Homo patience
ホモ・パティエンス、受苦的人間、苦悩する人間
解説:池田光穂
ホモ・パティエンスとは、苦悩する人間を定義したユダヤ人精神医学者ヴィクトル・フランクル(1905-1997)が提唱した用語である。ホモ・サピエンスに準(なぞら)えて、ラテン語の学名のようにこのように表現した。
フランクルはアドラーやフロイトの教えを受けた実存主義派の精神分析医であり、ウィーン大学の精神科の教授を務め(この時代の大学教授〈兼〉医師の常として)臨床は市立病院でおこなっていたが、第三帝国のユダヤ人迫害のために強制収容所に入れられたが生存した。
フランクルは強制収容所すなわち絶滅キャンプのような環境におかれても人間性を失わないことの意味を問い続けたが、第三帝国の絶滅キャンプがもたらした「新・ユダヤ人問題」は、戦後のユダヤ人の生存者アイデンティティに多大な意味をもたらした。
(1)スピルバーグ『シンドラーのリスト』(1993)の最終シーンにおけるユダヤ人によるユダヤ人のための精神的慰撫という状況が登場するはるか以前には、生存者はユダヤ人社会のなかでは二重の苦しみを背負わされていた。すなわち、(i)同胞のみならず親族の中に犠牲者が出た生き残りであるという苦悩、(ii)戦後にリバイバルするユダヤ人原罪説のなかでの犠牲者非難というスティグマ付与とネグレクト、である。さらにこれに、それまで伝統的なユダヤ人蔑視思想がもたらす迫害や差別が絶えることなく続いていた。さらに、戦後のシオニズム、パレスチナ問題、ユダヤ建国が、このような状況に対して複雑な陰を落とした。
このような文脈の中で、フランクルの苦悩する人間像をぬきにしては考えることができない。
しかし、提唱者フランクルを超えて、人間存在を受苦的存在として位置づけている思想やイデオロギーはそこかしこにある。したがって以下は、受苦的な存在が人間の基本形であるという考え方について、より一般的に考えよう。
マーシャル・サーリンズ(1996)は、このような受苦的な人間存在のフォームが西洋中心的な所産であることを示して、世界のさまざまな民族誌事例をもって、仮借のない批判を展開した。彼によると、これは啓蒙主義が生み出した、苦痛と快楽の理解図式によるものであり人間にとって普遍的なものではないという。
「西欧史のある時代に、人間の社会と行動のすべては、個人の快楽と苦痛の大いなる構図を介して一般的にも哲学的にも認知されるようになった。『リヴァイアサン』にあるように、再びすべては、人がよいと感じるものに向かい、また傷つけられるものからは遠ざかるという、単純で悲しい人生論への帰着した。私が《悲しい》といったわけは、人生を幸福の追求と定義する人は、慢性的に不幸だからである。今となってはあまりにも長きにわたり、これ――「この不安こそは、人間を勤勉と行動に駆り立てる唯一ではないとしても、主たる要因であり」、まさにわれわれがものに感じるのは喜びではなく、それがないときに感じる苦痛なのだ(Locke『人間悟性論』2.20.6)――は一般に膾炙した感情になってしまった」(サーリンズ (下)p.124)[翻訳は山本真鳥]。
関連リンク
池田光穂「他者の痛みと嘘つきのはじまり」
池田光穂「身体・こころ・社会」
渡山恵子・池田光穂「お灸をすえる」
池田光穂「痛みの文化人類学・概論」
文献
Sahlins, Marshall., 1996. The sadness of Sweetness: The native anthropology of western cosmology. Current Anthropology 37(3):■-■.(翻訳 『思想』1997年11月号、1998年1月号)
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