はじめによんでください

イバーンクにおいては可か?

マーシャル・マクルハーン(Herbert Marshall McLuhan, 1911-1980)に捧げる

池田光穂


サイバーパンクにおいて倫理は可能か?:出典情報末尾にあります[リンク

(c)池田光穂, 2000

 私は「サイバーパンクにおいて倫理は可能か」という問いを考察することにする■1。このためには「サイバーパンク」および「倫理」という言葉の意味を定義することから始めるべきだろう。しかし、これらの定義が言葉の標準的な用法を可能なかぎり反映するように工夫をこらすことはできようが、この態度には問題がある。もし「サイバーパンク」および「倫理」という言葉の意味が、ふつうどのように使われるかを考察することによって見いだされるのであれば、この問いとその答えは、たとえばNHK世論調査において探究すべきであるという結論にならざるをえない。だが、このような世俗的一般化は、答えを多数決で求めるようなものであり、意見の相違を論争によって議論し、そのような活動が多様性をもちながらも一般性を確保するという、今日の社会科学が求められている要請に答えるものではないように思われる。私は、そのような定義を立てる方法を断念して、問いがおかれる複数の文脈を想定することで、問いがもたらす意味について考えよう。具体的には複数の社会環境を想定して、それを上記の問いに関連づけて解釈することである。この新しい想定のもとでの別種の問いによって、最初の問いがもつ、ある種の行動主義、ある種の操作主義、さらにある種の検証主義を基礎にした独断から自由になろうという、私の意図があるからだ。


 問い1:インターネット上での出来事は、はたして我々の社会の出来事と別の次元の事柄だろうか?


 この質問は、これに先行する数々の社会現象が直面した議論と同じものである。つまり猥褻が文学上の表現としてどこまで容認されるかという裁判や、犯罪人の責任能力を証明する際に、想像と現実の峻別能力を鑑定するといった議論である。

 この問いに対して、インターネット上での出来事は、それ以外の社会現象とは別の次元のことであると答えを出せばどうだろうか。この相対主義の立場は、すぐに論理的に破綻する。いま仮に別の現象であると想定する。そうすると別の世界や社会に行動原理とそれに関する規約ならびに逸脱が定義されるのと同じように、ネット社会にもそれに類した諸制度(institutions)があると考えられる。ネット社会は我々がつくりあげたものであり、独自性をもちながらも、我々の規範というものが一部においても投影されている。これは先の仮定と矛盾する。したがって答えは否である。経験的事実を前提にして反対の命題が否定されたからだ。ネット上での出来事は我々と同じ次元の世界の出来事である。それゆえ我々と同じ道徳や倫理の法則性が適用されなければならない。ネットにおける社会問題は、それまでの我々の社会が直面したことのない新規の問題を多く含むが、我々の対処の姿勢はそれまでの社会問題に対する姿勢の延長上に位置づけられねばならない。インターネットの導入にともなう問題の対処は、まず既存の知識と倫理を動員しておこなわれるべきであり、それでも対処できない問題は、その知識的伝統にもとづいた議論の拡張によってのみ対処されるべきであると考えるのである。

 もっともこの考え方には限界がある。我々が対処してきた問題の範囲を超える新種の問題に対して、既存の対処方法そのものの限界が露呈し、それにたいする不信感が表明されたとき、我々はそれまでの社会問題への対処というものが、論理整合性によってではなく、慣例化され社会的機構やそれがもたらす権威によって遂行されてきたかという、驚くべき事実に直面するからである。もっともあるものの社会的権威が失墜する際には、常識が非常識になり、非常識が常識になることを我々は日常生活において経験している。また、そのような心理的不安の感情は論理の限界や権威の失墜の後にうまれるものというよりも、社会的権威の交代を促進させる要因であるとも思える。サイバーパンクの認識論によれば、インターネットが現実の運用規則に則って倫理的に管理されなければならないという命題は、論理的に逃げ道のない完璧な論証というよりも、ネットを管理する現実社会から押しつけられたものにすぎない。ネット社会と現実社会の倫理を峻別する相対主義は、論理整合性に準拠すべきだという現実原則から自由になろうとする政治的主張に他ならない。


 問題2:インターネット上で、倫理や道徳があるとするならば、それはどのようなところに規範が求められるのだろうか?


 規範の存在は、そこからの逸脱を暗黙のうちに想定している。逸脱の社会的定義は制裁によって明確に境界づけられるというのが機能主義的な考え方である。インターネットでおこっている事柄が現実社会の運用規則に抵触しない場合は、それ自体が問題になることはない。だがインターネットを生きている人たちは、慣習法則に則って自分の身の回りに道徳を構築している。道徳が慣習にゆらいする由縁である(池田 1994)。そこには多様な解釈の共同体が存在する。意見の相違は人畜無害な学問的議論や世間話のレベルで終わることが多い。ただしその問題が一種の客体化をとげて、我々の行動を拘束したり、感情を励起するようになると、現実の社会問題化され操作可能になり、またその問題が以前から存在してきたかのように当事者に意識されるというのが社会構築主義的な考え方である。

 これらの社会理解の図式は、インターネットをめぐる社会現象の分析にも大いに貢献している。最もわかりやすい事例はインターネットを利用したり、インターネットから影響を受けたと報道されている犯罪である。このことについてはヴァーチャル・リアリティが人間性を崩壊(あるいは解放)させるという空想的な議論から実際の法の運用の議論まで山のようにされているので、これ以上言葉を重ねることはしない。これらの議論の多くには「〜は良くない」あるいは「〜すべきである」という価値観が込められていることが多い■2

 さて、それに比べて取締の関連当局の実践はきわめて明確で健全にすら思える。その典型を通信傍受法と不正アクセス防止法にみることができる。前者は、犯罪を防ぐという目的で当局がおこなう、情報に対する<不正なアクセス>を合法化する、あるいはその違法性を阻却する要件を設定し、後者は<不正なアクセス>一般を禁止するというものである。これは通常の私有財産を保護する市民社会の規範を再演したものに他ならない。つまり家宅捜索の権限を定める刑事訴訟法と窃盗や家宅侵入を処罰する刑法の関係に類推できる。これに反対する者は、既存の法体系――阻却などの例外条項を持ち込むようなものをはたして<体系>などといえるのかという問題はさておき――というものがインターネットが潜在的にもつ独自性というものを全く無視したものであると批判するであろう。しかし、それらは、既存の秩序をどう維持していくのかという立場と、一種の社会創造の想像力の源泉としてそれをどのように活用していくのかという立場の違いなのである。


 問い3:サイバーパンクについて何を問うのか?


 サイバーパンクという語の由緒はBruce Bethkeの同名のタイトル短編(1980)に遡れ、この種の小説ジャンルの創設者のひとりW・ギブスン(1948〜)の作品(1986)によって流行語として社会に定着した(TechTarget.com 1999)。この用語と概念についての議論は、英米の現代文学や文芸批評からコンピュータサイエンス、さらには社会思想史まで広がりをもっている。しかし、ここで焦点を当てるのはサイバーパンクあるいはサイバーパンクの概念が、インターネット時代の新しい思潮、いわゆるポストモダニティを表象する新しい概念というよりも、実際はより近代的な主体の概念を基礎にしていることを示唆することにある。

 サイバーパンク(cyber-punk, cyberpunk)というのは、コンピュータあるいは自動制御の用語であるcyberと、非行少年や青二才をあらわす俗語punkの合成語である。cyberが接頭辞となって英語に流布するようになったのは言うまでもなくN・ウィーナーのサイバネティクス(cybernetics)であり、これは通信と制御についての学問を彼が提唱した際に用いられた言葉だった(ウィーナー 1957)。サイバーの語源はギリシャ語の操舵手あるいは統治者(kuberne-te-s)に求められる。ウィーナーがなぜこのような造語をおこなったかというと、それは彼の「情報」の定義と密接に関係しているからである。情報とは、個体が外界に適応しようと行動したり、行動の結果を外界からえる際に、個体が外界と交換するものの内容のことをさす。サイバーという用語が、後にcyberspace や cyberphobia(コンピュタ恐怖症)のようにインターネットやそれに繋がるコンピュータを明示するようになったのは、サイバーに行為主体(=操舵手)としての意味を持たせようとしたウィーナーからみれば不本意であっただろう。その意味で、奥出直人がサイバーパンクを「頭脳の構造を探るような高度なテクノロジーをマスターし、それを自分のためだけに使う連中」と説明した時、それは言葉が最初にもっていた意味を復活させたと言える(奥出 1990:158)。サイバーパンクはテクノロジーの発達と切り離せない。文学作品ではサイバースペースの中に自我が侵入するとまで表現される。そのためサイバーパンク小説が「技術的に増強された(technologically-enhanced)文化的諸体系において周縁化した人々」を取り扱うと定義されていることは、サイバーパンクという概念が、人間のある種のカテゴリーをさすと同時に、そのような人びとが担ったり拘束されもする社会性=文化をも包摂する概念であることがわかる(Frank 1998)■3


 問い4:サイバーパンクは抵抗者たりえるか?


 サイバーパンクは、技術的に増強された周縁化された人びとであり、かつ彼/彼女たちが担う文化でもある。サイバーパンクが、しばしばハッカー、クラッカー、フリーク(phreak 電話マニア)といった一連の人のカテゴリーをさす用語と並んで称されることも、サイバーパンクの社会的周縁性を象徴している。

 サイバーパンク現象が、1960年代後半に世界中の先進諸国を席巻したカウンターカルチャーの運動に起源をもつものだろうと指摘することはそれほど困難なことではない。カウンターカルチャーの担い手こそが、技術革新などの産業社会の恩恵を受けながらもその成長の神話に対して最初に疑念をもった抵抗者(resister)たちだったからである。  この抵抗者たる人たちの特徴は、人間の精神の可能性を開放するためには、産業社会の諸矛盾に対してまず反抗しなければならないという綱領を掲げていたことである。当時、青年の反抗について分析したK・ケニストンは、それを次の二類型に分類する。ひとつは、ドロップアウトであり、これは非政治的で、状況から退却する指向をもつ。他方ラディカルズは、政治的で、状況にコミットメントする指向をもつという(ケニストン 1977)。

 カウンターカルチャー運動の担い手は、1960年代のドラッグカルチャーと親和性をもつことはよく知られた事実である。ドラッグカルチャーの様態を、ケニストンの反抗の類型にしたがって分類すれば、現実世界からの退行であるドロップアウトに位置づけられよう。しかし、現在の我々はその2つの類型が相互に排除するものではなかったことを知っている。米国においてインターネットの礎を築いたカウンターカルチャー出身の革新者たちのほとんど――例えばテッド・ネルソン、アラン・ケイ、スチュアート・ブランドなど――は1960年代のドラッグ体験者である。反抗の様態を人生の時間の中で位置づければ、反抗を通して状況にコミットすることは必ずしも非政治的姿勢を貫くことと矛盾せず、また世間から退却することが政治的メッセージにもなりうるわけである。サイバーパンクの技術的基盤を整備した若者たちが、社会による個の抑圧というテーマと深く結びついていたことは間違いない。

 ドラッグを技術というツールに置き換えてみると、それはサイバーパンクと見まごうばかりである。ドラッグカルチャーの教祖的存在、例えばハーバード大学を追われたティモシ・リアリーは、巨大技術が人間を支配する構図を否定し、ドラッグを含めた技術全般を各人が自己を解放するために利用すべきだと考える。このメッセージが極端にユートピア的かつ反権力であっても、そこには自己の身体と精神を律する主人公としての主体を想定する姿勢が見えてくるはずである。


 問い5:個と社会をどのように位置づけるのか?


 19世紀末からの社会理論のなかで論じられてきた重要なテーマのひとつに、個(個人)と社会の関係をどのように位置づけるかという議論がある。その際に、個を主体やエージェントと呼んで、社会は構造と呼び代えるもよい。このような関係には従来大きく分けて3つの見解があるといわれてきた(『社会学中辞典』1996)。

 まず、社会や構造は個人に対して決定的な力を有するものではなく、個人が自分を取り巻く社会を創造してゆくことを強調すべきだという立場である。いわゆる方法論的個人主義、社会学のエスノメソドロジーなどはこの立場にたって議論をおこなう。この個人中心主義的な考え方を押し進めれば、社会構造というものは、個々人が心にいだく心的表象以外の何ものでもないという主張になる。このような個と社会の関係においては、社会そのもの存在理由を極小化する<物体としての個>の唯物論ともいうべき議論があった。17世紀の社会哲学者ホッブスのコナトゥス(conatus)の議論によれば、この世の中に存在するものは物体とそれがもたらす偶然性のみである。さまざまな社会現象や人間の精神に纏わる諸体験は、物体に内在するとされる自己保存=欲望(英語ではendeavourとも訳される)すなわちコナトゥスの現れにしかすぎない(Pietarinen n.d.)。このような議論はコナトゥスの代わりに遺伝子やミーム(模倣子)をおけば、今日における利己的遺伝子学説ときわめて類似したものになるだろう。

 次に、社会研究において、研究者は個々人の特性や行為を規定している社会構造のみに関心を向けるべきであり、個人そのものを取り扱う心理学とは明確に区分しようとする理論家たちがいる。その代表格はE・デュルケームであり、その影響のもとに確立された機能主義者――例えば英国社会人類学の伝統を嗣ぐ学派――である。またマルクス主義的立場も、個人よりも社会関係がその議論の中心となり、行為者はそのような舞台の中で演じる役割、つまり交換可能なエージェントというふうに解釈されている。この社会を人間本性につながる一般的構造という概念をもちだして、個に対する社会の位置を極大化させるのがレヴィ=ストロースの構造主義である。社会生物学もその流れに位置づけられる。そこには自律的な個というものは全く存在せず構造としての社会が存在するのみである。

 さらに個と社会のどちらに力点をおくのかという2つの立場の間には、その両方からの折衷的態度をとる人たちがいる。つまり個は社会に影響を受けていると同時に、個はその環境である社会に対して影響力も行使できるのだという、きわめて市民社会の常識に叶った主張する人たちである。その代表はP・バーガーとT・ルックマン (1977)である。歴史的主体や疎外の問題に力点をおいて分析するマルクス主義者も、階級闘争という概念に内実を与えるための妥協として、闘争は社会構造の強制力に対抗する行為であると捉えている。マルクス主義的な要素をもたない経済学に由来するゲーム理論もそのような弁証法的なビジョンを対象社会の分析に導入する。


 問い6:人間の主体概念をアイデンティティからエージェンシーへ移行するという事態はどのように説明されるのか?


 エリクソンによって定式化されたアイデンティティ(identity, 同一性)の概念は、登場した1950年以降精神分析学のみならず社会理論においても絶大な影響を与え続けてきた。アイデンティティとは、幼児(=個)が用意する自己定義を、他者(=社会)によっていかに承認されるプロセスとそれを基礎にした人間理解のモデルである。しかし、それが必ずしも普遍的な一般性をもつとは言い難い。というのは、エリクソンにおける個と社会の関係を論じた社会理論のうち、個が社会の影響をうけながら自己成型をとげるという前提を暗黙のうちに受け入れている。これはバーガーとルックマンの理論と同様我々の日常的常識を大きく逸脱するものではないが、だからと言って完全に証明済みの問題でもないからである。

 アイデンティティ概念は、個と社会という二元論を前提にして、個人が社会構造――機能主義者なら社会体系と言い換えてもよい――をどのように<内面化>するのかということに関心がある。そこには、個に焦点が当てられながらも社会から個をみる視点の延長上にある。個という行為主体から社会の形成という方向性をもつ視点は、アイデンティティ形成概念には未だ不足している。私は、このような可能性をもった議論としてスピバックが主張している、アイデンティティに代わるものとしてのエージェンシー(agency, 行為主体あるいは行為主体性)ついて検討したい。スピバックによるとエージェンシーとは次のように説明されている。

「アイデンティティが要求するものは、一つの性格をシェアすると思われる人々による政治的操作であり、それはすなわち役割を召喚する概念のひとつである。他方エージェンシーは説明責任のある理性に関係しているように私には思える。エージェンシーの理念は、説明責任ある理性という原理から出たものであり、各人は説明責任を持って行動するということ、意図の可能性を引き受けなければならないこと、応答責任を持つためには主体性の自由さえ想定されなければならないということである。それがエイジェンシーが位置してきた場所なのである。アイデンティティの驚くべき(miraculating)地点からひとつのエージェンシーを措定した時に、すぐに思いつくことは『エージェンシーとはいかなる類のものか?』という問いであろう。エージェンシーは、白紙の(=空の)用語である。つまり、アイデンティティからエージェンシーへの移行それ自体は、エージェンシーの善し悪しを保証するものではなく、全てを社会構築であると呼ぶためには、社会をひとつの本質とすることが必然として伴う、というアイディアを単純にも必要としていることなのである」(Spivak 1996:294)。

 このようにスピバックじしんは、アイデンティティに代わってエージェンシーを動員する理由は、アイデンティティの社会構築という立場を批判する、つまり社会という本質=係留点を不可欠にするという以上には強い動機がないことを示唆している。スピバックが提案するエージェンシーの概念は、理論としては定義が曖昧で、正確な概念操作に不向きであることは言うまでもない。エージェンシーをマルクスの疎外についての議論を前提とした、かつて一世を風靡した<革命的主体>とさほど変わりないという批判も容易に思いつく。だが、それがアイデンティティを批判する、あるいはそれにとって代わる(alternative)ものとして提案されていることを思い起こせば、その意義は深いものとなる。つまり、これは構造主義以降の社会理論における行為者の復権についての一連の議論(e.g.ブルデュ 1988)の延長に位置づけられるからである。

 エージェンシーとアイデンティティを、先にのべた個と社会の関係についての議論と関連づければ次のような図式に整理できる。

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(identity) 社会→媒介→個人

(agency) 社会←媒介←個人

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 ここで個人と社会の間に<媒介>という用語が挟まっているので補足説明をしておく。社会が個人の心的表象に影響すると言っても、実際はデュルケームの集合表象のように、それが個人の内面にシャワーのように直接降りかかるわけではない。儀礼の実践が理解される時には身体所作や儀礼の小道具のような介在物つまり<媒介>がそこには実在する。そのような物理的な介在物が必ず媒介している。言語というものは、そのような媒介のうち物質性が極限まで縮減したものである。


 結 論


 これまでに論じてきたことを整理しよう。

 まず、インターネットを現実社会の規範の反映として管理して取り締まりたい権威から見れば、サイバーパンクは明らかに倫理を逸脱した犯罪者あるいは犯罪行為に映る。他方、外部から押しつけられる規範に抵抗する実践としてサイバーパンクを位置づける者からみれば、それは英雄的行為あるいは抵抗主体(resister)に他ならない。

 その際に問題になるのは、犯罪者とはアイデンティティなのか、エージェンシーなのかということである。質問を言い換えると、犯罪者はアイデンティティとしての性格を持つのか、エージェンシーとしての性格をもつものだろうかということである。犯罪者とは、犯罪と認定される個別の実践をおこない、それが犯罪として認定された結果、ラベルとして機能する集合的範疇である。それは社会の裁可=裁定(sanction)によって、個別の実践から抽象的に構成される概念である。したがって、犯罪者にアイデンティティ的性格があるとすれば、それは社会が個人に対して、概念を注入するという社会現象から帰結する。したがって犯罪者にはエージェンシーという性格を帰すことは困難である。全く逆の意味において、サイバーパンク――行為主体であると同時に行為実践そのもの――はアイデンティティとしての性格をもたせることは困難であり、むしろそれはエージェンシー的性格を有する。

 エージェンシーが役割概念から召喚されるものではなく、行為実践に対する応答責任という性格づけをおこなうという観点からみるとエージェンシーが倫理を実践の根拠におく主体であることは明らかである。したがって標題の質問「サイバーパンクにおいて倫理は可能か」という質問は「可能である」ということになる。もっともそのような倫理とは、個人の外部から定義づけられる――つまり犯罪者としてのアイデンティティを強制する制度による――強制力に抵抗する途上における自己形成という意味においてであり、複数の倫理が存在するという前提にたった上ではじめて可能になる議論である。

 サイバーパンクとは、現代文学あるいはインターネットのパワーユーザーにおいてうち立てられた虚構であり、実際に存在するものではなく、ネット上で仮想にその存在が<予言>されてきたものであった。サイバーパンクに倫理が可能かについて論じられた後に必要になるのは、サイバーパンクは存在可能か、という議論である。しかし、我々が冒頭に述べた狭量な実証主義(「ある種の行動主義、ある種の操作主義、さらにある種の検証主義」)的な脅迫観念から自由になれば、我々はサイバーパンクの可能態についての議論に専心すればよく、サイバーパンクは存在可能かという愚問に拘泥しない分、我々は月夜には安らかに眠ることができるのである。



1)冒頭のこのレトリックは、チューリング・テスト提唱のきっかけになったテューリング(1992[1981])の論文から借用されている。(本文に戻る)

2)だからと言って価値中立な実証主義がインターネットの倫理についての正当な議論を保証するわけでもない。価値中立を表明する実証的な立場は、そこから距離を取るという、別種の価値観を表明しているからだ。(本文に戻る)

3)これはサイバーパンクを指し示す別の定義にもなる。この段落は、サイバーパンクの辞書的解説(→リンク)のページに展開しています。(本文に戻る)


文献


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http://www.whatis.com/cyberpun.htm(現在繋がりません)

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『サイバネティックス : 動物と機械における制御と通信 』池原止戈夫, 彌永昌吉, 室賀三郎訳、東京 : 岩波書店



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