反省的実践家
reflective practitioner
解説:池田光穂
反省的実践、反省的実践家、行為の中の反省
現場で協働する人たちは、他者の発話や身体の動きを観察しながら、同時に自己の存在(=身体)を効果的に周囲に呈示している。現場力を考察するためには、その行為者の自己への意識がどの程度働いているか、またどのような影響をもたらすかについて知ることは重要である。だが〈意識〉は身体を駆使した〈実践〉に先立つという近代の主知主義的な考え方に呪縛されてきた我々は、それについて十分な考察をおこなってこなかった。
反省的実践(reflective practice)とは、行為がおこなわれている最中にも〈意識〉はそれらの出来事をモニターするという反省的洞察をおこなっており、そのことが行為そのものの効果を支えているとするドナルド・ショーンの議論のことである。ショーンは、この洞察を〈行為の中の反省 reflection-in-action〉、その行為者を〈反省的実践家 reflective practitioner〉と呼んでいる。同名の著作『反省的実践家』(1983)は、この反省的実践の重要性を説きつつも、実際にはこの種の実践がいかに難しいものであるのかを説いている。
さて現場で自らの身体をつかう〈実践〉と、このことを把握し自己の行為ついて再帰的に思考する〈意識〉の関係については、いくつかの見解が考えられる。まず(1)実践状況のなかで〈意識〉は忘却され無反省的なまま放置されているという主張。あるいは(2)身体がおこなう〈実践〉と〈意識〉は融合した状態となって行為遂行のために最適化された状態になっているという主張。さらには(3)身体による〈実践〉状況におかれた〈意識〉のあり方は個々の状況によって多様な関係にあり一般化できないという主張が考えられる。ショーンの反省的実践の見方は明らかに(2)の考え方の系譜に属するものである。
ショーンの前掲書『反省的実践家』を子細に読めば〈実践〉と〈意識〉の関係は容易に解き明かせるものではないし、また言語化しにくい暗黙知や身体知の説明をもって片付くものとも考えていない。にもかかわらずショーンの過剰とも言える理論的説明が、彼が批判してやまない〈技術的合理性〉の延長上に彼がいまだ留まっていることを示している。その理由は、具体的な解決を現場で目指す〈実践〉の「教育専門家」――教育も専門家も良くも悪くもプラグマティズムの具現化にすぎない――の範疇を出ていないからであり、また彼自身がとった事例の言語分析という方法論の限界によるものだろう。
現場力の考察に引きつけて言えば〈行為の中の反省〉の議論よりも、考察する時空間をより広くとった『組織学習』(アルギリスとの共著, 1978)の理論のほうが有用であろう。組織学習の面では、学習者が行為そのものを修正する〈単一のループの学習 single-loop-learning〉だけでなく、与えられた状況そのものに変化を与える〈二重のループの学習 double-loop-learning〉プロセスにも関わる可能性を指摘している。つまり学習者の〈実践〉がその〈意識〉だけでなく〈環境〉(=現場)へと展開し、〈行為の中の反省〉後の世界(=所与の状況)変革の可能性を図らずも示唆するからである。
◆ 文献
- ショーン、ドナルド『省察的実践とは何か:プロフェッショナルの行為と思考』柳沢昌一・三輪健二 監訳、鳳書房、2007年
- Argyris, C. and D. Schon, 1978. Orgazational Learning: A theory of action perspective. Reading, MA: Addison-Wesley.
◆ 関連用語
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