対話論理
dia-logic, dialogic reason
解説:池田光穂
対話状況が生み出す複数の主体に共有される理性あるいは共通感覚のこと。
対話は通常複数の人たちのあいだで生起するものである。また対話が続く状況とは、共通の理解や価値観が重なりあいながらも、けっして同一のものにならないことである(合致すれば対話が終わるからである)。
対話が内包するこのような複数の理性や感覚を、対話論理(dia-logic, dialogic reason)と呼んでもいいだろう。
■ 対話論テーゼ
1.対話に魅せられるとは、世界に魅せられるということである。
2.対話を可能にする条件は、それぞれの発話者が会話において彼らが発する意味を我有(appropriate)しているということだ。
3.差異の消去は、対話そのものの消去のことである。
4.言語の意味のコンテクスト(文脈)依存性
5.言語の創造的利用におけるコンテクスト依存性(→cf. 最近接発達領域:ZPD)
以下は対話論理にまつわる私のエッセーである
実践を生み出す対話論理の可能性
私たちが臨床コミュニケーションの授業において、暗黙のうちに採用してしまった議論の進め方は、対話論理(dia-logic, dialogic reason)と言われている思考法にきわめて類似している。
ここでまず対比されるのは、対話論理と弁証法(dialectic)である。対話論理は、弁証法が採用する〈AかBか〉という対立項から出発して、それらの概念の葛藤からより高次の議論を生み出すような論理ではないようだ。対話論理とは、人間どうしにおける対話のように〈AとBと〉の2つ、ないしはそれ以上の要素の同一性と差異の存在論的価値をそのまま認めてしまう考え方である。
弁証法(dialectic)は、そもそも対話から生まれてきたので、対話論理(dia-logic)と弁証法を対比させる主張には無理があるという批判が考えられる。しかしながら、神・世界・霊魂などの超越論的存在を認識するために「純粋悟性」の原理を無限に道具として利用するために、仮象生み出すようなカントの超越論的弁証論、フィヒテやシェリングの正・反・合の哲学、さらには矛盾が悟性による限界をこえるというヘーゲルの弁証法(=概念の自己展開)にいたるまで、対話者を異なる要素の対立というメタファーで捉え、それらの統一や乗り越えという目的(テロス)を志向したという共通点があるのではなかろうか。それに対して、ここで述べている対話論理とは、ミハイル・バフチン[→逐電の記]のヘテログロシア、カーニバル、ポリフォニーなどの異質なもの[要素]が、異質なまま共存し、対話運動が永続していることを強調したい。
以下のスキーム(図式)は、アルジルダス・ジュリアン・グレマス(1917-1992)による〈意味の四角形〉を対話論理とそれに拮抗するもの(図中では【α】上昇弁証法と【β】絶対真理モデルという2つの可能性を示す)との対比と類縁関係にある対比を、PBL・能動学習と受動学習の対比の中で配置してみた。

対話が論理として持続性をもつのは、同一性と差異という2つの矛盾する考えを内包しながらも、それを一気に解消する方向に展開しようとしないことである。でないと、対話はそこで終わってしまうからだ。
PBL(問題にもとづく学習)を対話論理としてみるとどうだろうか。そのような見方によると、系統学習は体系化を志向する弁証法的論理に対応しそうだ。もちろん、PBLにおける問題の解決には、その論理的な選択を対話によっておこなう、すなわちある種の態度決定をおこなうなど、体系的な理論を志向すると同時に、あらたな問題に取り組むプロセスのなかに、系統学習で使われる知識とそのための理解がみられる。
また系統学習の現場において、知識の体系化には、教師や教材との絶え間のない質疑応答という対話的プロセスもある。したがって、これらの2群の対応関係は、それぞれが共通のある種の傾向性をさすものであり、弁証法的な〈AかBか〉という対立項のなかに、PBLは対話論理であり、系統学習は弁証法であるというかたちで議論を押し込むもうとするものでは決してない。
類的同一性に対応した名前があることを信じている人にとって、対話論理が内包する「同一性と差異の存在論的価値」の総体を命名し、そこに統一性的秩序を見いだすこと自体、ある種の矛盾した行為である。
だが、対話状態とは、やはり経験的観点からみても〈AとBと〉の同一性と差異の存在論的価値を認めないかぎり、対話の持続性が保証されない。このことを言い換えるならば、対話とは同一の時空間における差異の間の交流=交通状態なのである。
PBLが学習者の間の絶え間のない対話が現実に見られるという持続性という経験的事実に加えて、PBLという言葉が、(A)「問題の提示」と(B)「学習のやる気」という継続的プロセスを生み出す学習環境(=状態や状況)と捉えている点で、この対話論理とPBLという行為実践の間の構造的類縁関係について示唆することができる。
もし対話(dialogue)とおしゃべり(chatter)というもの対比のなかに、それらの同一性と差異を発見しようとすると、前者の(=同一性という性質)は両者のあいだに見られる、それぞれの活動を持続させようとする構造的類縁性に、そして後者(=差異という性質)とは、対話の中にはそれぞれの差異(=AとBの差異)を価値の中で現実化する活動が見られるという点にあるだろう。
つまり対話論理のおける同一性という統一のなかに、依然として[AとBの発話者の主張がもつ固有の]差異を維持するためには、対話論理の外側から現実の活動すなわち実践という介入をしたり、対話の中で生まれた主張が対話の外側に逸脱して、思わぬ活動すなわち実践を生み出している経験的事実を認めなければならない。
「多くの理論や研究が、発話はまた世界で行為するための一手段であることを明らかにしている」(ハンクス 1993:17)。
「談話(ディスコース)の生成が社会的また文化的実践であってその二次的な表象ではないと認めたならば、その談話生成が仕事の全般的な網目的関係における他の作業とともに形成されることが明らかになるはずである(ハンクス 1993:18)。
これは何も絵空事でも何でもなく、私たちの活動や行為が社会的承認を得るためには、それ自体で自足する価値が内在しており、原理的には行為実践のみで何の問題もないことが、わざわざ発話がつねに求められるからである。この発話は、ミハイル・バフチンの用語では言表(utterance)と表現されているものである。
言表のもっとも典型的な例は、現代社会を生きる私たちにしばしば要求される説明責任(accountability)である。しかしながら説明責任が発生する論理的前提には、その発話「以前に」対話者からの呼びかけに応える実践から生まれる責任すなわち、応答責任(responsibility)があり、この応答責任とは対話の連鎖のなかで他者がしばしば要請するものである。
私たちが実践をとおして発話をし向ける理由であると考えられるこの2つの責任は、対話が用意する発話者と応答者のあいだの論理、すなわち対話論理から論理的に引き出せるものであり、それは降って湧いたような近年流行りの「科学者の社会的責任」や「技術者倫理」のような命令語法的な教育上の原理ではない。
公害運動に携わってきたまさに英雄的と後に称されるようになる研究者たちが、価値中立を護持する御用学問から、苦悩する民衆と共にある「生きた学問」に転向する契機になるエピソードとしてしばしば語られるのが、研究室を出て人びとの生活と同じ水準に立った時に直面したときに、フィールドにいる人たちに対して目撃者になりながら、他方で自分たちを表現する言葉を失うことである。失語症ならぬ失対話症に陥ってしまうのだ。それは本来、大学という社会空間が市井の人たちと対話を可能にする言語も持っておらず、より積極的に言えば、その動機や欲望すら持たなかったからである。
市井の人たちを市民と言い換えたときに、問題に「関心あり憂慮している人」びとであると、ある種のパターナリズムの対象化していることは、やはり対話の相手としての市井の人よりも、何かをしてあげたいという屈折したパトロンの論理がかいま見える。私たちが失対話症に陥るのは、空疎で抽象的な対象を対話者に仕立てるシャドウボクシングであり、それはモノローグを続けることに他ならない。モノローグに他者は不要だからだ。失対話症とは、失対話者症、すなわち自分と同一性をもちながら同時に差異を絶対に消失させない他者の存在の欠如の状態のことである。
このような過去の私たちの失対話症についての病歴について忘却したままで、「社学連携」という対話がもたらすロマンチックな夢物語を吹聴し続けることは、過去のトラウマをフィールドでいまいちど再現することになってしまうだろう。
臨床コミュニケーション教育で私たちが挑戦しようとしているのは、このような轍を踏まず、授業という場が社会空間であることを絶対的な他者である学生と共に再認識し、あらゆる対話が私たちにし向ける2つの責任を、具体的な形で授業の中で呼び起こすことなのである。
水俣病が終わらないのと同様に、対話もまた永続する。最終解決などという自己完結を夢見ないこと。失対話者症の暗い時代を否定的なものとして想起し、対話をし続けるという勇気(責任)を今ほど必要とする時代はない。
■ 文献
クラーク,カテリーナとマイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』川端香男里・鈴木晶 訳、せりか書房、1990年
レッシャー,ニコラス『対話の論理:弁証法再考』内田種臣 訳、紀伊國屋書店、1981年
ハンクス,ウィリアム「序文」レイヴとウェンガー著/佐伯胖訳『状況に埋め込まれた学習――正統的周辺参加』産業図書, Pp.5-20, 1993.
池田光穂「逐電の記」(ミハイル・バフチンとフランソワ・ラブレーの比較思想)
____「ポリフォニー小説としての山崎豊子原作『白い巨塔』(1963-1965)」
____「アリストテレスはソクラテス的対話ができたのか?」
____「臨床コミュニケーション教育:PBLから対話論理へ、対話論理から実践へ」
____「実践的三段論法」
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