中川米造
Yonezo NAKAGAWA, 1926-1997
1926年3月23日、旧植民地の朝鮮・京城(ソウル)生まれ。
1940年京大・医学部に南方医事研究会、医学部薬学科に南方生薬研究会発足。
1943年 12.10 京都帝国大学の南方科学研究所設置をもり込んだ1944年度予算案、閣議を通過。
1945年3月 京大評議会、南方科学研究所設置を議決。
1945年4月 京都大学医学部入学
1945年5.22 戦時教育令公布(勅令320)。全学校・職場に学徒隊結成。日本敗戦後には鳥取?に居住。また敗戦時には舞鶴にいたとの話を同級生の方からうかがったことがある。中川は「自分の少年時代はかなり熱心な軍国少年であった」旨を発言。
9.17 真下俊一医学部教授以下10名、大学の原子爆弾災害総合研究調査班として広島で調査中、暴風雨による土砂崩壊で死去。 10.9 杉山繁輝医学部教授死去。 10.11 大学葬挙行。
10.22 GHQ、覚書「日本教育制度ニ対スル管理政策ニ関スル件」において、軍国主義的、超国家主義的教育の禁止、教育関係者の審査などを指令。
1946年11.3 日本国憲法公布。1947年5月3日施行。
1947年3.31 教育基本法公布(法律25)、 学校教育法公布(法律26)。6・3・3・4制の新学制を規定。9.30 帝国大学令・帝国大学官制、国立総合大学令・国立総合大学官制と改称(政令204)。京都帝国大学は京都大学と改称。
1948年8.2 文部省学校教育局長、医学部および歯学部を有する大学総長に対し、医学部および歯学部の新制大学切替えについて通達。旧制大学における医学歯学教育刷新の問題は戦後早くから取り上げられ必要な改革が行われていたことにより当面新制大学の1学部として承認し、審査は2年後に実施するとする。9.18 全日本学生自治会総連合(全学連)結成。10.28 医学部学生大会開催。大学法試案要綱への反対を決議。
1949年民主主義学生同盟(民学同)主催の大学法案[占領軍Civil Information and Education Division, CIE提案による―引用者]反対決起大会開催。職組、民主主義科学者協会(民科)、理学部自治会などの応援を得、学内外での宣伝啓蒙を全国的運動に拡大することを決議。
以上の記述は[京大百年史年表より]。
1949年京都大学医学部(耳鼻咽喉学)卒業。
1950年5月耳鼻科医局に入局[志願医員助手→志願医員]、10月に助手に採用される。同50年9月医師免許取得。
1951年11.12 京都大学に天皇訪問。学生、天皇の乗った車を遠巻きにして平和の歌を高唱。同学会、天皇への公開質問状を作成(天皇事件)[京大百年史年表より]。
1952年9月 保健診療所に配置換(〜1954年2月)
1952年6月24-25日 吹田事件(大阪大学豊中キャンパスから出撃した朝鮮戦争反戦暴動。箕面市の笹川良一邸宅襲撃と吹田操作場軍用列車襲撃未遂[進駐軍C.W.クラーク准将襲撃を実行]をおこす。)
1954年 武谷三男『弁証法の諸問題』理論社[武谷は星野芳郎とならんで、日本共産党の科学論イデオローグになる]。
1954年8月 大阪大学医学部講師に昇任
澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき, 1904-1995)が1941年より開講した大阪大学医学部での医学概論の授業に参加していたものと思われる。これ以降、中川の自称する専門分野は医学概論となる。当時の職務命令書によると、実際に[大学院]授業担当になるのは1956年4月からであり、所属教室は、生理学第一教室である。これは澤瀉久敬と親交の厚かった生理学第一教室の久保秀雄教授[在任1937-1966]の計らいによるものであろう[関連リンク]。ではこの間、中川が何をやっていたのか?――少なくとも1955年8月までは学位論文の実験・執筆に勤しんでいたのだろう。また学位取得後は、澤瀉や久保ならびに梶原三郎医学部長[衛生学教授で丸山博の前任者在任1952-56;生没1895-1986]との良好な関係をもちながら医学概論にむけての本格的な勉強をしていたと思われる。私(池田)も中川がこの頃を回顧して「当時、随分勉強させてもらった」旨の発話を聞いたことがある。
1955年7月、日本共産党第6回全国協議会(六全協)で武装闘争戦術を放棄する。
1955年8月24日付で医学博士の学位(論題 Relation du Systeme Nerveux Vegetatif et de L'equilibre - Essai d'une Synthese Psychophysiologique. 旧制 学位記番号 3485)を京都大学より授与されている。
1955年森永砒素ミルク事件が発覚
1969年12月以降の裁判闘争を支援した丸山博研究室と関わることになる。丸山研究室のこのサークルは「森永ヒソミルク中毒追跡調査会」と呼ばれる[百年史 p.232による]。
[中岡(2001:62-63)によれば、砒素ミルク事件へのコミットは、六全協ショック以降の科学史家としての生活と意識の建て直しであったと考えられると指摘]。
1955年 生理学専攻の授業担当を正式に任命される1年前に「神経学の理論的問題」の標題で医学概論特論の授業担当している。
これは1955年に新制大学院が発足したため、医学概論がその主科目のひとつになったからと言われている。(1949年に新制大学の発足されたので年次進行で6年後に医学研究科の新制大学院は発足か?)[百年史 p.235]。
1956年4月 生理学専攻の授業担当を正式に任命される。この年の医学概論特論テーマは「形態学と機能論の論理」。
1958年、星野芳郎『技術革新の根本問題』勁草書房。島成郎、日本共産党から除名、共産同へ。
1957年 医学概論特論「病者論と医師論」
1958年 医学概論特論「社会医学の基礎的問題」
1959年 医学概論特論「健康の科学としての医学理論」
1960年 日本科学史学会の医学史分科会(大阪)が丸山博教授[衛生学、在任1958-1973]のもとで発足、翌1961年より『医学史研究』の発刊がはじまる。医学概論特論「理論生物学」
1960年1月19日、日米相互協力および安全保障条約(新安保条約)調印。5月20日【60年安保】衆議院本会議、日米新安保条約を強行採決。全国の大学で60年安保闘争が起こる。新安保条約は6月19日に自然承認される。
1960年代「青年科学史家集団」が形成され、青木靖三、広重徹、坂本賢三[吹田事件に参加]、荻原明男、山田慶児、中岡哲郎、後藤邦夫らと共に中川はこの集団の活動に参加(中岡 2001:62)。
1961年 医学概論特論「医学思想史」
1964年 東パキスタン(バングラディシュ)調査旅行
1965年助教授に昇進。医学概論の担当ポストは単独であったため研究室は、衛生学教室(丸山博[1909-1996]教授)に附属するかたちで処遇される。
1966年3月 生理学第一教室の久保教授の退官。「医学概論」の世話教室は衛生学教室となる。
1966年 東アフリカへの調査旅行
1967年 日本科学史学会編集の『日本科学技術史体系・医学編1.2』第24・25巻を丸山と中川が編集担当し出版(第一法規)。
1971年学部内に新設された教育企画調整室の創設に関わり、5期10年間副室長を務める。
教育企画調整室という医学教育カリキュラムの改革部局が設置される背景には、1960年末に絶頂を極める大学紛争を形成する流れのひとつに無資格医の医局労働搾取に関するインターン闘争[ca.1965-1968]があったからである。
1970年には丸山博教授が代表になったアーユルヴェーダ研究会が発足する。丸山が退官した73年以降は、中川研究室で1984年まで月例研究会が開催されるようになる。
1973年 丸山博教授退官。丸山は1969年以降、森永ヒ素ミルク事件の中毒後後遺症調査会活動のため、小児科学教室と反目関係にあったため名誉教授の称号を与えられなかったといわれる[この挿話はよく語られるが事実関係は不詳]。
1980年大阪大学大学院医学研究科に修士課程が新設されることにともない、衛生学教室を改組し大教室化した環境医学(医学概論)教室の教授に就任する(旧・衛生学教室教授は後藤稠[ごとう・しげる, 1923-1997])。
1981年4月、佐藤純一がはじめての博士課程の大学院生になる。佐藤は1982年以降、木曜会あるいは木曜ゼミと呼ばれる中川研究室のゼミナールの実質的運営者となり、1988年7月に発足した医療人類学研究会[中川会長][資料]発足・発展・休会を経て、現在では医療文化研究センターにおいて若手研究者および市民向けゼミナールを続けている[2007年3月末現在]。
1987年医学部医学倫理委員会が設置、委員となる。
1989年大阪大学を定年退官し、滋賀医科大学教授[実際は88年より就任し、大阪大学教授は併任となっていた]。1989年大阪大学名誉教授。
1991年滋賀医科大学を退官した。大阪国際女子大学(1994-96) 、仏教大学(1996-死亡時まで)教授を歴任。
1997年9月30日腎癌摘出後の肝転移が発見され、それにより死亡。
文献
小坂富美子、1977「中川米造」『現代人物事典』朝日新聞社。
中岡哲郎、2001「労働・近代・技術」インタビュー(聞き手/柿原泰)『現代思想』29(10):62-73.
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著者不詳、いわゆる「(中川米造先生の)叙勲に関する申請関連資料等」(非公開)
池田光穂
「人はどのようにして現代医療のなかで思索者になるのか?」(中川米造・論)
「澤瀉久敬と中川米造」[作成中]
大阪大学医学伝習史刊行会編、1978『大阪大学医学伝習百年史』(基礎講座・研究施設 編)、Pp.234-235、大阪大学医学伝習史刊行会[大阪大学医学部学友会]。なお「医学概論研究室」の記述については全文をリンク先に掲示してある。
澤瀉久敬「思い出」(pp.213-240)「医学の哲学:医学概論開講40年を迎えて」(pp.241-267)『医学の哲学:増補』東京:誠信書房、 1981年
資料
大阪産業大学綜合図書館「中川米造文庫」(約6000冊)
「大阪大学名誉教授である故中川米造教授の個人蔵書の寄贈を受けたものである。内容は医療倫理学、医学史を中心とした文献からなり、広く哲学、社会学、歴史学、文化人類学、心理学なども含む(5,000点所蔵)」(同図書館の紹介記述より)
京都大学電子図書館 博士学位論文データベース
京都大学百年史年表 同書を基に作成された大学年表
顔写真[阪大・医学概論の継承者]「医療と人権:文化人類学の立場から」(池田光穂)より
関連リンク
謝辞
ウェブページ作成に際して、佐藤純一・高知大学医学部教授のご支援を賜りました。記して御礼申し上げます(March 1, 2007)。