あなたのための、わかりやすい、
ナショナリズム入門
あるいは、
愛国主義(patriotism)からのデプログラミング入門、
あるいは適格な<靖国>崇敬の方法
解説:池田光穂
ナショナリズム(nationalism)
人々のあつまりの基本的な単位を国家とし、それの構成員たる国民=ネイション(nation)を維持・発展させていこうとする政治信条のこと。
我が国(=日本国)では、国民の単位を長いあいだ(1920年代以降今日まで)「大和民族」「日本民族」と言い習わしてきたために、「民族主義(みんぞくしゅぎ)」と言われることがあるが、これはナショナリズムのことである。(→日本語の「民族」をチェックする)
ナショナリストは、(我が国では)「右翼で、頭の構造が単純な奴」というステレオタイプがあるが、これは我が国の特殊事情に由来するし、史実を必ず反映するわけではない。また、歴史的にも社会的にも左翼のインテリがナショナリストであった国民国家は数多く存在する。
愛国主義(patriotism)
もともとは郷土愛(patria, 家族:出自集団の隠喩)から生まれた言葉だが、今日では、排外主義的なナショナリストをこのように呼ぶ。愛国主義の特徴は、親族の出自原理を国家のシンボルと結びつける信条で支えられている。国家のシンボルは、憲法であったり、国旗であったり、国歌であるが、それぞれがフェティシズム的対象化されることが多い。
愛国主義は、多くは郷土の永遠性を願うために、死を賭けた結果として審美化されることが多いが、そのほとんどが、他者を犠牲にすることを前提にしている。
愛国主義が、郷土愛に根ざす普遍的な心性であるという説明には疑問をいだく人が多く、市民社会、近代社会、帝国主義などの成立過程において、しばしば過激なタイプをとることについて多くの人たちは合意している。ウィリアム・G・サムナー(1906[1975:24])によると、愛国主義は「近代国家に付属するひとつの感情。…出生や他の集団的結束よって所属する公的団体への忠誠である」と述べる。
文献:W・G・サムナー『フォークウェイズ』青柳清孝ほか訳、東京:青木書店、1975年
まずテキストの読解から
新生面 タイ山岳少数民族の子どもたち
「なんて礼儀正しい子どもたちなのかと驚きました」「言葉は通じないけど、いつもニコニコと逆に気を遣ってもらった」「私たちの子どもにしたいくらいです」▼タイ里親運動十周年を記念して、熊本YMCAが招いた男女十人の”里子”たち。さよならパーティーの席で、ホストファミリーの親たちは口をそろえた▼四つの山岳少数民族の衣装が印象的だった。赤、黒、紫などの生地に凝った刺しゅう。銀色のコインが下がったものもある。日本の着物に似た部分もあり、洋裁をするという母親は「どう作ってあるのか、ほどいてみたいくらい」▼里子たちは、YMCAがチェンライ・ナムラト村に開設している寄宿舎「若竹寮」で暮らす十四〜二十一歳の中高生ら。十一日から十九日まで、農業体験や企業見学のほか、イルカウオッチングやキャンプを楽しんだ。七城小や西合志南中、九州学院高の児童・生徒たちとも交流した▼子どもたちは、熊本の印象をこう話した。「日本の人たちは、たくさん食べます」「作業が早いです。時間内にきちんと終わります」「まだ走れるような車が捨ててありました」「みんな優しかった」。なかなか鋭い観察眼。しかも、礼節と行儀をわきまえ、卑屈にもならない言い方や態度。そこには文化の品格さえ感じられた▼口には出さなかったが、ホストファミリーの親たちは、同じことを考えていたのではないか。貧困やエイズがまん延する地域で、年間五〜六万円で暮らすこの子どもたちが持っているものの中には、数十年前に日本人が失ってしまったものも多いのではないかと。
【出典】
熊本日日新聞、2003.10.23
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2004
べん・あんだそん祖述の研究
『想像の共同体』(リブロポート版):(写本)池田光穂
・「国民(Nation)」の3つのパラドクス
─その第一は歴史家の客観的な目には国民が近代的現象とみえるのに、ナショナリストの目にはそれが古い存在とみえるということである。ついでその第二は、社会的文化的概念としてのナショナリティ[国民的帰属]が形式的普遍性をもつ‥‥のに対し、それが具体的にはいつも、手の施しようのない固有さをもって現れ、そのため、定義上、たとえば「ギリシア」というナショナリティは、それ独自の存在となってしまうことである。そしてその第三は、ナショナリズムのもつあの「政治的影響」の大きさに対し、それが哲学的に貧困で支離滅裂だということである(p.15)。
・想像されたものとしての国民
─国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(imagined political community)である──そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意志決定主体]として想像されると(p.17)。
ルナン「国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある。」(p.17)
ゲルナー「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。」(p.17)
・アンダーソンの文化システムの視座
─ナショナリズムは、自覚的な政治イデオロギーと同列に論じるのではなく、ナショナリズムがそこから──それにあらがらいながら──存在するにいたったナショナリズムに先行する大規模な文化システム[宗教共同体と王国──池田]として比較して理解されなければならない(p.27)。
・古典的共同体 vs. 想像の共同体
─聖なる言語で結ばれたこうした古典的共同体は、近代国民の想像の共同体とははっきり違う特性をもっていた。決定的な違いのひとつは、古い共同体が、その言語の固有の神聖性について揺るぎない自信をもっており、したがって、だれをこの共同体の成員と認めるかについてもはっきりとした考えをもっていたことにある(p.29)。
・真実語を学ぶことによる改宗の可能性(p.31)
・宗教的想像共同体の整合性概念の衰退の理由(pp.32-36)
(1)非ヨーロッパ世界探査の影響
(2)聖なる言語であるラテン語の衰退(pp.35-36)
・王国は国家主権が均等に作用しない空間である
─国家が中心によって定義された旧い想像世界にあっては、境界はすけすけで不明瞭であり、主権は周辺にいくほどあせていって、境界領域では相互に浸透しあっていた。このことから逆説的に、前近代の帝国、王国は、きわめて多種多様な、そしてときには領域的に隣接すらしていない住民を、かくもたやすく長期にわたって支配することが可能になったのだった(p.37)。
・聖なる共同体への大衆への膾炙が見慣れた視覚媒体を通してひろがった(p.41)
・中世の人びとのメシア的時間(ベンヤミン)/同時性
──(アウエルバッハ『ミメーシス』上:84からの引用)「たとえばイサクの生贄のような事件がキリストの受難を予兆するものとして解釈され、したがって、前者において後者が告知され約束され、後者が前者を充足するならば、時間的にも因果関係のうえからもつながりのない二つの出来事のあいだにひとつの関係が確立されることになる。この関係は水平的次元では理性によって確立することができない」(pp.42-43:アンダーソンの頁)
・近代的時間概念=「均質で空虚な時間」(p.44;p.55)
─社会的有機体が均質で空虚な時間の暦のなかを暦に従って移動してゆくという観念は、国民の観念とまったくよくにている。国民もまた着々と歴史を下降し(あるいは上昇し)動いてゆく堅固な共同体と観念される(p.45)。
・「本の一形態としての新聞とその市場との関係」(p.55)
─ある意味では、本は最初の近代的大量生産工業商品であった。どういう意味でか。それには、本を、初期の他の工業製品、繊維製品とかレンガとか砂糖などと比べてみればよい。これらの商品は(ポンド、荷、反など)数量で計られ‥‥それ自身としては客体たりえない。しかし、本は、この点で我々の時代の耐久消費財を予示するのであるが、正確には大規模再生産される個別の自己充足的な客体である(p.56)。
─出版資本主義(print capitalism)こそ、ますます多くの人々が、まったく新しいやり方で、みずからについて考え、かつ自己と他者を関係づけることを可能にしたのである(p.59)。
・出版メディアの肥大化
─一五〇〇年までに少なくとも二〇〇〇万冊の本が出版され、ベンヤミンの「複製技術の時代」の開始を予兆していた。手写本知識が稀少な秘儀的知識であったとすれば印刷知識は複製可能性と普及によって存続した。フェーブルとマルタンの考えるように、一六〇〇年までに二億冊もの本が製造されていたとすれば、フランシス・ベーコンが、印刷・出版によって「世界の姿と状態」は変わってしまったと信じても驚くにはあたらない(p.72)。
─資本主義が俗語化を革命的に推進したとすれば、この過程は三つの外的要因によってさらに加速され、そのうち二要因は、国民意識の出現に直接貢献することになる(p.74)。
※(1)ラテン語の脱神秘化p.74、(2)宗教改革pp.74-76、(3)中央集権化の道具としての俗語の使用pp.76-77、だがそれはアンダーソンに言わせれば不可欠の要因ではない。
─新しい想像の国民共同体は、この要因のいずれか、いやそれどころか、すべての要因が欠落していたとしても、なお出現したであろうとすら考えられる。積極的な意味で、この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった(p.79)。
※アンダーソンはこの文章の脚注において、フェーブルとマルタン『本の登場』の所論を引き、ヨーロッパ社会における紙が歴史的に登場する以前にブルジョアジーが先行して存在し、紙質の改善もまた紙の登場から七五年後のことであった、と指摘し、資本主義において紙が利用され、それが出版資本主義を成立を可能にしたことが偶然のことであったことを示唆している。
・18世紀後半から19世紀初頭におけるアメリカ大陸のナショナリズムの淵源
※クレオール(新大陸生まれのヨーロッパ人)の共同体が、ヨーロッパより歴史的に早く「我々国民という観念」を発展させたか?という問題をアンダーソンは立てる。問題には、先行研究によってすでに解答は与えられていた。従来の説は(1)18世紀後半におけるマドリードの支配強化、と(2)自由主義的解放思想の普及、という観点から説明する(pp.93-94)。
─しかし、マドリードの攻勢と自由主義の精神は、なるほどスペイン領アメリカにおける抵抗の衝動を理解する上で重要であっても、それ自体としては、チリ、ベネズエラ、メキシコのような実体が、なぜ、感情的に受け入れられ、また政治的にうまくおくことになったのかを、説明するものではない。あるいはまた、なぜ、サン・マルティンが、特定の原住民を「ペルー人」なる新語によって定義すべしと布告せねばならなかったのか、そしてまた、結局のところ、なぜあのようなほんものの犠牲が払われたのかを説明するものでもない(p.95)。
※新たな解答の手がかりは、南アメリカの新生共和国が植民地時代における行政単位と合致しており、それは植民地時代をとおして地域として実体化されていったこととに注目すべきであるとアンダーソンは指摘する(pp.95-96)。
また、行政組織がどのようにして<意味>としての祖国を創造するのかを考える必要がある(pp.97-98)。彼は、絶対主義王制下における人間と文書の互換性に注目する。そして、人的な互換性を補完する文書の互換性は、標準化した国家語の発達によって促進されることになる。
※このような国家体制のもとで、はじめてクレオールはヨーロッパの人間──狭義にはイベリア半島居住および半島出身の新大陸人ペニンスラール──との類的な一致と制度上における処遇の不一致を知ることになる。それを、想像の共同性という観念を強化したものは、17世紀末から始まる新聞等のプリントメディアであるというのだ。「新聞という概念それ自体がすでに、「世界的事件」すら地方語読者の特定の創造の世界には屈折して入ってゆくということを意味しており、そして、想像の共同体にとって、時間軸に沿った着実で揺るぎない同時性の観念は、決定的に重要な観念であった」(pp.108-109)。
─[18世紀後半初期のアメリカ大陸の地方新聞──池田]は、基本的、市場の添え物として始まった。‥‥本国についてのニュースの他に、商業ニュース──船の到着出帆予定、港での商品価格の動向──そしてされに植民地にける政治的任命、金持ちの家族の結婚などが掲載されていた。別の言い方をすれば、同一紙面に、この結婚とあの船、この価格とあの司教をまとめたのは、まさに植民地行政と市場システムの構造それ自体であった。こうして、カラカスの新聞は、まったく自然に、また非政治的に、その特定の読者同胞の集団に、これらの船、花嫁、司教、価格の属する想像の共同体を創造した(p.107)。
─経済的利害、自由主義、啓蒙主義などは、視野の中心にある憧憬ないし嫌悪の対象に対立するものとして新しい意識の枠組み‥‥を提供するものではなかった。この特定の任務[旧体制の強奪から守るべき共同体を創造すること──池田]の達成のために、遍歴のクレオール役人と地方のクレオール印刷業者は、決定的な歴史的役割を演じたのである(p.111)。
・ヨーロッパにおけるナショナリズムの特徴(pp.102-121)
(1)national print languageがイデオロギー的かつ政治的に重要な意味をもつ。
(2)先行例をモデルにすることが可能になった。
・公定ナショナリズム、pp.150-
─ほんどすべての場合において、公定ナショナリズムは、国民と国王の矛盾を隠蔽した(p.180)。
・20世紀のナショナリズム
─二〇世紀のナショナリズムは‥‥すぐれて「モデュール」的性格をもっている。つまり、これらのナショナリズムは、一世紀半以上にわたる人類の経験と、これまでに現れたナショナリズムの3つのモデル[アメリカ新大陸のもの、ヨーロッパ諸国のもの、そして周辺国の公定ナショナリズムの3つ──池田]に頼ることができるし、実際頼っている。国民主義指導者は、公定ナショナリズムをモデルとして文武の教育システムを、一九世紀ヨーロッパの民衆的ナショナリズムをモデルとして選挙、政党組織、文化的祝典を、そしてさらに南北アメリカによってこの世にもたらされた市民の共和国の理念を、意識的に展開しうる立場にある。そしてなによりも、「国民」という観念それ自体が、いまでは、事実上すべての出版語のなかにしっかりと巣ごもっており、国民という観念は政治的意識と分かち難く結びついてしまっている(p.220-221)。
・地球的帝国主義(global imperialism)(p.226)
・言語が想像を形作る
(1)言語の原初性
─言語は、他のほとんどいかなるものよりも深く、現代社会に根を下ろしている(pp.248-249)。
(2)言語の共同性
─ときにナショナリスト・イデオローグがやるように、言語を、国民を構成することの表象として、旗、衣装、民俗舞踊その他と同じように扱うというのは、常に間違いである。言語において、そんなことよりずっと重要なことは、それが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するというその能力にある(p.219)。 ─言語は排斥の手段ではない。原則として、だれでも、どの言語でも学ぶことができる。それどころか、言語は本質的に包摂的であり、だれもすべての言語を学ぶほど長生きすることはできないという、あのバベルの宿命だけによって制約されている。ナショナリズムを発明したのは出版語である。決してある特定の言語が本質としてナショナリズムを生み出すのではない。
─ただ言語だけが──とりわけ詩歌の形式において──示しうる特殊な同時存在的な共同性がある(p.249)。
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2004
まくるはん祖述の研究
マクルーハン・ノオト:写本→池田光穂
→「18 印刷されたことば──ナショナリズムの建築家」
・メディアの変化が社会意識に影響を与える(概略)
──活字による印刷は複雑な手工芸木版を最初に機械化したものであり、その後のいっさいの機械化の原型となった。‥‥活字印刷が情報を蓄積する手段あるいは知識を迅速に回収する新しい手段に他ならないと見るならば、それによって時間と空間の両方において、心理的にも社会的にも、郷党精神(parochialism)と部族精神(tribalism)とは終わりを遂げた(p.173)。
──印刷もまたそれ以外の人間の拡張と同じであって、心理的ならびに社会的な影響を及ぼし、以前の文化の境界と模様を突然に変えてしまった。‥‥情報を移動するのに電気という手段を用いるようになって、われわれの活字文化はいま変わりつつある。それは、ちょうど、印刷術が発明されて、中世の写本やスコラの文化が変化を受けたのと同じである(p.174)。
──アルファベット(およびその拡張である活字)が知識という力を拡張させることを可能にし、部族人の絆を壊滅させた。かくして、部族人の社会を外爆発させて、ばらばらの個人の集合としてしまった。電気による書字と速度は、瞬間的かつ持続的に、個人の上に他のすべての人に関心を注ぐ。こうして、個人はふたたび部族人となる。人間種族全体がもう一度、ひとつの部族となる(pp.174-175)。(原著『メディアの理解』pp.170-172)
・欲望の形成、あるいはメディア影響力のタイムラグ論
──実際、活字による印刷がおこなわれるようになって、最初の二世紀は、新しい書物を読んだり書いたりしなければならないという必要よりは、古代および中世の書物をみたいという欲望のほうに、むしろ動機があった(p.173)
※マクルーハン理論には、メディアの影響力に関するタイムラグ仮説があり、メディアの革新について人々がその影響を真にうけるようになるには200-500年の時間差がある。
──印刷術の発明以来の五世紀間、印刷が人間の感覚に与える影響について明確に言及したり認識したりしたものは、きわめて稀である(p.175)。
──印刷はたんに書写の技術になにかをつけ加えたにすぎないのではない。それは自動車がたんに馬になにかをつけ加えたにすぎないのではないのと同じだ。印刷も最初の数一〇年間というものは、誤解されたり誤用されたりの「馬なし馬車」すなわちバスの段階を経験していた。
・印刷の視覚効果
──心理的に見れば、印刷本は視覚機能を拡張したものであるから、遠近法と固定した視点を強化することになった。視点と消失点とを強調すると、そこに遠近法の幻覚が出来上がる。これに結びついて、空間が視覚的、画一的、連続的なものであるという、もう一つの幻覚が生じる。活字が線条をなして正確に画一的に配列された姿は、ルネッサンス期に経験された偉大な文化の形態および革新と切り離せないものである。印刷の最初の一世紀に、視覚と個人の視点がはじめて強調されたのは、活字印刷という形をとlつた人間の拡張によって自己表現の手段が可能となったからであった(p.175)。
・反復可能なイメージの生産=拡張の原理
──社会的に見ると、活字印刷という形をとった人間の拡張は、国家主義、産業主義、マス市場、識字と教育の普及というものをもたらした。なぜなら印刷は正確に反復可能なイメージを提供し、それが社会的エネルギーを拡張させる、まったく新しい形態を刺激したからであった(p.174)。
──いくつかの書物が同一のものであることに(南太平洋のネイティブが──池田)気づいて驚いたというのは、結局、印刷と大量生産のもっとも魔力をもった局面にたいする自然の反応であった。ここには均質化にもとづく拡張の原理があり、それが西欧の力を理解する鍵となっている。開かれた社会が開かれているのは、画一的な活字印刷にもとづく教育的加工のおかげてあって、それによるからこそ、どんな集団も数量的につけ加えていくだけでかぎりなく拡張していくことができるのである(p.177)。
・メディアと国家主義
──印刷が及ぼす心理的および社会的帰結には、我々が新しいナショナリズムと関連させているような事態、つまり、印刷の分裂的かつ画一的な性格を拡張して、さまざまの地域を次第に均質化させ、結果的に権力、エネルギー、侵略を増殖をさせる事態が含まれる(p.178を改訳、原著p.175)。
──印刷されたページの画一性と反復性には、もう一つの重要な局面があった、それが正しい綴り字、文法、発音というものに向けて圧力をかけ始めたということだ(p.178)。※つまり書記法の画一化による同一のイメージの流通を可能にした。
──印刷本の上に、画一の定価をつけられた商品という奇妙に新鮮な性格を付与したのが反復性であり、その結果、価格システムへの道を開いた。‥‥加えて、印刷された書物には、携帯の便利さ、入手のしやすさという性格があった。‥‥こうした拡張的性格と直接の関係にあるのが、表現の革命であった。‥‥活字印刷によって世界そのものに向かって。大声かつ大胆に訴えかけることのできるメディアが生み出された(p.181)。
──活字印刷の影響が数多くあるなかで、たぶん、ナショナリズムの出現がもっともよく知られたものであろう。方言および言語の集団によって人間を政治的に統一するというのは、個々の方言が印刷によって広大なマス・メディアに変ずる以前には考えられないことであった。‥‥ナショナリズムそれ自体は、集団の運命と地位を強烈に示す新しい視覚的なイメージとして到来したもので、印刷以前には知られていなかったような迅速な情報移動に依存していた(p.180)。
──こんにち、一つのイメージとしてのナショナリズムは、あいかわらず印刷に依存しているけれども、それはすべて電気メディアの挑戦を受けている。政治においてもビジネスにおいても、平等のジェット機のスピードの影響で、古い国家集団という社会組織はまったく役に立たなくなっている。ルネッサンス期に、(均質の空間における連続と競合である)ナショナリズムが新しいものであったばかりか、自然なものでありえたのは、印刷の迅速さと、その結果として生ずる市場と商業の発展のせいであった(pp.180-181)。
・身体における非関与
──活字印刷が人間に与えた贈り物である能力のなかでもっとも意義のあるものが、非密着性(derachment)と非関与性(noninvolvement)──すなわち、反応することなしに行動する力──であろう。ルネッサンス期以来、科学はこの能力を高めてきたが、電気の時代となると、これが困惑の種となってしまった。‥‥「公平無私の」(disinterested)ということばは、活字人間の崇高な非密着性と倫理的高潔性を表明するものであったが、その同じことばが、過去一〇年ほどに「知ったことではない」(could'nt care less)という意味でますます使われるようになってきた(p.176)。
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2004