
アリストテレスの実践知入門
Introduction to Aristotle's phrone^sis
解説:池田光穂
● 『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの議論の進め方
アリストテレスは人間の徳を、性格の徳(エティケー・アレテー)と思考の徳(ディアノエティケー・アレテー)にわける。前者には、気前の良さ、節制がある。また後者には、知恵、理解力、思慮(=実践知)がある。まず「人生の目的」という仰々しいタイトル[いったい誰がつけたのか?]による第1巻からはじまり、第2巻から第4巻までは「性格の徳」について議論がなされている。第5巻は「正義と不正」つまり今日でいうところの司法的判断に関わることに議論が費やされている。第6巻が、我々が焦点をあてたい思慮などについて書かれている。つまりアリストテレスによるところの「思考の徳」に関する議論がここにある。第7巻は抑制のなさについて書かれ、これは10巻で述べられる快楽の議論と関連しているようである。他方、第8巻と9巻は友愛について書かれており、古代ギリシャの人たちが友愛ひいては、性格の徳[すくなくとも私=解説者はそう分類されると信じる]に深くかかわる実践行為をどのように理解していたのかについて有益な議論を提供するだろう。第10巻は、ニコマコス倫理学の講義が、次に『政治学』に連なることを示唆して「それでは最初のところから論じることにしよう」(1181b, p.496)という言葉で終わる。
『エウデモス倫理学』では「なぜなら哲学者は思慮と真理の観想とに、また政治家は徳から出た美しい行為に専念することを、享楽者は肉体的快楽に耽溺することを欲するからである」とのべ、思慮は哲学者の得意?領域として捉えている。
● ここでいう実践知とは、思慮(知慮)あるいはプロネーシス/フロネーシス(φρονησιζ)のことである。
● 魂(たましい)には、理性的な2つの部分がある(1139a*)
(1)エピステーモニコン(知識的部分)
他の仕方でもありうる[→技術的な知に関する?]
(2)ロギスティコン(理知的部分)
熟慮**することに関係、(学問的知識は)他の仕方ではありえない。
* この表記はアリストテレスの解説本によく登場する校注の入った底本であるベッカー版のページ数と欄(a[左]とb[右]に分かれる。またこの表記の後には行数が入ることもある。私は、2002年の朴一功[ぱく・いるごん]訳の参照にしたので、ベッカー版の行数については記載していない。)
**熟慮すること=ブーレウエスタイ
● たましいの中には、人の行動と真理を支配するものが3つある。
1. アイステーシス(知覚)――動物はもつが、人間のプラークシス(行為)には与らぬ
2.ヌース(知性)
3.オレクシス(欲求)――これには、追求と忌避がある
● 2つの思考
1.観想に関わる思考(テオーレーティケー・ディアノイア)―善し悪しは真偽にあり!
2.行為(プラークシス)に関わる思考―真理が正しい欲求に一致するか(1139a30)
● 魂が肯定/否定することにより、真理に到達する際の状態を5つ想定しよう。(1139b)
1.技術(テクネー)→「真理」には与らない。1140aより解説が始まる
2.学問的知識(エピステーメー)*
3.思慮=実践知(プロネーシス)*[→「他のあり方でもあり得る実践知」と理解すべきか]
4.知恵(ソピアー)* →技術の卓越性(アレテー)p.269
5.知性(ヌース)* →原理を直接把握する能力で、直観的なもの。p.269
*:われわれを真理に到達させ、決して誤らせないようにする魂の4つの状態(学問的知識・思慮・知恵・知性)。p.268
朴は、知恵=ソピアーとは「制作にも行為にもかかわらない、純然たる観想知」と言い(p.271)、ロスは、ソピアーを哲学的知恵(philosophical wisdom)と翻訳しているという。
● 第6巻第5章 思慮=実践知=プロネーシス(1140a)
「『思慮(プロネーシス)』については、われわれがどのような人々を『思慮ある人たち』と呼んでいるかを見きわめたなら、それによって把握できるであろう」(朴一功訳, p.264)
→思慮=プロネーシス=実践知は、思慮ある人たち(=フロニモス)の、経験に由来しているようだ。
→他方で、これは現在の経験的方法では方法論的には限界がある。なぜなら、われわれは古代ギリシャの人たちの生活の実際について、十分に知らないからだ[本ページ末の解説のアームソンの主張を参照のこと]。しかし、ひるがえってみると、これはアリストテレスの生きた時代の同じ人間にとっても、同様のジレンマを提示する。つまり、偉大なる師(アリストテレス)が仮に私たちに対して「この人たちは思慮ある人たちである。思慮ある人たちを見きわめ、思慮のなんたるかを把握しなさい」と言ったとしても、私たちが、その思慮ある人たちを観察し、対話し、教えを乞うても、私たちにとって「思慮=実践知」とはなんたるかを、十分に把握できないことすらあるからだ(もちろん、上のような活動を積み重ねれば、同じくらい把握できる可能性もあるのだが……)。
適切に熟慮する能力=思慮ある人の性質
たとえば、健康に生きることを考えるのに、部分的なこと(例:体力をつける)を考えるのではなく、よく生きること(エウ・ゼーン)全体のために考えること。これは、より思慮が深いと考える。
「フロネーシスとは、人間にとっての善悪に関する、ロゴスを伴った、実践的かつ真なるヘクシス※である」『ニコマコス倫理学』(vi, 5, 1140 b4-6.)
※朴一功は、別の箇所でヘクシスに対して「性格の状態」という訳語を与えている。下記の引用を参照のこと
「それゆえ、予期しない突然の恐怖の場面で、恐れることなく平静である方が、はっきりと予見される恐怖に対してそうであるよりも、いっそう勇気のあるふるまいだと考えられるのである。なぜなら、そのようなふるまいは、むしろ「性格の状態(ヘクシス)」から出てくるものであって、あらかじめ備えによるわけではないからである。すなわち、予見されるものごとであれば、人は理知的な思考や道理に基づいて選択できるかもしれないが、とっさの行為というのは「性格の状態」によるほかないのである」(1117a, 10-30)[朴一功訳、pp.130-131]
● 全体について考えるだけでなく熟慮する人(ブーレウティコス)が、思慮ある人(プロニモス/フロニモス:φρονιμοζ)である。
人間存在を、倫理性をもった存在(フロニモス)と捉えた。このアイディアは『政治学』における「フロネーシスをもった王」に現れる。フロネーシスとポリティケーは同質。
フロニモスは、ペリクレスのような優れた政治家や社会の統率者のなかにみる。なぜなら「かれらは自分自身にとっての善、総じて人間にとっての善を考察することできるからである」『ニコマコス倫理学』vi, 5, 1140b 8-10。
● 思慮は学問的知識ではありえず、また技術でもない(1140b)
学問的知識は、他の仕方ではありえない。技術は他の仕方でもあり得る。思慮は、他の仕方でもあり得るものなので、学問的知識ではない。他方、行為(プラークシス)に属する思慮は、制作(ポイエーシス)に属する技術と類において(分類のカテゴリーが別なので)異なる(p.265)。
池田光穂「現場力」を参照のこと
● 技術(第6巻第4章,1140a〜)
他の仕方でもあり得るものには次の2つがある。
(i)つくられるもの=制作=ポイエーシス
ロゴスをそなえた、制作にかかわる魂の状態。
「そもそも『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態でないような技術など何ひとつ存在せず、逆に、技術でないような『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態というのもありえないのだから、『技術(テクネー)』とは、『真なる理論(ロゴス・アレーテース)』をそなえた、制作にかかわる魂の状態と同じものである、ということになる……」(p.262)。
「技術の行使というのは、存在することも存在しな/いことも可能な事物、そしてその原理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを『理論的に考察する(テオーレイン)』ことを基礎とする」(pp.262-263)。
アリストテレスがもしこの場にいたなら?一度、我々の社会にあるハイテク・オートメーションの工場へ連れていきたいものである。
(ii)おこなわれるもの=行為=プラークシス
ロゴスをそなえた、行為にかかわる魂の状態。思慮との関係を示唆。
◆ 暫定的結論:
実践知(=思慮)は、全体について考える、思慮ある人の、考え行っている状態のなかにある、あるいはそのような行為の状態そのものをさすのではないだろうか。なぜ行為実践の中にあるかというと、それは「他の仕方ではありえる」ものに関わるからだ。
だからアリストテレスは次のようにいう。
「思慮とは、人間にとっての善悪にかかわる行為を行うところの、道理をそなえた、魂の『真なる状態(ヘクシス[hexis]・アレーテス)』である、ということになる」(1140b)朴訳p.265
ヘクシスとは、後天的に獲得される行為遂行能力のことである。
「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方をそなえていなければならない」(1141b) p.273
● 善き行為(エウプラークシアー)そのものが、行為の目的になる(思慮ある状態にあるときには・・)
● 技術には徳があるが[=技術の行使には、そのための徳が必要だが]、思慮(実践知)にはそれの徳がない 。1140b, p.266
→この言明はちょっと奇妙だが、思慮そのものが徳である、ないしは徳のひとつであると、すぐに、彼は付け加えている。つまり、思慮は(理性をもつ2つの部分のうち)「思いをなす部分(ドクサスティコン)」の徳である pp.266-267。
● 知性との対比のなかで、思慮の一般的性格を浮かび上がらせる(1141b)
「『思慮』は、人間的な事柄にかかわり、熟慮の対象となるものごとにかかわる」p.272
「無条件によく熟慮する人とは、行為において達成されるところの、人間にとって最善のものを、理知的な思考に基づいて目指す人のことである」ibid.
「『思慮』は行為にかかわるものであって、行為は個別的な事柄にかかわる」ibid.
● 統括的なもの(アルキテクトニケー)=政治に関わる思慮つまり政治術ないし政治学
「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方をそなえていなければならない。だが、この場合にも何か『統括的なもの(アルキテクトニケー)』が考えられるだろう」(1141b) p.273
● 思慮という共通の名前
「一人の人間自身にかかわる思慮が、とりわけ思慮であるとも考えられる。そして、個人にかかわる思慮が『思慮』という、全体に共通の名前をもっているのである。他方、個人に関わらない思慮のうち、その一つは『家政術(オイコノミアー)』であるが、他は『立法術』であり、『政治術』である。そして、『政治術』はさらに二つに分かれ、そのうちの一つは『審議術(ブーレウティケー)』であり、他の一つは『司法術(ディスカスティケー)』である」p.274。
→思慮=実践知としてのディスカスティケー(司法術)という言葉をここで聞くと、文化人類学者ならば、C・ギアーツのローカル・ノレッジのことを思い出さざるを得ない。
● 加齢と思慮を身につけること
(i)思慮は、個別な事柄からなる。(ii)個別な事柄は、経験から知ることができる。(iii)若者には経験がない。(iv)若者やこどもは、思慮をつけにくい。(1142a)p.276。
● 思慮は知識(エピステーメー)ではない!
「思慮が学問的知識ではないことは、明白である。……思慮は『最終的なもの(エスカトン)』にかかわるから」p.277
● 理解力との対比によって明らかになる思慮
「『理解力(シュネシス)』というのは、つねに存在する不変のものにかかわるのでもなければ、何か生成するものごとにかかわるものでもなく、人が疑問を感じ、熟慮する可能性のあるものごとにかかわるからである。それゆえに、『理解力』は思慮と同じ対象にかかわるが、しかし『理解力』が思慮と同じものというわけではない。」
「思慮は『指令的なもの(エピタクティケー)』だから……。人に何をなし、何をなすべきでないかを指令することが、思慮の目的なのである。それに対して、『理解力』の方は、単に『判断的なもの(クリティケー)』であるにすぎない。……『理解力』とはしかし、『思慮』をもっていることではなく、またそれを手に入れることでもない」(1143b, p.282)。
● 思慮=実践知とは、知ることではなく、おこなうことにある
「『思慮』というのは人間にとってもろもろの正しく、美しく、よい事柄にかかわるものであるにしても、そうした事柄は、善き人が、実際に行うべき事柄なのであって、そもそもさまざまな徳が、行為を実現するための状態であるとすれば、単にそうした事柄を知るだけでは、われわれがそれによっていっそうよく行為できるようになる、という保証は全然ないからである」(1143b, p.286)。
※【復習】
思慮=実践知が、魂の理知的部分(ロギスティコン)ないしは思いなす部分の徳である一方、知恵(ソピアー)は知識的部分(エピステーモニコン)の徳である。第6巻1章と5章を参照せよ。
● まとめにならない[=相互に矛盾する?]まとめ(1144a, p.288)
(i)知恵も思慮も何もつくりださないけれど、それ自体では望ましいものである。
(ii)知恵も思慮も何かをつくりだすが、それは医療が健康を作り出すようなことではなく、健康が健康をつくりだすようにである。
(iii)人間のはたらきは、思慮および〈性格の徳〉により果たされる。徳は目標を正しくし、思慮はその目標のための物事を正しいものにする。
● 才能(デイノテース)について
「『才能』というのは、設定された目標に寄与する事柄を行い、その目標を達成するような能力のことである。そこでもし目標が美しければ、『才能』は賞讃されるが、しかし目標が低劣であるなら、その『才能』は単なる『狡猾(パヌールギアー)』にすぎない。それゆえに、われわれは思慮ある人たちでさえも、『才能』があるとか『狡猾』であると言うのである」(1144a, p.290)。
● ソクラテスの誤り方から、思慮のあり方について知る
「ある人々はあらゆる徳は思慮であると主張しており、またソクラテス[→プラトン『メノン』88A-89A]はある点では正しく探求していたが、ある点では誤っていたのである。というのも、徳はすべて『思慮』であると考えていた点で、ソクラテスは誤っていたけれども、『思慮』なしには徳はありえないと言っていた点では、彼は正しかったからである。……徳とは単に『正しい道理』に基づく状態ではなく、『正しい道理』をそなえた状態こそが、徳だからである。そして、徳の事柄に関する/『正しい道理』とは、『思慮』にほかならないのである。かくして、ソクラテスはさまざまな徳はもろもろの『道理(ロゴス)』であると考えていたが(彼によれば、すべての徳は知識だからである)、それに対してわれわれは、徳とは『道理』をそなえたものであると考える」(1144b, pp.292-293)。
● 思慮なしには徳はありえないが、また思慮=実践知だけがすべてではない!
「『思慮』は『知恵』を支配するのではなく、また魂のよりすぐれた部分を支配するわけでもない……。それはちょうど、医術が健康を支配するものでないのと同様である。なぜなら、医術は健康を用いるのではなく、健康が生じるようにはからうものだからである。それゆえ、医術は健康のために指令するのであって、健康に対して指令するわけではない」(1145a, p.294)。
● 徳の2つの分類(1103a, pp.53-54)
(i)思考の徳(ディアノエティケー・アレテー)
知恵(ソピアー)、理解力(シュネシス)、思慮(プロネーシス)
(ii)性格の徳(エティケー・アレテー)
気前の良さ(エレウテリオテース)、節制(ソープロシュネー)
「われわれは知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて賞讃するのである。そしてわれわれは、人々のさまざまな魂の状態のうち賞讃に値するものを、徳と呼んでいるのである」(p.54)
● まとめ

アリストテレスの著作理解の困難さをジェームズ・O・アームソンは次の3にまとめている。ひとつは、アリストテレスの生きていた時代の概念や生き方が我々のものとは根本的に異なるものであるという「異文化」ないしは「文化の相違」に由来するもの。2番目は、翻訳の問題で、これは、ローマ帝国の人たちがギリシャ語を理解する時に自分たちの文化概念にもとづいて翻訳している。したがって、この問題は最初の困難と関係しており、我々はギリシャ語と、それを解釈するラテン語の翻訳から影響をうけ混乱している可能性があるという。そして、三番目はこと『ニコマコス倫理学』に関しては、首尾一貫し完結した本というよりも、アリストテレスが講義のための準備したノートのような著作だというのである(これは現代の我々が、ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが生前に出版せず、学生の講義ノートと彼自身の膨大なメモ下書きなどを手がかりに、LWの思想を理解しようとしていることに似ている)。
ニコマコス倫理学の5,6,7巻は、エウデモス倫理学の4,5,6巻と同じで、前者はもともと『エウデモス』由来のものであると推測されるとアームソンは指摘する(翻訳 p.10)。
文献
アリストテレス『ニコマコス倫理学』朴一功 訳、京都:京都大学学術出版会、2002年
アームソン、J.O.『アリストテレス倫理学入門』雨宮健 訳、東京:岩波書店、2004年
荒木勝「アリストテレス政治学における知慮(フロネーシス)の位相」『思想』1006号、Pp.57-83、2008年、はこのページを制作してのちに見た文献だが、アリストテレスのフロネーシスの概念をめぐる多様なあり方を指摘した点(ただしアリストテレスという作成者のある人格を体系や統一のもとに読みとろうとするプロクルステス的欲望はいただけない)や、現代の思想家が実践概念をある一定の読み方をしていることを示唆した点で興味深い。
岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』岩波書店、1985年
現場力(池田光穂)
日本語で考える実践知(池田光穂)
実践知の世界(田邊繁治『生き方の人類学』ノオト)
暗黙知(池田光穂)
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