「高齢化社会」の理想と幻想
――エイジレス社会は可能か?(1990)――
はじめに
日本が先進国のなかでも、ずば抜けて「高齢化」の道を歩んでいることは、つとに知られている。平均寿命は世界最高水準を達成し、出生率は過去40年間に半減した。全国民に占める65歳以上の人口の割合が7%から14%に増えるまでにかかる年数は、フランス130年、スウェーデン85年、米国70年、イギリスと西ドイツは45年に対して、日本では25年で達成しようとしている★1。
行政および民間団体が、「高齢化社会の到来」「働きがいと生きがい」「第2・第3の人生に向けて」というスローガンで、新たな価値の変化と創造を主張するのも当然と言えよう。そして、それは単に新しい社会の意味や価値観の到来を予期するだけでなく、生産や消費という経済や社会の仕組みそのものの変化−−より積極的には変革とも言えるだろう−−を意味しているからに、ほかならない。
現在、さまざまな角度から検討されている高齢化社会の未来像≠ノは、端的に言うと相反する二つのイメージ、あるいは論調があることに気づくだろう。ひとつは、高齢化社会を歓迎すべきものとしてとらえ、快適な生活を約束する、いわゆる「明るい」(positive)論調である★2。もうひとつは、高齢化社会を、避けられない宿命として予想し、それによって生じる弊害や不公正を改善するためのぎりぎりの設計を提示する−−どちらかと言えば「暗い」(negative)−−論調である。後者の立場は、現状の老人問題から議論を掘り起こしているものが多い★3。むろん、おおかたは、そのような論議を合わせもつと、言ってよいだろう。
「高齢化社会」は、未来を予測し、それに対処しようとした人びとが頭に描く設計図であったし、今後もそうありつづけるだろう。だが今日、専門家間のみならず巷間にも、この種の議論が多く聞かれるようになったのは、とりもなおさず、人びとが抱いている「高齢化」にたいする期待や不安が入り交じっていることは明らかである。なぜなら、実際の人口集団の高齢化は昨日今日に始まったものではなく、すでに漸進的に起こっている現実なのであるからだ。
問題の本質を考えるにあたって、「高齢化社会」が、いかなる状況のなかで問題化されてきたのか?、高齢化の概念の背景にある「老齢」あるいは「老人」が、今日の社会において、どのように理解されてきたのか?、を明らかにしておくことは重要である。本稿は、そのことに焦点を当て、概観し、何らかの展望を与えてみたい。
「高齢化社会」論
高齢とは、人間のライフサイクルにおけ加齢(エイジング)の結果をさし、高齢化社会とは、高齢者−−65歳以上である−−人口構成の比率が高い社会のことをさす。
しかし、高齢が、なぜ65歳以上−−このことについては後で触れる−−なのか?、人口に比してどのくらいの比率を超すとそう呼ばれるのか?、については明瞭な答えはない。また、高齢者社会論という論議には、「社会そのものが高齢化していき、社会の活性そのものが減退してゆく」という言外の意味があることも確かである★4。
そして「高齢化社会は問題である」という意見のなかで、もっとも切実な話題であり、説得力があるように感じられるのが「高齢化社会は経済危機を生み出す」という主張である−−これを高齢化社会=危機論≠ニよぼう。
この経済危機論における最大のもののひとつは、国民年金や国民健康保険における収支決済が、長期的にみれば赤字になり、制度そのものが形骸化あるいは崩壊の道をたどるのではないかと、いう懸念である。このような危機感は、国民年金や国民健康保険における行政の対応の歴史を見れば明らかである。
1959年に国民年金法(厚生・共済組合・国民)が制定され、現在のような国民皆年金体制への移行が始まった。また61年には、4カ年計画で進められていた国民皆保険制度が確立し、5割から7割に移行する給付割合を実現してきた。高度経済成長に支えられた60年代を通して、これらの制度は定着してゆく。そして、その結果、この制度は72年には「新しい福祉社会の建設」(同年の『経済白書』)というビジョンの中でうたわれたのである。
しかし、73年つまり「年金元年」(同年度『経済白書』)と命名された年の秋に、オイルショックによる、雇用の停滞と賃金上昇の低下が引き起こされた。この年から、年金額の引き上げと物価スライド制が導入されるのである。早くも、74年には「日本型福祉社会」論(〜79年)というかたちで、福祉政策の見直しが計られるようになった。つまり、社会保障制度を合理化していく動向がすでに始まっている。
80年代になり、財政の赤字問題は、さらに深刻化し、83年施行の老人保健法において、それまで無料であった老人医療費が一部負担になった。84年健康保険法等の改正では、被保険者の一部自己負担が課せられるようになった。さらに、86年の老齢年金制度における改正では、年金制度への国民成人の強制加入が決められた。政府は、高齢化社会に向けて「長寿社会対策大綱」をまとめるための閣議決定をおこなっている。
これらの一連の政策のなかに見いだせるのは、「生産活動に従事している人びとが、年金や福祉というかたちで高齢者≠支えている」という発想なのである。これは常識的には正論のように思われるが、この発想には、いくつかの論理的な前提を必要とする。
まず、経済的発展に対するタイムスパンが短く、かつ財政中心主義であることだ。つまり、問題にしている時点での、生産活動と消費活動のバランス(経済収支)の帳尻が短期的にみて均衡でないことに危機感を抱くのである。ある時点での経済および社会的資本蓄積を長期にわたって成し遂げた社会成員、すなわち、その時点における高齢者の成果として評価しない。また高齢者を生産活動に従事できない浪費者ととらえる視点もうかがえる。そこでは高齢者は生産社会を構成しない排除項になってしまっている。
高齢者をイメージの上で「排除する発想」については、後述するとして、以上のような高齢者社会=危機論という問題とその立て方に対して、どのような処方せんが、現在用意されているか、次に見てみよう。
高齢化社会を「克服」する法
高齢化社会=危機論に対する反論はいくつか挙げられる。国民経済的な視野からの批判、技術革新への期待、医療資源の適正配分などの意見が、それである。
国民経済的な観点からの批判として、まず、高齢化社会=危機という考えは幻想なのではないか?、という主張がある。例えば、高齢者を支えるのは、人口比で表されるような生産年齢人口ではなく就業者の絶対数である。高齢者比率をみるときに、分母に、生産年齢人口ではなくて就業者数で除したら、今日においても急激な変化は到来していないのだ、と主張するのである★5。
このような論理を立てる一連の人びとは、老人医療費の一部負担とか国民健康保険の一部自己負担というものは、財政的な改善には結びつかず、単なる福祉の切捨てなのだという。あるいは、労働分配率と高齢者に帰属する資本の取り分の意味の理解が誤っている、という指摘もある★6。これらは、危機論の論拠が統計資料の誤読あるいは曲解に根ざしていると批判する点で共通している。
次の、技術革新への期待とは、今日におけるハイテク高度情報化社会が、さらに充実し実現することによって、古典的な高齢化社会=危機論は乗り越えられる、とするビジョンのことである。
それによると、高齢化社会というのは、暗いものではなく明い、貧しくなくて豊かであると、旧来の主張に見られるような否定的なイメージの払拭をはかる★7。
高齢者が背負う生理的なハンディは先端医療技術によってカバーし、臨床医療情報のネットワーク化によって都市および村落部の両方においても快適な医療を受けることができるという。
技術革新は、個々のサービスに対するコストを下げ、ひいては高齢者に投下される資金を回収することが将来には可能になる。また、高齢者に対する福祉技術の開発を促進する現有の投資構造≠ェあるからこそ、そのための医療の発展や進歩が、今後とも可能たり得るのであり、高齢化対策における財政的締めつけは、そのような開発の機運をそぐという議論もある。
このような一連の見解は、先に述べたように、高齢者への経済負担の危機という側面のみに注目する経済中心主義への批判にもなっている。
第三の、医療資源の適正配分という改善策は、今まで述べた、経済危機論という問題の立て方や発想を批判するものではない。むしろ、高齢化社会は、現有の経済構造のままでは、「金くい虫」をさらに肥大させることになることを積極的に認める。その上で、「残された資源を有効に配分しよう。有効に使えば現有の資源でも、充分にやりくりできる」と主張するのである。
そこでは、医療施設の使い方、とくに医療へのアクセスに、適正配分という考え方を導入しようとする。例えば、病気になった人を同等かつ均質に病院に収容するのではなくて、病気の種類や年齢に応じて、適正な医療的対応をする。再発防止や悪化予防のために、予備的な検診をおこなったり、医療以外の社会的サポートをする。また、集団検診の費用−便益分析などを積極的におこない、病気の発見のための経費とその治療の効果を高める。
要するに、重病患者にはより重厚なケアを、軽微な人には例えば心理的及び社会的なサポートを行うことによって、医療機関がこうむる過重な負担を避けようとするあり方である★8。
このような方策は、十分に管理された地域で、その介入方法が強力であるという条件下では、当初混乱がみられるものの、ある程度の成果が上がるという、いくつかの現場からの報告を根拠に主張されている。今日、プライマリ・ヘルスケアという考え方と相まって第三世界の公衆衛生の主流な考え方と連なっているものである★9。
イメージにおいて排除される「老人」
先において、高齢化社会を経済的な危機とみる問題の立て方のなかに、高齢者を排除する発想≠ェあるのではないかと触れた。その場合における、排除とは、経済的観点≠ゥらのものであった。だが、経済的な諸活動そのものが、私たちの生活になかでも大きなウエイトを占める現在においても、その排除≠ヘたんに経済的なものに留まらない。
以下は、この高齢者への排除の構造が、我々の認識のレベルにまでいたっていることを、指摘しておく。そこから、どれだけ自由になれるかが、今後の高齢化社会に関する議論のなかで重要な分岐点になってくるのではないかと、思われるからである。
高齢化問題をある特定の個人における老化ということに焦点を絞ると、まず、我々の社会における老人のイメージを問題にしなければならないだろう。
老人に関するわるい(negative)イメージを列挙すると−−若干なりとも記すことに気がひけるが、「弱々しい」(=身体的活動の低下や病気)、「皺のよった」「汚い」(=身体的な老化やその外見)、「依存的」(=自発的活動からの後退)、「頑固」(=柔軟性の消失)などが浮かび上がってくる。このような特性は人間の加齢に伴って不可避なものとされるものである。問題は、このようなことが社会的に共有されるイメージとして、人びとの意識として定着しステレオタイプ化することである★10。
現代社会の公的なメディアには、このことを表面化させない自己検閲の機能がある。あるいは、よい老人のイメージをもって、現実を覆い隠すような機構が働いているのではないかと思われる。例えば、製薬会社などが、高齢者向けの薬を宣伝する場合などは、ハンチングを被り白い髭などをはやした欧米の高齢者を使ったり、スポーツをするはつらつとした老人のイメージを多用する★11。ところが、現実に、電車に乗ってみると、背を曲げた、和服を着たおばあちゃんが「座らしてんか」と、やってくる。このギャップの意味を真正面からとらえ、そこにはらむ問題点を指摘しておかないと、高齢化社会における「老人問題」の社会・文化的側面を見落としてしまうだろう。
「老人」という定義には、常識的にみても疑問点をいくつかはらんでいる。人口統計あるいは高齢化社会を公的に論じる際に、老人の定義が65歳以上と定義するが、これには、どのような根拠があるのだろうか。
通文化的−−世界のいろいろな文化や社会にを横断的に比較する−−に見ても、「老人」というカテゴリーは、ほとんどあらゆる社会に見あたるが、この65歳という年齢を老人とみなす根拠は見あたらない。老人を生理的な年齢で決定すること自体が、きわめて恣意的な方法なのである。このことは、老人医療費を抑制するには、老人を定義する年齢を引き上げればよいという戦術とも密接に関係している。
「高齢者の社会参画」というスローガンがしばしば挙げられるが、多くの伝統社会・未開℃ミ会では、老人は常態的に「社会参加」している。従って、このような主張は、老人はリタイアメントする−−社会から引き篭る−−ものだという近代西洋的な発想から出てきたものだと、言わざるを得ない★12。
人間の生命の延長を最高の価値として発展させてきた近代医学のありかたにも疑問が出されている。老人医療における死の問題≠ヘ、ホスピス医療の実践などでクローズアップされた。がん告知やインフォームド・コンセントなどは、これからの老人を主体とした医療では重要な課題になるだろう。★13。老人は、医療−−老年医学と呼ばれる−−の対象としても特殊化・専門化される傾向にある。
がん研究には現在まで、莫大な資金が投下されてきたが、もし日本におけるがん(悪性新生物)なくなる人びとを統計の上で除いたとしても、男性で3年、女性で5年しか、全体の寿命は延びないと言われている★14。がん研究は、医学における、さまざまな副次的成果を生んだかもしれないが、がんの医学的克服が、人口集団にとっての平均寿命を引き上げる可能性は小さい。ましてや、末期がん患者の医療や看護に関する研究などは、がんの自然科学研究に比べて、研究費や研究の規模においても極めて低いという現実は注視すべきだ。
老人概念の「解体」にむけて
老人が生産のシステムから排除≠ウれ、否定的な意味を負わされるようになった直接の契機は近代の産業資本主義の産物といっても過言ではない。今日的な生産とそれに寄与する労働の概念が、一義的に固定化していくなかで、老人は生産から、さらには認知的に排除されるもの≠ニして決定されていった。
むろん、老人だけが、そこから排除されたものではない。「女性」「子供」「障害者」という、生産に従事するものという支配的な価値観から排除されるというものという一連のつながりの中での、「老人」のことを言っているのである★15。
だが、老人を積極的に評価する見方も存在する。わるい(negative)老人概念の流通≠ニ同様、よい(positive)老人イメージも、やはり、社会のシステムにおいて流通し、一定の機能し、それが再生産されていると見てよい。商品経済における物質的な流通と同じように、ある種の社会的カテゴリーにおいても、名声や人びとの注目といった、象徴的な資本の蓄積と流通過程があるという指摘もできる★16。
老人のよい(positive)イメージを拡大再生産するようなシステムは可能であろうか?、ということが試されねばならない。「老練な」「一徹な」「渋い」「熟達した」というイメージは、老い≠ニ容易に結びつけられるものである。もっとも、このようなイメージの大部分が利用されるのは、伝統技術、工芸、芸能、芸道、芸術といった分野である。つまり、工業的な生産活動の特質とは対極に位置する領域である。
その意味では、即物的な生産ではなく、伝統的価値をおびた少量生産やソフト・サービスに重点がおかれる今日において、老い≠フもつ積極的な意義を活用するチャンスは到来しているかも知れない★17。あるいは、そのような価値の再生≠生み出す土壌つくりのために、先のような伝統技術や産業などを、老人の社会参画を含めた新しいかたちで振興することも必要となろう★18。
このようなイメージ上の戦略を主張する背景には、高齢とか老人というカテゴリーがどこまで解体できるのかという、より根元的な課題が残されているからなのである。
今日、ともすればステレオタイプとして見なされ、個々人の顔が見えにくいカテゴリーとして、「女性」「子供」「老人」「障害者」などがあげられ★19、先に述べたように、生産活動からの排除されたものの属性である、と言った。これは同時に労働力再生産の中心的主力であった「壮健の成人男性」というカテゴリーから排除されたものでもある。
通常、我々はステレオタイプとして成人男性というレッテルを使うことには慣れていない。個々の「成人男性」を語るときには、むしろ特定の○○さんや「××歳の商店主」「△△在住のサラリーマン」などと細分化され、幾ばくかのリアリティーをもって取り扱われやすい。だが、「女性」「子供」「老人」「障害者」は「成人男性」よりも一般化されやすい。
それぞれの顔とか個性が見えてくるような老人というものを、社会や行政の働きかけのみではつくり出すことはできない。むしろ個々の人びとの意識の問題とも言えなくはない。しかし、社会がそのような背景すなわち環境をつくり出すことは、ある程度可能ではないだろうか。それが行政において、どこまで期待できるのか。老人・高齢化社会というようなものを乗り越えるひとつのキーポイントのように思われる。
【註】
★1:情報は厚生統計協会編『国民衛生の動向1989年』厚生統計協会、1989、p.124、表2を改変したもの。
★2:(財)21世紀ひょうご創造協会編『21世紀兵庫の基盤となるリーディング・プロジェクトに関する研究−社会システム分科会−第1回研究委員会資料(2)キーワード集』、1989 によるキーワード群のうち、高齢化社会に関するキー・タームは以下のとうりである。
【高齢化と社会システム】
ゆとり社会、ハッピー・リタイアメント、ウェルネス、スポーツの生活化、
【高齢化と地域開発】
シルバー・ハウジング、人にやさしいみちづくり、ヒューマンスケール、行政のソフト化
【高齢化と教育・文化】
生涯学習社会、福祉教育
【高齢化とコミュニケーション・モビリティ】
シルバー・ボランティア、世代間交流
【高齢化と新技術】
在宅医療支援システム、シルバー・サービス産業
これを見ると、どのような各分科会に相当するテーマのなかでも、高齢化社会における様々な課題やテーマが挙げられている。そして、それらのテーマはおおよそ、明るい未来を連想させるものである。このようなことを念頭においた高齢化社会の設計図を提示されたら、誰しも機嫌を悪くするものはないだろう。
★3:例えば、現在[1990年当時]、日本社会には約60万人の「ねたきり老人」が存在すると推定されている。その内訳は、在宅約25万、6カ月以上の長期入院患者−−そのような患者を専門にする施設≠ヘ「老人病院」と言われる−−が約25万、特別養護老人ホームが約10万となっている。将来の老年人口の増加を考えると、先行きを不安に感じる人びとが多くいても不思議ではない。厚生行政は、1985年になってはじめて中間施設などのあり方の検討を始めたばかりである。(厚生統計協会編、上掲書、p.124)
★4:ある社会における老人≠フ社会的意味づけと、人間が老化することに関する価値には重要な関係がある。老人になることを人間的な完成と見る社会では、老化とは円熟であり、至福で好ましいものとされる。このような社会において、人びとは老齢ということば≠ノ否定的なイメージを持つよりも、積極的な価値を見いだそうとする。だから、ひとは「高齢」ということばの代わりに、清廉な白髪やいぶし銀を連想させる「シルバー」をよい意味≠ニして使おうとするのである。同様に、エイジレス社会も、文字通り読めば「年齢のない社会」であるが、誰も年齢を感じさせないハツラツとした社会≠ニいう程度の意味をもたせているようである。問題はエイジレスの提唱が、エイジド(歳とった)の側からの発言であることが、若い人に、幾ばくかの不信感と距離感を与えていることではなかろうか。★11も参照せよ。
★5:川口弘、川上則道『高齢化社会は本当に危機か』あけび書房、1989。下記は厚生統計協会編、上掲書、p.43、表2[改変]および表3
★6:古川俊之『高齢化社会の設計』中公新書、1989
★7:このような楽観的な期待に、古典的な「ユートピア主義者としての科学者」像を見ることは容易である。あるいは、技術革新は人間の生活に寄与できる、あるいは寄与しなければならない、という素朴な理想が見え隠れしている(古川、上掲書より)。技術革新が、時に人間を苦悩に陥れるメカニズムたることが、明らかになった現在でも、である。
★8:Hiatt,Haward.,America's Health in the Balance: Choice or Chance,Harper & Row, 1987(邦訳『医療[救命ボート]に乗り遅れるな』遠藤明訳、日本医事新報社、1989)。また、今日、米国において、臨床疫学とよばれている分野においては、病院内における、オペレーションズ・リサーチ、意思決定、費用−便益分析、などを用いて、医療における「効果的運営」の研究が進んでいる。
★9:このような政策が「よいことづくめ」であれば、もっとこの方法が普及している。この政策の有効性には限界があると言われている。それは、公衆衛生政策のような、社会全体の衛生あるいは疾病の状態の改善には、個人を対象とする臨床医療とは別の要因が絡むからである。それは、ここで取り上げているように医療における政治≠ニいう問題なのである。
★10:横浜での、少年たちによる「浮浪者」襲撃事件の際には、ホームレスに対する少年たちのステレオタイプが、通常の人間に対する攻撃性の抑制を越えさせたのではないか、という識者の見解が紹介された。この見解が、どこまで妥当性を持つものかは不明であるが、ステレオタイプには、個別の人間性に対する配慮(攻撃性の抑制など)を容易に越えさせてしまう作用があるのではないか、という事例には、今日こと欠かない。
★11:別添写真のような例で一目了然である。別添参照、(A)杏林製薬販売の非ステロイド性消炎鎮痛剤の広告から、(B)日本チバガイギー販売の精神活動改善剤・パーキンソン症候群治療剤の広告から、一部分を出典した。「コマーシャル・メディアに登場するのは、好ましい老人だけではない、吉本興業のタレントを使った、バッド・イメージの老人も登場するのでは?」という反論もあるかもしれない。しかし、主要なメディア・イメージが「好ましい老人」を多用しているからこそ、吉本のゲリラ的な宣伝効果が引き立つというものである。
★12:片多順『老人と文化』垣内出版、1981 は、高齢者の通文化研究による「老人概念」を検討した好著である。片多は、ともすれば「普遍的な」老人の復権と福祉の向上をめざすものと考えられがちな「老年学(Gerontology)」を、西洋中心的な老人概念に引きずられている観があると批判している。文化人類学者による、通文化的な老年研究はその後も継続的に続いており、現在では多数の研究がある。それに伴い、老年学サイドにも、このような知見を利用した研究が多く発表されているので、片多の批判した側面も改善されてはいる。ただし、日本のマスコミを中心とした論客のなかには、西洋的な老人ケア−−特に北欧の諸国を理想とする−−で示される老人概念を至高の価値として、日本の高齢者対策を批判する者が少なからずいる。理想は高潔だが、ないものねだりという観は免れない。
★13:インフォームド・コンセントとは、医療者が患者に対して、納得のいく説明をおこない、そのことを承知の上で患者の合意(あるいは治療上の選択)がなされること、をさす。1990年初頭、日本医師会会長の私的諮問機関である生命倫理懇談会が、日本ではタブーとなっていたがん告知≠ノ対して、一定の条件のもとで″sなってもよいのではないか、という見解を出した。条件付きの告知や、インフォームド・コンセントに対する理解が誤っているのではないか、という指摘があるが、日本におけるがん告知の歴史からみると、画期的であることにはかわりない。
★14:厚生統計協会編、上掲書、p.82、表3より抜粋した。
★15:これらの一連のカテゴリーが、単に生産に従事できないからといった理由で、同様に排除されていたのではない。イギリスの産業革命においては子供の労働力が、日本の殖産興業のなかでは少女(これは女性と子供の両方を合わせもつカテゴリーである)が、生産のシステムのなかで機能した−−搾取されたと言うべきか。また、学校制度の成立は、子供の概念を、単に生産の予備軍として位置づけるのみならず、学歴による社会的地位上昇などの要因も絡まり、さらにソフィースティケートされた概念となった。残されたカテゴリー、すなわち、老人と障害者に対する福祉厚生の概念が近似してきたこと−−例えば「ねたきり老人」と重度心身障害児への処遇、健康な老人の社会への再参画と障害者のノーマライゼーション運動など−−は特筆すべきことである。
★16:古典的なマルクス経済学思想からみれば、全くのナンセンス−−あるいは虚偽意識に相当する−−かもしれないが、ブルデューの象徴資本の概念などはそれにあたる(ブルデュー『象徴資本』)。
★17:もちろん楽観ばかりもしていられない。21世紀に老年を迎える人びとは、そのような伝統的な価値観を解体することによって、今日のような経済的繁栄を産んだのであり、彼らが伝統回帰の風潮(エートス)を受け入れ、伝統工芸などのような活動に従事するかどうかは、疑問の余地を残している。伝統と近代の間には、深い断裂があるのだ。
★18:ここでいう、価値の再生≠ニは、たんなる伝統的回帰のことではない。例えば、佐賀県有田市は、観光面では、日本の陶器の発祥のまち、あるいは「ふるさと」という観光対策や環境の整備をおこなう一方、陶器の美術館や陶芸の大学校を設置している。これは、周辺の陶器生産をおこなっている他地域に比べても出色である。そこでは、伝統的な工芸の生産のみならず、そのよい(positive)イメージの再生産をおこなっている、と言えよう。ブルデュー流にいわせると、有田市は、周辺諸地域に比して象徴資本をより高度の蓄積を成し遂げているのである。
★19:個性を持たない女性、これは、とくにフェミニズムに関する議論において抽象化され、操作的に用いられる。フェミニストの論客が、それぞれ個性豊かな印象を持つことを見れば、やはり「女性」というステレオタイプを通して我々−−この場合、筆者は男性であるが−−が、女性の個性を認めていない現実を知らされる−−自己批判しなければならない。
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初出:池田光穂「高齢化社会」の理想と幻想−−エイジレス社会は可能か?、(財)21世紀ひょうご創造協会編『21世紀兵庫の基盤となるリーディング・プロジェクトに関する研究』 平成元年度−社会システム分科会報告書−
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