ヴァーチャル教育あるいは教育シュミラクル
Virtual Education, Education of Virtuality,
Simulacre Education, and Simulacreof Education

ヴァーチャル教育と言っても、(ここで言うそれは)コンピュータネットワークを使った遠隔教育ないしはe-learning (e-ラーニング、イーラーニング)のことではない。私が言いたいヴァーチャル教育と区別して、イー・ラーニングなどの教育を、仮想教室での教育、つまり、エデュケーション・イン・ヴァーチャル・クラスルーム(education of virtual classroom)と呼んで区別しておく。
さて私が言うヴァーチャル教育の定義は次のようなものである。つまりヴァーチャル教育とは、一見、教育のように見えるが「本当は」教育ではない人間活動のことをさす。あるいは、一見、教育のような体験を提供するが、それは模擬的で代替的な疑似体験であり、「本物」の教育ではないものである。後者は、ヴァーチャル教育という代わりに、幻影や偽物という意味で「教育のシュミラクル」、あるいは短く「教育シュミラクル」と呼んでもよいだろう。
さて、ではヴァーチャル教育とは具体的にどういうものだろうか。それはこういうものである。
カボチャ畑で、先生がカボチャに音楽を教えている(ように見える情景に出会う)。確かに、黒板があり、その脇にピアノがあり、先生は黒板に音符を書いて、ピアノのところで、音符を弾いてみせる。ひととおり和声の理論でも講じた後で、先生は伴奏をつけながら一曲演じてみせる。あるいは、対位法をカボチャに教えた(ように見える)後で、バッハのレコードをカボチャに聴かせる。
あるいは宗教の説教師がカボチャ畑で、カボチャに対して福音を説くべく熱心に宣教している姿を想像していただきたい。
これは、我々の常識から見て、教育(宣教)とは言えないものである。しかし、教育のスタイルはとっている。だから、これはヴァーチャル教育である。では、この場合、何がリアルな教育とヴァーチャル教育を峻別するものなのだろうか。それを指摘することは簡単である。カボチャの代わりに人間をそこに置けば、それはリアルな教育のように思える。
では、次のようなことを考えてみよう。ここでは、先生も生徒も人間であり、教育的あるいは教育風的情景な内容が語られる。
週末のお昼すぎ、テレビをつける。吉本新々喜劇が放映されている。舞台では先生役の岡八郎がいる。生徒役には、チャーリー浜、谷しげる、藤田まこと、ルーキー新一、平和ラッパらがいる。岡八郎は、黒板に「e=mcの二乗」の方程式を書いて、次のように説明する。
「はい、これは質量不変の法則がなりたたない特殊相対論の世界の話ですねぇ。みなさん。はい、ここで、イーは、エネルギー、シーは光の速度ですねぇ。はい、それではエムはなんでしょう?」。
それに対して早合点した生徒役のルーキー新一が「はい、お泊まり参万弐千円で、ご休憩は参千円です」と答える。
岡八郎は「ええっ? なんでや?」と聞く。ルーキー曰く「[ラブホの]しつりょう(室料=質量)のことです!」と言いながら一人で、いちゃつくカップルを自演し始めて、最後は「いや〜ん、いや〜ん」のギャグをかます。すぐに岡八郎は、「おまえっ! 泊まりの質量=室料がえらい天文学的に高いやないけぇ、えげつなー」と負けじとギャグをかます。そこでチャーリー浜が「それは特殊相対論では質量(室料)は、泊まりの運動量(=セックスの回数や激しさを暗示する)に比例し光速に近くなりますので、その[値段の]数字が天文学的高く[きわめて速い]なるからやあ〜りませんか!」と言って一同ずっコケる。谷しげるは「ホンマに光速は、はよおます。よいしょ、は〜忙し、は〜忙し」と走りまくり。藤田まことが「あたり前田の室料でおマス(mass、質量のこと)」と見栄を切り、平和ラッパが「はあ、わての先代の師匠はお仏蘭西の[質量保存則の]ラボアジェでおマスたわぁ〜、ホンマニ、わての出る幕はおまへんなぁ〜[=特殊相対論では、質量を常数つまり一定とみる質量保存則というものは成り立たない]、ははっ〜 しゃなら〜」と舞台の袖に出てゆく、ここでまた一同ズッこける。
ここでくり広げられることは特殊相対性理論の方程式をめぐるギャグではあるが、吉本の舞台でくり広げられていることは教育ではない。(ただし、この架空のシナリオは、その議論についていって笑えるというメタレベルではきわめて「教育的」であると言うことはできる。下世話なネタなので、もう大学などで講じることは難しくなったが・・・)。
では、なぜ教育ではないのだろうか。それは教育現場のシュミラクルの形態つまり舞台装置のもとで繰り広げられる演技だからである。だから、登場人物が人間で、そこで知的なことが交わされていても、それは教育でないことがある。つまり、リアルな教育の場では、知識がやりとりされるだけでなく、行為者の一方が教育し、他方が教育される。つまり化学変化のメタファーを用いれば酸化・還元される必要がある。後者の場合は、酸素ということになる。教育には「酸素に相当するようなもの」のやりとりが不可欠なのである。
したがって、教育とは知識のやりとりを「演じる」ことではなく、教育する者と教育される者の非対称性と、なんからの能動的な「まなび」というものがないと、それは教育とは言えないのである。もちろん、教育する者も教育されるものも、能動的存在だから両者において「まなび」というものが成立することがある。例えば、教育するものは、教育される者との関係において、教えることを学び、教育されるものは、知識を学ぶだけでなく、その知識が操作される状況というものを身体を手がかりにして「学ぶ」ということである。
これらの一連の命題と、教育の定義に関する考察の議論から言えることは、きわめて簡単なことである。
ヴァーチャル教育やシュミラクル教育というものは、教育の定義とは何か、あるいは教育に必要な行為者と、行為者が期待されているものが何かということを、反省(=教訓となる否定的命題)というかたちで教えてくれるということである。
教育について議論する時に、教育とは何かという議論を大上段にかまえて、訳知り顔で話す大学の「キョーイクガクシャ」のくだらん話や「われわれは教育においてなになにすべきである」精神論に耳を傾けることをやめよう。教育を追求したい者たちが自発的に集い、ヴァーチャル教育(反教育と言ってもよいかもしれない)の突拍子もない事例をざっくばらんに検討するほうが、よっぽど効率的にかつ満足できる議論ができるはずである。
是非、いちど、このヴァーチャル教育を素材にして、議論をしてみたまえ。
※2010年の追記:このページは私がまだPBLについて真剣に考える以前に書いたものなので、現在の私の学習観は多少ちがったものになっております。
● 知的生産学入門
● 電脳人類学
引用の際には著者にご一報ください。