クオリアとクアリ
qualia (pl.), quale (sg.)
解説:池田光穂
意識経験には質的な側面がある。意識にともなう質的な状態をクオリア(gualia)と名づけられている。クオリアの語形は複数形で、その単数形表現はクアリ(guale)であり、個々の質的な状態を表現する用語となる。
ここで、「意識にともなう質的な状態」を主観的な性質と言い換えてもよいだろう。
クオリアの存在をめぐっては、哲学者の間でおおきな論争があり、存在しない、(議論そのものに)意味がない、存在する、という議論が分かれている。また、哲学者以外の人は、クオリアを体験の同義語として使うことがあり、それらの定義の多様性によって、クオリアの存在の議論に対して、大いなる混乱が生じている。
ジョン・サール(2006)は、クオリアは哲学者の「贔屓目に見ても」混乱を招く困ったものだと指摘しているが、その骨子は、クオリア概念の提唱者たちが、意識経験とその質的な状態であるクオリアを分けて、議論しようとしたが、サールによると、そのような区分は混乱を招く以外のなにものでもない。
意識とその質的な感覚は、サールによると本質的に同一であり、それを区分すること自体が誤りだということになる――このあたりのレトリックは彼のデカルトの心身二元論への批判と類似したものになっている。
サールは、それゆえ冒頭の定義によるクオリアを使わないと提唱しているが、この項目の著者(池田光穂)もその主張に同意する。
文献
サール、ジョン『マインド:心の哲学』山本貴光・吉川浩満訳、朝日出版社、2006年(原著は2004年)
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