フィールドワークの現象学
Phenomenology of anthropologist's fieldwork
◆ キーワード:文化人類学、現象学、エトムント・フッサール
「真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまで正しいと思われてきたすべての学問を転覆させ、それを新たに立て直すよう試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人に関わる重大事である。」フッサール『デカルト的省察』(浜渦辰二訳、pp.18-9)
「人類学のなかで哲学者の関心を惹く点は、人類学が人間の生活や認識の実際の状況のなかで、人間をあるがままににとらえるというまさにこの点である。人類学に関心をもつ哲学者とは、世界を説明したり構成しようとする哲学者ではなく、存在のうちへと差し込まれた我々のあり方をさらに深く差し込もうとする哲学者である」メルロ=ポンティ『シーニュ』(みすず書房1:198, ただし翻訳[谷 徹 1993:594]は英語版からのもの)
■ まずは、現象学の方法入門から
現象学とは、まずは、意識にあらわれる体験の構造を「説明」する方法であり、その方法論には、理論・推論・科学的仮説を動員しない、近代に生まれた思想運動のなかでは、きわめてユニークなものである。
エトムント・フッサール(1859-1938)の方法論は、ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)――後にフッサール『厳密な学としての現象学』で批判されるが――の提唱した記述心理学の考え方にもとづくものである。記述心理学は、心的現象を因果的に説明しようとするのではなく、与えられるがままに――ここが曲者なのだが――記述・分析するという方法をとる。
まず、現象学の野心としては、主観と客観を乗り越える(〈超越論〉という言葉がキーワード)ということが最初にある。
ただし、その方法論は、主観を客観に対する矮小なものとして見下すやり方とは、きっぱり手を切り――まさに潔いやり方だ!――、いわゆる主観(※)の徹底化に特徴がみられる。
※:だって最終目的は主観/客観の乗り越えにあるから、これらの区分は結局はどーでもよい、ないしは形式上の区分ということになるからだ。
フッサール『デカルト的省察』には、この方法の出発点は、独我論的自我学(英訳:solipsistical egology)とよべる立場で、この主観化の方法の徹底を表現している。[「独我論的に制限された自我論」岩波文庫版、p.277]
そこで、フッサールの次の課題は、どーやって、主観を徹底化するのか? ということである。
フッサールは、我々が日常生活を何の問題もなくやり過ごしている生活態度を「自然的態度」(しぜんてきたいど)と命名する。彼によると、この自然的態度からの脱却が、現象学的領域へと知的認識を進める次の一歩になる。
自然的態度からの脱却の方法論として、もっとも代表的なもの(方法や状態を表した標語のようなもの)が、〈判断停止〉とも翻訳されることのある〈エポケー〉である[p.48]。
エポケーによって、一度自然的態度に充ち満ちていた自分の身の回り〈世界〉を失う必要性がある。いわゆる無根拠からもう一度〈世界〉をとり戻すという作業をおこなわなければならない。エポケーに到達する方法全体をさして、フッサールは〈現象学的還元※〉という、難解な言葉で表現しています。
※:フッサールやその背徳の弟子ハイデガーなどは、日常用語をもじった変な造語法を量産する傾向があり、これが敷居を高くしているんだな〜。しかし、造語法は、概念を操作して考量を進める研究者の病気かもしれません。
やれやれ、という感じですが、〈反省〉を導く方法論としては、世界中にある、宗教的職能者の人たちが説く、世界認識の方法と類似していないこともありません。誰にでも開かれた、よい方法なのではないでしょうか。
この説明を聞いた人の中には、「これってデカルトの方法と似ていない?」という質問が出てくるかも知れません。なぜなら、デカルトの cogito ergo sum (私は考える、それゆえに私は存在する)[それ以上に何を疑えちゅうんでしょうか?―疑えない、つまり、ここが存在の根拠であり、思考の出発点でおます]は、双六の振り出しと同じで、最初に戻って考え直す(反省・省察しなおす)という自己のテクニックだからです。
そうです。だからフッサールは現象学の方法について述べた本を『デカルト的省察』と名付け、デカルトの方法に敬意を払うと同様に、それをもっと過激に押し進めるという自負心をもっていたのではないかと、(素人の)私は思います。
■ 次に、人類学と現象学の関係
さて、人類学のアウトラインを学んだり、その方法論であるフィールドワークの意義について多少なりとも理解した人なら、フッサールの方法と文化人類学の方法は、かなりちがうなぁ〜と思うはずです。
どうしてかって? そりゃ、(1)まず現象学者のコギト(私は考える、というラテン語の一人称現在の表現)ではなく、現地にいって体験するのが文化人類学の方法ではないか、そして、(2)人類学者は〈自然的態度〉そのものにこだわるのであって、現象学者が考えるような克服すべき対象ではない、てなリアクションが出てくるかもしれません。
しかし、だからと言ってフッサールの発想を「非人類学だ」と断罪してはいけません。現象学はもっと奥深いことを私たちに教えてくれます。それは、むしろ現象学的発想から、人類学者が当たり前としての受け入れ入れている〈自然的態度〉を相対化することができるからです。つまり、現象学という方法を借りて、人類学をもっと豊かにすることができるからです。
先の人類学の強調点は、現象学的反省から、次のように言いなおすことができます。
(1)人類学者はフィールドでの体験を一次的なデータとして強調するが、その背景には人類学者が何も考えないでおこなっていることはない。人類学者はフィールドをするのではなくフィールドで考えるのだ(これはギアーツの言葉の捩りです)。
(2)〈自然的態度〉を相対的に観ることに変わりはないのだが、自分を含めた〈自然的態度〉のあり方を、思念ではなく、対話などの経験にもとづいて構築することに多大なる関心がある。そう考えると、現象学者もじつは〈自然的態度〉を単に乗り越えるべき状態としてのみ理解しているのではなく、そのような態度があるという経験的事実とそのラベルを通して、常識のあり方について、人類学者に対して教えてくれたのだ、ということがわかるはずだ。そしてフッサールの〈自然的態度〉は乗り越えるべき目標であるのだが、それは同時に、乗り越えための手がかりそのものであり、また、そこに繰り返し回帰する原点ですらあるのだ。
ここで引用:
「メルロ・ポンティは、そもそもわれわれがおこなういかなる理解も、間主観的に構成された意味の世界を介しておこなわれたものだという事実に注意を促す。つまり社会の一成員として生きるわれわれが、特に主題化することなく「自明的なもの」として受け入れている、もろもろの沈殿した意味的形成物、間主観的に構成された「生活世界」こそ、理解の唯一の源泉だというのである。結局「理解する」とはわれわれにとってわかるように理解する以外の何ものでもないのであり、人類学者といえども、こうした「間主観性の経験」に何ものも負っていないかのような振りをすることはできないのだ」(浜本 1984:285)。
かいせつ:間主観とは、主観をもったそれぞれの人間のあいだに成り立つ、理解や齟齬の総体というふうにここでは理解しておいてください――引用者解説。
ここでいう「生活世界」(Lebenswelt)という用語は『デカルト的省察』の第五省察に出てくる(アルフレット・シュッツにより社会学・人類学に後に導入されることになる)重要な概念である。
超越論的主観性が独我的で社会的なものの考察に使えないという批判にフッサールは答えて、相互主観性(Intersubjektivita"t)への可能性を開く、他者の経験を自分がどのように体験するのかという可能性について考える。フッサールによると、それは他者の経験を感情移入(Einfu"hlung)することによって可能にするという。他者の心の中(=内面)は分からない。しかし、自分がそうすることの想像を通して、他者の経験を追体験することができるという。その時、自己の主観のなかに他者の主観が移入されて、自我の中に相互主観性ができるというのである。 複数の人によって共有された主観の世界こそが、生活世界なのである(→フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)。
しかし、この感情移入というフッサールが提示した方法は、方法論的にはナイーブだ(ちょうど文芸批評理論における印象主義のように思われる)。フッサールが相互主観性に満ち満ちている生活世界の理解において、他者への感情移入(Einfu"hlung)が可能にすると主張した時に、その理論的な脆弱性を埋める(=補強する?)ものが、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論おいて展開されていると言っても過言ではない。
■ では、何を読めばよいのか?
やっぱり、原典のフッサール(浜渦辰二訳『デカルト的省察』岩波文庫、2001)、それからアルフレート・シュッツ(現象学的社会学)の著作、そして、クリフォード・ギアーツのいくつかの論文でしょうか。幸い、品切れ、絶版のものもあるが、多くは翻訳で読めます。
■ リンク
池田光穂「解釈的社会学とはなにか」
池田光穂「他者の痛みと嘘つきのはじまり」「実践知の世界」[ウィトゲンシュタインのパラドックス]
後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームについての簡単な解説があります
■ 文献
浜本 満 1984 「現象学と人類学」『文化人類学15の理論』綾部恒雄編、Pp.281-298、東京:中央公論社(現在の中央公論新社)
前山 隆 2003[1972] 「現象学的人類学と文化の定義」『個人とエスニシティの文化人類学』Pp.37-59、東京:御茶の水書房
このページの改善の契機になったのは、前山先生から恵与されたこの著書を読んだためです。前山先生には記して謝します。
浜渦辰二 1995『フッサール間主観性の現象学』創文社
とりわけ「他者と異文化」(第10章)および「他者と理性」(第11章)。
山口 昌男 1979[1966] 「人類学的認識の諸前提」『新編 人類学的思考』Pp.4-26、東京:筑摩書房
(この格調高いエッセーは、おそらく人類学と現象学について日本語で書かれた最も最初のものでしょう。日本で人類学をおこなうことの思想的検証はちょっと今では古いスタイルかもしれませんが、文化人類学という学問のマージナル性と、日本という文化人類学の本流からみた際のマージナル性の問題が、見事に関連づけられて論じられており、現象学的想像力を通して、その克服を論じる点は、現在でも十分に検討に値する議論です)。
デリダ、ジャック『声と現象』林好雄 訳(ちくま学芸文庫)筑摩書房、2005年
こちらは現象学批判ですが、フッサール『論理学研究』第一部「表現と意味」の読解を通して、西洋形而上学を乗り越えようとしていたフッサールそのもののが西洋形而上学の概念に呪縛されている様子を丹念に読み解くことから「発見」すると同時に、西洋形而上学的伝統のもつ思考の型のようなものを浮かび出させるスリリングな作業。しかしながら、これはデリダの『グラマトロジーについて』などの予備知識があって、なんとなくその様子が手に取れるという意味で、私じしん、十分に理解できている自信がない。つまりフッサールがやろうとしたことの可能性と限界をデリダを経由して理解したい私の課題書です。
フッサール『デカルト的省察』浜渦辰二訳(岩波文庫)岩波書店、2001年
メルロ=ポンティ「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」(木田元訳)『シーニュ』184-204ページ、みすず書房、1969年
マーチン・ジェイ「現象学的マルクス主義:メルロ=ポンティの全体論の両義性」(第12章:谷 徹 訳)『マルクス主義と全体性』569-609ページ、1993年
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