたなかで情報収集する活動も、また私の見解では「学習」の範疇に入っています。[→電脳人類学大学附属図書館]
● としょしつや、こどもようのひゃっかじてんがないと、こまりますね。だってだれも、としょしつやひゃっかじてんのように、ものしりではないからです。
■ むかし、としょしつやひゃっかじてんがないとき、がっこうのせいとは、せんせいや、おとな、あるいはものしりのとしより(=おじいさん、おばあさん)がたよりでした。
● いまは、としょしつやこどもようのひゃっかじてんがあります。そして、こんぴゅーたやいんたーねっとがあります。
■ ここで、だいじなことは、ものごとをしるということは、ひとりだけで、たんによくおぼえていることがたいせつなのではなく、どこに、そのちしきがつまったばしょがあるか、よくさがすことです。
● としょしつ、ひゃっかじてん、いんたーねっと、ものしりの、おばあさんやおじいさん、このようなものがどこにあるのか、それについてよおくしっている、せいとが、もっともよく、ものごとをしっているせいとです。
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