どれいとは、なにか?

どれいの漢字(かんじ)はつぎのように書(か)きます
どれい = 奴隷
どれいとは、にんげんが、ほかのにんげんの「もちもの」のようにされて、「じゆう」になれないひとのことを、いいます。
「もちもの」のようにされるのですから、うられたり、かわれたりします。また、「じゆう」になれないのですから、じぶんがなにかをしたりすることができず、ほかのひとのめいれいをきくまではなにもできません。
にんげん(=ひと)は、ふつうはじぶんでじぶんのことをきめることができますので、どれいは、おなじひとでありながら、ひととしてあつかわれなかったひとになります。つまり、おなじひとが、ひととしてあつかわれないことですから、これは、まちがい(=ただしくないこと)でした。
だから、いまのせかいでは、どれいをもつことも、うりかいすることも、ほうりつできんじられています。
つまり、どれいは、このよのなかには、いないことになっています。あるいは、かんぜんにきんしされています。そのりゆうは、にんげんが、もののようにうったり、かったりすることは、できないというかんがえかたをみんなが、ただしいものだとみとめたからです。
にんげん、「じぶんはじぶんであり、ほかのひとにじゃまされない」というやくそくをもつようになりました。、これを「じんかく」の「けんり」といいます。また、にんげんは、やりたいことをじゆうにやることができます。これを「じゆう」の「けんり」といいます。これらは、にんげんであることにとって、もっとも、たいせつな「けんり」(=うまれながらにもっているもの)のひとつです。
「けんり」は、しばしば、ほかのひとにじゃまされるかもしれませんので、にんげんが、あつまってつくる「しゃかい」は、ひとりひとりの「けんり」をまもってあげるように、してあげなくてはいけません。このような、ひとりひとりのにんげんとにんげんとがとりきめる、しゃかいのなりたちについてのやくそくを「しゃかいけいやくろん」といいます
こんなあたりまえのことを、にんげんは、ながいあいだ、おもいつくことができませんでした。そして、(そんなしゃかいについての「はつめい」をおこない)かしこくなったとおもわれる、げんざいのにんげんも、どれいによくにたものを、よのなかに、かずおおく、はびこらせています。
こどもは、おとなになるまで、おとなにたすけてもらわないといけないのです。けれど、いちぶの、わるいおとなのなかには、たすけるということを、「こどもため」というりゆうをつけて、こどもの「じんけん」やいろいろな「けんり」が、どうなってもよいというひとがいます。
◆「じんけん」や「けんり」についてかんがえる、ほかのぺーじ
こどもの、せいかつが、おとなの「もちもの」のようになっていることはありませんか? こどものじゆうを、まわりのおとなは、きちんとみとめてくれるでしょうか?
こどものみなさんじしんで、きをつけて、まわりできごとを、ちぇっくしてくださいね。
かんしゃのことば:
いしかわけん・ななおし・こまるやま小学校のみんな〜! 質問(しつもん)ありがとうさんです。このぺーじ(どれい とはなにか?)と、黒人奴隷の歴史(こくじんどれいのれきし)の2つのページをみなさんのしつもんに元気づけられてつくることができました!
サンキュー(スペインごでは、グラシアス、マレーごでは、テレマカシー、マヤのマムごではチホンティ)!!
2004年2月25日
もんだい:
こどもの「じんけん」がみとめられていないとおもうことがありますか? それはどんなことだろう? みんなでもんだいをもちよって、みんなでかんがえ、はなしあってみよう!!
Copyright Mitzu Ikeda, 2001
リンク(れんけつ)先
奴隷の定義は、(特定の)人間の人格権が認められず、その人間が、物のように処分されたり売買できる状態であると言うことができます。つまり奴隷制は、奴隷が主人によって「所有」されている、つまり私有財産として、可処分できるというのが、その認識の基本的枠組みによって支えられていた制度でした。
奴隷制は、身分制社会の特徴と言われてきました。「家畜のように奴隷化する」という表現がありますが、歴史に存在した奴隷制度のすべてが、均質的なものではなく、奴隷にどのような権利を認めてきたのかについては、多様性があります。
(さまざまな奴隷反乱という先行例を除いて)奴隷制の撤廃を理論的に考えたのは、身分制社会の撤廃を考えた啓蒙思想にあると言われています。啓蒙思想では、自由と平等という基本理念からは、奴隷制の考えが相容れないことを明確にしたからです。
また、奴隷制を撤廃し続けるには、社会がそれを維持しなければならないことも見えてきます(→社会契約論)。維持するためには、社会はなんらかの力(権力)をもつ必要があると考えてきた人たちがいることも、また見えてきます(→統治術に関するノート)。
このように、今日に我々にとって荒唐無稽と思われる「奴隷制」を考え、それを子どもたちに、わかるように説明するなかで、啓蒙の理性がどのようなものであったのかが、復習することができます。
奴隷と主人というテーマは、ヘーゲルの『精神現象学』の中にも、これとはまったく違った形で展開されます(さらに興味深い議論はフランツ・ファノンの著作にも登場します)。
奴隷は英語では、slave (スレイブ)と言いますが、これは古いフランス語の esclave 、ラテン語の Scclavus から由来し、捕まっている状態のことを指します。戦争行為の後に捕虜を処刑するのではなく、労働力として利用したのが、奴隷のはじまりだといわれています。しかし、奴隷の調達目的のために戦争をしかけるということも歴史的にはありましたので、奴隷制の起源を〈有用性の発見〉から説明するのには限界があります。
現在を生きる我々にとって、奴隷制を考える意味は次のとおりです。
近代社会の中に、奴隷制は法的に廃絶され、我々の道徳においても否定されているにもかかわらず、「奴隷に類する」制度がいくらでも残っているのはなぜか。
児童労働や、女性の(売春を目的とした)人身売買が、現在もなお続いているのはなぜか?
これらのことを明らかにするために、奴隷制は、すでに終わってしまった過去の蛮習ではなく、現在においても継続する「奴隷に類する制度」を明らかにし、それを廃絶するために、繰り返し思い起こし、記憶しなければならない社会制度なのです。
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