記憶の問題

Sobre Memoria del@ human@
私は歴史的事象を[自分の議論にとって]それほど本質化していないので、歴史的事実がどうであるというよりも、そのような歴史的状況の中で人は、自分の知識をどのように操作して生きているのか、あるいは、どう感じることができるのかについて焦点化したい。
ヨーロッパの古代・中世には、人間の能力における記憶の能力に高い価値がおかれていたという。
ものごとを理解していることは、ものごとについてどれだけ知っているということで計られる世界があるということである。もちろん、我々にも、記憶の能力が卓越した者に羨望のまなざしが向けられることもある。しかし、我々は記憶よりも、思考においてより評価されるのは、創造性においてである。
創造性が評価されるようになった背景には、記憶の外部化という社会的技術の成功とその開発というものがある。マクルーハンではないが、印刷術であり、印刷物をプールしておくコンピュータであり、電話・テレビ・ラジオメディアであり、今日ではデジタル送受信技術に支えられたネットワークコンピュータシステムである。
記憶を個人の能力として具備せずに、外部表象化するかわりに求められたのが、記憶の源泉を創造する活動である。これは、別の観点からみると、情報の生産であるので、フィクションのような仮想現実でも、その活動に貢献するものとされた。
つまり、厳格な自然の模倣あるいは神の真意の忖度という真偽問題の呪縛から解放されたということだ。あるいは、創造と現実とをすりあわせて、その想像する世界が妥当性のあるものかどうかという検証――最も端的な例は実証主義――という手続きも生まれた。
過去の事象の記憶に頼らずに、実験的状況を仮構して、それを検証する。そのためには、その過程を観察するという実践行為が要求さえる。
知識や思慮が、記憶(博覧強記が思慮や瞑想と結びつく)や創造力(直観と想像が観察によってチェックされる)と関連づけられるにせよ、これらの能力は、社会的孤独という経験を通して強化されることが、もうひとつのポイントである(後に触れるLPPやPBLとは対比されるからだ)
こういう世界で動いているのが近代以降の我々の姿である。
しかし、近代的な想像と直観、そしてそれを検証する観察という行為に限界を感じた時、我々には個人の能力としての記憶の問題が再び浮上した。
ただし、それは個人がどれだけ憶えているかということが焦点化されるのではなく、頭以外の記憶、例えば身体が憶えている知(経験)や、集団が憶えている体の振る舞いなどである。
LPPやPBLが、我々の新しい知識生産とその伝達(つまり教育)に何かしら新しい世界を切り開くように思われるのは、そのような人間の長い歴史の産物であるということを、私は言いたいのである。

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