戦略村(Strategic Hamlet)
ケネディ政権のロバート・マクナマラ国防長官の策定のもとで1962年よりヴェトナムで開始される。(61年10月にケネディがテーラー大将を南ベトナムへ派遣させた後の、テーラーの勧告に由来する。)
ゲリラの“水”たる南ヴェトナムの農村部を再編成して「農民たちを武装した柵のなかに囲い込み彼らの支援をヴェトコンから奪い取ってちょうど水の外に出された魚(*)のように根絶する」(Stanley Karnow, Vetnam: A History, New York: Viking, 1883, p.225)
(*)生井(『ジャングルクルーズにうってつけの日』1987)のよると、これは毛沢東の“人民は水であり、解放戦士はそのなかを泳ぐ魚である”というメタファーをふんでいるとのことである。
テーラーが提案した、戦略村計画によると最終的には1万以上の村落をつくることを予定していた。「戦略村は農村人口をベトコンから切り離し、社会的、経済的、政治的改革を進めるための主な手段である。一つ一つの戦略村は約二百家族で構成される。多くの場合、バリケードや堀、無線機を装備さす。六週間の訓練を積むと戦略村の守りにつき、ベトコンに攻撃された場合、増援部隊の到着まで持ち耐えるのがねらいである。住民たちは、戦略村の村会議選挙を行ない、選出された村議が地方防衛の責任を負う。政府は、アメリカの援助で、戦略村に、農作物の種や肥料などを含めた経済的、社会的サービスを提供し、またベトナム軍とアメリカ軍から選出された民間活動班が地方開発計画に従事し、医療救護や村民に役立つ技術指導をやる」カウフマン『マクナマラの戦略理論』ぺりかん社,1968:321
戦略村の発想は、時代的にはケネディ政権の内乱鎮圧=反ゲリラ戦(counterinsurgency)の時代の中で生まれきてた。村落を共産主義のイデオロギーから守るためには、(“イデオロギー的に汚染された村落環境”から人びとを抽出して、良好な環境のもと=)理想的な橋頭堡を築くという戦術がとられた。発想は工学的ではあるが、広範囲には応用が効かない点で非−システマティックである。
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