はじめに 読んでね   池田光穂

 マーガレット・ミード 

Margaret Mead, 1901-1978

解説:池田光穂

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マーガレット・ミード】【Margaret Mead】[サイト内:マーガレット・ミード(1901-1978)年譜
1901 フィラデルフィアで生まれる(12月16日)


1900 フランツ・ボアズ、アメリカ民族学会を復興
1905 ボアズ、コロンビア大学に正式に就職(-1937年)
1909 『クワキウトル・インディアン』
1902 ルース・ベネディクト:セントマーガレット女学校入学
1905 ヴァッサー大学入学、英文学専攻。
1909 同大学卒業。10年まで奨学金でヨーロッパ旅行。
1912 ペンシルベニア州ラハスカのバッキンガム・フレンズ・スクール
1919 デポー大学
1911 F.ボアズ『未開人の心』(出版1913)
1910 ニューヨーク州バッファローの慈善事業協会(CSO)に勤務。
1911 ロサンゼルス、パサデナで国語教師(〜1914年)1913年からスタンレー・ベネ ディクトと恋愛関係に。
1914 生化学者スタンレー・ベネディクト(〜1936)と結婚。(スタンレーは第一次大戦期 に毒ガスの研究に従事し、後年後遺症に悩まされる)。小説などの創作に打ち込む。不妊症の傾向があることが判明。
1917 伝記『メアリー・ウルストンクラフト』を脱稿(41年後公刊)。当時、米国は第一次大 戦に参戦。
1918-1919 コロンビア大学でジョン・デューイによる哲学の授業を受け、感銘を受ける。デューイはNew School for Social Research の開校に関わる。
1919 ニュースクール・ フォ・ソーシャル・リサーチ(大学院)が開校する。そこでの聴講(〜21):エルシー・ パーソンズ(Elsie Clews Parsons, 1875-1941)の授業「民族学における性」、アレキサンダー・ゴールデンワイザー(Goldenweiser, Alexander A. 1880-1940)の授業「文明の基礎」をうける。

1923 バーナード・カレッジで学士号/ルーサー・クレスマンと結婚
1924 コロンビア大学修士
1925 サモアでのフィールドワーク

1926 アメリカ自然史博物館アシスタント・キュレーター/二番目の夫となるレオ・フォーチュン(Leo Fortune)とニュージーランドのオークランドで出会う。マヌス調査
1928 サモアの思春期
1929 コロンビア大学博士号
1927 『未開芸術』
1921 34歳。コロンビア大学博士課程に入学。9か月で博士論文「北米における守護霊の観 念」を審査のために提出(学位取得は23年)。
1922 バーナードカレッジで、フランツ・ ボアズの助手。マーガレット・ミードと知り合う。処女論文「平原文化における幻 視」。夏にセラノ先住民を調査(〜26年)。
1923 学位論文「北アメリカにおける守護霊の概念」。コロンビア大学で1年ごとの講師契約。
1924 ズニ調査。セリグマン「人類学と精神分析」論文(ca.)
1925 ズニとコチティの調査。Journal of Amrican Folklore の編集(〜1939)。
1926-27 バーナードでも教鞭。
1926年 マリノフスキーと出会う:「彼(マリノフスキー)は鋭い想像力と、七日間喜びを もたらす、遊びの心をもっている」(カフリー 1993:214)
1926 マリノフスキー、コロンビア大学に現る。ローマでのアメリカニスト国際会議に参加。
1927 ピマ調査(プエブロとプレーンの対照性について気づくといわれる[→文化の諸パターン])
1928 エドワード・サピアと ともに詩(アン・シングルトンのペンネーム)の原稿を出版社に送るが没となる。ニューヨークでアメリカニスト国際会議開催。
1930 『ニューギニアの成育』1930/オマハ調査
1931 アラペシュ調査、ムンドグモ調査
1932-1933 チャンブリ調査

1935 『3つの未開社会における性と気質』1935/レオ・フォーチュンと離婚。グレゴリー・ベイトソンと結婚。
1935-1938 バリ調査

Margaret Mead and Gregory Batemen typing up field notes in Papua New Guinea. 1938. Library of Congress.
1939 メリー・キャサリン・ベイトソン出生
1936 ボアズ、コロンビア大学を退職。
1930 論文「南西部諸文化における心理学的タイプ」「北アメリカにおける文化の統合形態」
1931 スタンレーと離婚。メスカレロ・アパッチ調査。コロンビア大学助教授(〜1937):Benedict, Ruth. 1931. Tales of the Cochiti Indians. Bureau of American Ethnology
1932 アルフレッド・クローバーがコロンビアに招聘され教鞭をとる。ベネディクト「文化の 型」の出版の構想を決意。
1933 「呪術」(『社会科学事典』)
1934 『文化の型』 (Patterns of Culture)/Patterns of culture / Ruth Benedict. -- Houghton Mifflin, 1934
1935 『ズニの神話』を刊行
1937 ベネディクト、コロンビア大学准教授
1938 ボアズ編『総合人類学(General Anthropology)』に宗教の章を寄稿
1939 ブラックフット(モンタナ州、カナダ・アルバータ州)調査。国民道徳委員会(ベイトソ ンやミードがいた)
1940
1942 ニューヨークにてフランツ・ボアズ死去。『バリ人の性格』(ベイトソンとの共著)出版。自然史博物館副主事。
1942-1945 全米研究評議会(National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine)の食習慣委員会の幹事長
1945 ベイトソンと離婚
1946 アメリカ自然史博物館アソシエイト・キュレーター
1948 アメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出
1948-1950 ロシア人たちの権威に対する文化および態度を研究するため、アメリカ陸軍航空軍が資金援助を行った民間の研究機関であるランド研究所にも勤務
1949 男性と女性』1949
1942 ボアズ死亡(12月21日)
1940 『人種:科学と政治』Race : science and politics / by Ruth Benedict. -- Rev. ed., with The races of mankind, by Ruth Benedict and Gene Weltfish. -- Viking Press, 1945[1940](→「人種」)
1941 食習慣委員会委員に任命。ベイトソン、ミードら、通文化関連協議会(後の通文化研究 所)を組織。
1942 Race and racism / Ruth Benedict. -- G. Routledge, 1942
1943 冊子「人類の諸人種」
1945 研究休暇中に「菊と刀」執筆
1946 『菊と刀』公刊。コロンビア大学に復帰。全米女性大学人協会の年間功労賞受賞。コロン ビア大学の同僚リントンの後任としてJ・スチュアードが赴任。
1946-47 アメリカ人類学会会長
1948 コロンビア大学教授に昇進。9月17日に死去。
1950

1953 マヌス島ペリ村を再訪
1959 『人類学者の研究生活』出版(→ベネディクトの伝記と研究業績)

1959 『人類学者の研究生活(An Anthropologist at Work)』公刊:Benedict, Ruth. 1959. An Anthropologist at Work: Writings of Ruth Benedict. Ed. Margaret Mead. Boston: Houghton Mifflin Company.
1960 アメリカ人類学会(American Anthropological Association)の会長
1964-1969 アメリカ自然史博物館、民族学キュレーター
1965 ニューヨーク大学の都市人類学研究室を設立
1968 フォーダム大学のリンカーンセンターキャンパスに人類学研究室を設立(1970年まで社会科学研究科の研究科長)
1969 アメリカ自然史博物館名誉キュレーター


1970 1970年代ニューヨーク科学アカデミー(New York Academy of Sciences)の副会長
1971 『怒りと両親――人種問題を語る』(J・ボールドウィンとの共著)出版
1972 『女として人類学者として』(原題:ブラックベリー・ウィンター)1972
1975 American Association for the Advancement of Science 会長

1978 ニューヨークで死去(11月15日)死因:すい臓がん(76歳)


1980
1983 デレク・フリーマン(Derek Freeman, 1916-2001)『マーガレット・ミードとサモア――ひとつの人類学上 の神話における成されたことと抹消されたこと――』を公刊
1983- サモアの思春期論争(あるいは、ミード〈対〉フリーマン論争)※ミードは1978年に死去しているのでミード派〈対〉フリーマン


1990
1998  The fateful hoaxing of Margaret Mead: A historical analysis of her Samoan research. Boulder: Westview Press
2001 デレク・フリーマン死去(July 6, 2001, Canberra, Australia)




リンク

文献

その他の情報




文化表象学課題図書リスト   文化人類学年表(図書リスト)

マー ガレット・ミードの多くの著作は翻訳されています。

彼女 のデビューとなった『サモアの思春期』畑中幸子・山本真鳥 訳、東京:蒼樹書房、1976年があります。ペーパーバックとしての新装版のMead, Margaret. 2001 Coming of age in Samoa: A psychological study of primitive youth for western civilization. New York: Perennial.があり、娘で人類学者のキャサリン・ベイトソンの前書きが読めます。

『ブ ラックベリー・ウィンター』という原題をもつ自伝、ミード、マーガレット『女として人類学者として』和智綏子 訳、東京:平凡社、1975年ならびにミー ド、マーガレット『フィールドからの手紙』畑中幸子 訳、東京:岩波書店、1984年は、ミードのサモアでのフィールドワークの様子を彼女自身の言葉で 綴っている貴重な資料で、人類学者としての彼女の生き方に触れることができます。

ミー ドと文化決定論に対する批判という観点から書かれたのは、本文中でもあげておきましたが、フリーマン、デレク『マーガレット・ミードとサモア』木村洋二  訳、東京:みすず書房、1995年が本文中で述べた「ミード〈対〉フリーマン」論争の最初の書物ですが、彼女ならびに彼女の依拠した学説上についての(論 難という限定はあるものの)批判的解説について知ることができます。

次の Freeman, Derek. 1999. The fateful hoaxing of Margaret Mead : a historical analysis of her Samoan research. Boulder, Colo.: Westview Press.は同じくミードのサモア調査に対する論難のための書物という条件がつきますが、ミードのサモアでの行状をほとんど日々のレベルにまで調べ上げ たドキュメントです。

ベイ トソン、メアリー・キャサリン『娘の眼から』佐藤良明・保坂嘉恵美 訳、東京:国文社、1993年は、両親であったベイトソンとミードの人生を娘である彼 女自身の自伝と絡み合わせた興味深い物語です。この書物の出版はフリーマンの最初の書物の批判を、伝記という別の角度から正したいという著者の動機に根ざ したものであることが記されています。

Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2002-2009


1973年のAnnual Review of Anthropology より