かならず 読んでください

人間機械 論・再考

Rethinking L'HOMME MACHINE perspectivism

池田光穂

「欲望というものは機械であり、諸機械の総合であ り、機械状アレンジメントであり、つまり欲望機械である。欲望は生産の秩序に属し、あらゆる生産は欲望的生産であり社会的生産でもある。だから、私たち は精神分析がこの生産の秩序を粉砕したこと、この秩序を表象の中に逆戻りさせたことを非難しているのだ」——ドウルーズとガタリ『アンチ・オイディプス (下)』 宇野邦一訳Pp.152-153.

このレクチャーは、2012年9月26日、オムロン ヘルスケア株式会社で開催された、「人間と機械の未来を考える研究会」でのゲスト講演で話された内容の一部です。研究会の主宰者である佐倉統先生(東京大 学)ならびにオムロンヘルスケアの関係者の方々に深く感謝いたします。なお、ここで述べられているアイディアは、私個人の独自の見解であり、ここで示され ている研究会ならびに研究会の関係者の方々のものでありませんので、御留意ください。まず、私が考えていることをスライドの形で皆さんに披露し ましょう!

1.目次:草間彌生のかぼちゃ
2.人間と機械の〈共生〉について考察する
3.機械のメタファーの時代的変遷
4.人間=機械と表現する際のメタファー
5. 機械の存在論的地位
6.デカルト「人間論」
7.機械が人間になる寓意01
8.機械が人間になる寓意02
9.共存に対する脅威
10.移植医療の効率の悪さ
11.機械としての臓器の所有権の問題
12.奴隷としての移植される臓器
13.主人と奴隷の立場が入れ替わる臓器移植
緩衝地帯
14.成功する移植技術とは? 15.古典的臓器移植の受容を減速? 16.サイボーグは内界と外界を観測しつつ行 為するシステム 17.提唱者たちが考えたサイボーグ
18.補綴としてのサイボーグ 19.素子の義体あるいは「桶の中の脳髄」 20.映画マトリクス 21.人間はマトリクスがつくった仮想現実の中で作動させられているコンピュータプログラムに他ならず
22.「真の人間が住む世界
23.2つの世界現実(worlds realities)
24.パラサイトあるいはコンピュータウィルス
25.デウス・エクス・マシー ナ
26.人間の救世主
27.共同体的かつ群畜的な本性
28.愚にもつかぬもの(ウンジン)
29.フリードリヒが1世紀後に生まれて文化人類学を勉強していたら
30.ビベイロス=デ=カストロ
31.人間と機械の関係は、その時代が定義するそれぞれの概念とそこから派生する隠喩の関係の相からなりたつシステム
番外地01:人間=機械論・再訪
番外地02:デービス・パトナムのアルゴリズムDavis–Putnam algorithm
番外地03
番外地04
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1

Yayoi Kusama, 1929- (顔を左右に動かすと縞模様の濃淡が変化します)
2
本日のお話の梗概(章立て)は、以下のような流れでお話します。
人間と機械の〈共生〉について考察する
1.人間の概念について
2.機械の概念について
3.人間と機械の関係について
4.人間が機械であることについて
5.機械が人間であることについて
6.〈共生〉とはなにか?
7.サイボーグ・ハイブリッド・補綴
8.ニーチェとキアヌ・リーブス


しかしながら、冒頭の1,人間の概念について、および、機械の概念については、山のような議論がありますので、今日は省略させていただきます。
ただし、みなさんに留意していただきたいのは、人間の概念も、機械の概念も、特殊なものではなく、ごくふつうの理解を押さえておけば十分です。
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3.1 機械のメタファーの時代的変遷
17世紀と18世紀の初期が時計の時代であり、18世紀と19世紀が蒸気機関の時代であるとするならば、現代は通信と制御の時代である——ノーバート・ ウィナー(1948)
4
3.2
人間=機械と表現する際のメタファーの使い方に関する時代的変遷を押さえておかないと、
自分の時代の常識を、過去の時代に常識に投影して、過去の時代を誤って解釈する危険性がある。
5

3.3

1)異種的な自律的存在
2)同種的な自律的存在
3)異種的な主従的存在
4)同種的な主従的存在
5)それ以外の関係可能性
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「機械が、どのようにして、その感覚器官にぶつ かる外部の物体によって刺激され、その結果として肢体を多様なしかたで動かすのかを理解するためには次のことを考えていただきたい。……脳の最も内奥から きて神経の髄を構成する細糸は、感覚器官の役を果たす部位のすべての神経のところで、感覚の対象により極めて容易に動かされるような仕組みになっている。 そして、この細糸は、ほんの少しでも強く動かされると、同時にもう一方の端にある脳の部分を引っ張り、このことによって脳の内表面にあるいくつかの孔の入 口を開ける。すると脳の空室の中の動物精気は、この入口を通ってただちに神経の中に流れ出し、さらに筋肉のところまで行って。この機械に、われわれ人間の 感覚が、同様に刺激された時におのずと行う運動にきわめてよく似た運動を行わせる」(伊東・塩川訳、240ページ)デカルト「人間論」から
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5.1 機械が人間になる寓意
近代SFにおける機械が人間になるという物語おける共通のモチーフは、産みの親である人間への反抗であり、親殺しの欲望である。結末にそれが破綻したり失 敗する逸話が多いのは、言わずもがな人間の側の願望の投影のように思われる。
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5.2 機械が人間になる寓意
機械を人間に昇格させたくないという願望充足だとすれば、それは言葉の正しい意味でのヒューマニズムである。他方、企ての失敗の第一原因は人間の欲望に発 するわけだけだから、神罰ないしは人間がもつ傲慢さへの教訓だと解釈すれば、ある意味での文明(科学技術)批判に他ならない。
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1959年、アーサー・サミュエルは、機械学習を「明示的にプログラムしなくても学習する能力をコンピュータに与える研究分野」だとした。トム・M・ミッ チェル(英語版)は、よく引用されるさらに厳格な定義として「コンピュータプログラムが、ある種のタスクTと評価尺度Pにおいて、経験Eから学習すると は、タスクTにおけるその性能をPによって評価した際に、経験Eによってそれが改善されている場合である」とした(→「機械学習machine learning)」)。

6.1 共存に対する脅威
共存の可能性を考えるには、成功例ではなく、失敗例から考えるのがもっともためになる。われわれが手にしている例は、移植医療のパフォーマンスの悪さと、 原子力発電所の事故である。
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6.2 移植医療の効率の悪さ
先端医療を誇る我が国の一部の医療関係者の頭痛の種がこれである。歴史的タイミングの悪さ(和田移植事件)、近代医療の不透明さのシンボル、医療への不信 感、移植ネットワーク内部の腐敗、改正前の臓器移植法の「厳密な基準」、臓器摘出が可能な病院施設の少なさ、過去から現在まで続く「文化的」阻害要因など が、その理由とされている。以上は、その社会的要因(外部要因)である。ここで私が問題にしたいのは、むしろこの医療がもつ技術的要因(内部要因)であ る。
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6.3 機械としての臓器の所有権の問題
通常、臓器移植は、移植を受ける人間はレシピエントすなわち、臓器の「新たな所有者」になる。脳死判定にもとづく臓器提供者(ドナー)は、臓器摘出の前に 死亡を宣告されて——ただしその本人に告げるようではなく、宣告は家族や親族に伝えられる——、所有権の放棄という、法的な手続きのための医学的判定がな され、その時間が記録される。取り出された臓器は、再利用のために、保存処置がなされ、その後、移植に供される。移植される臓器は、レシピエントに従属す るものとされる。所有され、臓器としての機能(=労働)を果たすことが期待される。
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6.4 奴隷としての移植される臓器
その意味で、レシピエントは主人であり、臓器は奴隷である。ヘーゲルが言うように、主人は、奴隷を労働を提供するものとして承認しなければならないし、奴 隷は主人の承認がなければ、殺されてしまう。しかし、主人は臓器移植の場合は、受け入れた——受け容れた——臓器が、前の所有者の痕跡(=製造者による使 用権の制限)があるために、主人は免疫抑制剤を使用して、生体がもつ「他者の臓器」に関する監視、監督機能を停止、低減させなければならない。臓器移植後 のレシピエントのQOLが低下する理由になっている。
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6.5 主人と奴隷の立場が入れ替わる臓器移植
他方、臓器移植は、他者の臓器を受け容れることで、その臓器に対して、これまで自分の他の臓器に必要でなかった「特別な配慮」が必要になる。この点におい て、主人は奴隷の生殺与奪を自由にする権力が削がれ、一部あるいは生活の大きな部分に「従属」するようになる点が、非常にユニークなところだ。言い方を変 えると、主人と奴隷の立場が入れ替わる。善意にもとづいて提供された臓器を貰ったレシピエントは、その臓器を生存させるための、奴隷になるとも言える。こ れは、臓器移植に関する(非科学的で誤った)世俗的な道徳的としての「他人を殺してまで、臓器をもらって生き延びるレシピエント」が偏った見方であること を示す。臓器をもらったレシピエントは、それ以外の本人の臓器を生かしておくために、その臓器を受け容れ、自分がもつ自己の集団とマイノリティに対して寛 容になり、多文化共生の道を模索しないとならない。
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6.6 成功する移植技術とは?
そのように考えると、臓器移植で、主人が移植された臓器そのものに支配権を奪われずに、飼いならすことができたのは、角膜と輸血のみということになる。そ して、人は、これらの移植を通常は「臓器移植」と感じないが、これは、世俗的に言ってもそのようにみなされていない。また、iPS(Induced pluripotent stem cells)人工多能性幹細胞は、自分の体細胞の遺伝子を使うので、そこから形成された臓器を自分に移植するのはいわゆる自己移植になり、他者の臓器を使 う移植とは、その〈他者性〉の意味づけが根本的に異なるはずだ。
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6.7 古典的臓器移植の受容を減速?
従って、人工臓器によるレシピエントのサイボーグ化と、他者の臓器を自己の身体に埋め込む古典的臓器移植は根本的に異なる。その意味で、サイボーグのよう に人間と機械の融合により、人間の生存圏(Lebensraum)の拡張をとげるのではなく、古典的臓器移植は、臓器調達という希少性という困難を抱え、 ただレシピエントの生命の時間的延長(=寿命)だけが主目的になった——コストパフォーマンスの悪い——「特殊な医療」に終わるだろう。また、iPS利用 による臓器再生という将来の「夢」が語られることで、移植医療に直接関わらない医療者は、積極的に古典的臓器移植への推進の協力者になるものとは考え難 い。
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7.1 サイボーグは内界と外界を観測しつつ行 為するシステム
サイボーグ(cyborg)とは、サイバネティック・オーガニズム(cybernetic organism, cyb. + org. = cyborg)のそれぞれの省略形による合成語である。サイバネティック(サイバネティクスという学問の形容詞形)の言葉を意味する学問としてのサイバネ ティクスとは、今日で言う制御理論 (control theory)とシステム理論(system theory)が融合した総合的な学問であり、ノーバート・ウィナーがその命名者であり創始者だと言われる。もともと空中を移動中の飛翔体(航空機やミサ イル)などを追尾撃墜する弾道計算を探求する研究のなかから生まれて、生命現象、学習や認知あるいは、社会や文化現象にまで拡張されて、有機体や組織(と もにorganism)の特色を、それぞれが内的な制御システム——その中でもフィードバックがもっとも重要な概念——をもつものと考えことに由来する。
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7.2 提唱者たちが考えたサイボーグ
したがって、サイボーグは、サイバネティクスという学問あるいは思想を具現化するものと考えられる。しかし実際のサイボーグという用語の発明は、もっと実 利的な面もあり、Manfred Clynes と Nathan Kline が、1960年に宇宙空間で働けるための人間と機械の自己制御機構の提唱というかたちで登場する。(つまりこの概念だと宇宙服のみならず宇宙船もまた一種 のサイボーグとして捉えることができるが、それは今日の我々が抱くサイボーグの意味とは、かなりほど遠い)。
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7.3 補綴としてのサイボーグ
現在のサイボーグ概念にとって私がより重要だと思えるのは、補綴(ほてつ・ほてい)の概念である。補綴(prosthesis)とは、おぎなってつづりあ わせることであり、不足を足すことであるが、医学・保健用語では義手や義足などの義肢(ぎし)である。この概念が拡張し、ハイテクなどの技術と 融合するように、SFなどでは表現される(例えば、映画『スターウォーズ・エピソードV:帝国の逆襲』に登場するルーク・スカイウォーカーの右手の義手) ことが多いが、この拡張版と考えればよい。ただし、私の個人的経験から見ると、この説明はなぜか同僚の専門家には不評である。彼らによると補綴はもっと 「ダサイ」ものだからだそうである。つまりハイテクの電子入歯レベルではサイボーグの範疇に入らないと言うのである。
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7.4 素子の義体
「桶の中の脳髄」(邦訳は「水槽の中の脳」)のパットナムは一笑に付す話である。これまでの話の拡張として『攻殻機動隊』の登場人物・草薙素子(くさな ぎ・もとこ)のように、大脳と 脊髄の一部のみ生体で残りは義体(「義肢」概念の延長上に造語された義身体、「ぎたい」と呼ぶ)になると、それは果たして身体性を基調とする人格(パーソ ナリティ)を持ちうるのかという議論を、ヲタどうしの議論ではしばしば耳にする。しかし、2nd GIGのエピソード11「草迷宮」(affection)にみられるように、草薙はもともともっていた少女の身体という艤装がほどこされ、さらに成長に応 じて身体化をとげた(=「立派な義体使いとなる」)と説明されているので、彼女の脳は、つぎつぎと成長してゆく身体とともにアイデンティティを形成したも のと思われる。またこのことにより、彼女は色気と戦闘的攻撃性という両極端な女性性——それはともに公安9課での秀逸な活動を保証する——を具有してい る。これはパットナムならば、素子が桶の中にいながら「生きる」仮想現実の世界を我々が見せられているのであって、素子がどう現実世界を生きているかとい うことを判断できる材料を我々は持っていないではないか?と反論を喰らうかもしれない。
《参照》
「〈認識論〉の講義でこの種の可能性に触れるとすれば、もちろんその目的は、外部世界についての懐疑論という古典的な問題を、現代的な仕方で提起すること である(あなたがこういう苦境に陥っているのでないとどのようにして知るのか?)。しかし、この苦境は、心と世界の関係についての問題を提起するために役 立つ仕掛けでもあるのだ」出典:     理性・真理・歴史 : 内在的実在論の展開 / ヒラリー・パトナム [著] ; 野本和幸 [ほか] 訳、東京 : 法政大学出版局 , 1994.9. - (叢書・ウニベルシタス ; 455)、p.8
《コメント》
パットナムが言うように、確かに私たちはそのように生きているかもしれない。しかし(どのような論争/実証を通しても)そうだと断言できないというのが、 この答えの実際なのである。
《自己論駁的想定》
「私は存在しない」ということが私によって考えられているのであれば、それは自己論駁的である。パトナムによると、水槽の中の脳の議論もそれに同じ (Pp.10-11)
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8.1
映画『マトリクス』(三部作)が映像の消費者に見せる世界構造は多少複雑であり、そのことを理解するためには、人間が現実だと思っている仮想現実と、本当 の真の現実がある。ちょうどティム・インゴルド(Ingold 1991,1996)が自然を「真の自然」と「文化的に構成された自然」と区分したように「世界の有り様」を2つに区分することが重要で、パースペクティ ヴィズムの観点から「現実の真の世界」の相対化の手続きが必要になる。
21

8.2
すなわち人間はマトリクスがつくった仮想現実の中で作動させられているコンピュータプログラムに他ならず、マトリクス世界では、エージェントという本物の プログラムが存在し、それらはまさに人間の姿の衣装を着ている存在に過ぎない。これが人間がほんものだとおもっている仮想世界すなわち「マトリクスによっ て構成された世界」がある。「ネオ」すなわちサラリーマンのアンダーソンは本物だと思っていた世界のなかでのアンダーグラウンドのハッキングの天才と呼ば れていたところに、「真の人間が住む世界」からやってきたモーフィアスやトリニティとの遭遇により「真の人間が住む世界」に引き戻される。
22

8.3
「真の人間が住む世界」では人間は機械=コンピュータプログラムによってネットワーク化されているので、身体のなかにさまざまな情報コンセントをもつこと で可視化されている。しかしながら「真の人間が住む世界」とは、マトリクスの支配から逃れ、ザイオンという地下世界に残された最後の抵抗拠点から、覚醒し た遊撃戦の戦士をジャックインすることで、マトリクス内に進入し、敵の背後から攪乱戦を挑んでいるのが現状なのである。モーフィアスはマトリクス世界のア ンダーソン(ネオ)は救世主であることを信じ、彼を「真の人間が住む世界」に引き戻し、マトリクス世界での最終的な戦闘行為に付かせようとし、またネオ自 身もそのことへの自覚をしてゆく物語である。
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8.4
 しかしこのような描写はマトリクスの2つの世界現実(worlds realities)からみると人間中心主義の見方にすぎない。もちろんマトリクス側(あるいはそこで世界を動かすエージェントたち)からみれば、現実に 覚醒して不要な遊撃戦を挑む「正規のマトリクスネットワーク」に接続されていないスタンドアローンの人間の遊撃戦兵士ならびにザイオンの人間はゆゆしき問 題であり、それゆえにマトリクス世界はセンチネルと削岩マシーンをザイオン世界に送りこんでスタンドアローンの人間の殲滅戦を挑む。つまり両者の間には戦 争状態が存在する。
24


8.5
 覚醒した人間たちからみればマトリクス世界のコンピュータプログラムは人間の存在を脅かす存在であるが、逆の立場からみると、覚醒した人間たちはマトリ クス世界の安寧を脅かす存在すなわち反逆するパラサイトあるいはコンピュータウィルスのような存在である。それらがマトリクス世界では一見人畜無害にみえ る予言者オラクルらの助言にもとづいて不穏な動きをする。つまり、マトリクスという機械=プログラムの世界からみれば、抵抗する人間はマトリクス世界の秩 序を乱すだけではなく、その秩序そのものを転覆しようとする危険な存在なのである。
25

8.6
 マトリクス世界からみるとその防御プログラム——生体であるなら免疫のような存在——であるエージェント・スミスは、ネオやモーフィアスを追求するのみ ならず「マトリクス世界の秘密」を知る予言者オラクルなどを捜索取り調べをするうちに、システムの中で防御プログラムを適正に作動する存在から次第にオー トマトン的な暴走をしはじめる。マトリクスの映画自体は、暴走したスミスをネオが最終的に破壊することで、最終的に機械が人間を必要としなくなり、すなわ ちザイオンの人間を殲滅する必要がなくなり、マトリクスそのものがヴァージョンアップを遂げることで、急展開をとげて——文字通りデウス・エクス・マシー ナの登場により——物語は終焉してしまう。つまりマトリクスの基本的モチーフである人間と機械(コンピュータプログラム)が相互にいがみ合い共存できず、 お互いの片方が消滅するまで闘う一種のマニ教的世界観に支えれていたので、その必要がなくなる時、和平が到来するという唐突な終わり方をする。
26

8.7
 パースペクティヴィズムからみたマトリクスが私たちに与える第1の世界観は、人間にとって機械(コンピュータプログラム)はそれが融合する時に機械は人 間にとっての飼い慣らされ人間に有益性をもたらすものでなければならないというものである。他方、コンピュータプログラムはからみる第2の世界観では、人 間がマトリクスのシステムを維持永続させるために奉仕をつづける限り人間は機械にとって良い存在であるが、人間が自律性をもち人間中心主義を主張するとそ れはシステム全体にとっては脅威になることを意味する。つまり後者の世界観では、マトリクスの存在を自覚し、またシステム全体の根本的変革を野望する者 ——「人間の救世主」と呼ばれる——ものは、システムにとって病気あるいはシステムに巣くい、かつシステムを利用しシステム全体を崩壊に至らしめるウイル スにほかならない。
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8.8
「意識は、もともと、人間の個的実存に属するものではなく、むしろ人間における共同 体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてき た。……われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類のない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。 それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、それらはもうそう見えなく なる。……これこそが私の解する真の現象論であり遠近法論である」——ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、(第5書)354節、 p.394.、1993
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8.9
「現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格をも有っているのか、解釈もなく・「意味(ジン)」もない現存在 はまさに「愚にもつかぬもの(ウンジン)」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか。こうしたことがらは、当然なが ら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう 際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその 形式の内でのみ見るほかはないからである。わわわれは自分の存在する片隅の周囲を見ることができない。そのほかにもどんな種類の知性や遠近法がありうるのかを知ろうとすることな どは、徒な好奇心でしかない」——ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、374節、p.442.、1993
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8.10
もし、フリードリヒが1世紀後に生まれて文化人類学を勉強していたら……
世界の異なった民族や文化において、異なった集団的・共同体的(=群畜的)遠近法の存在と、遠近法の併置による、人間の意識の相対化という現象に気付いて いたはず!
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以下の図は、ビベイロス=デ=カストロ(これだ けで姓です、名はエドワルド)が、ブラジルのアメリインディアンの間に、パー スペクティヴィズムを認めた時、以降、彼が主張するパースペクティヴィズムの主張を、多文化主義を奉じる西洋近代と、多自然主義を奉じるアメリインディアンとの対比を論じるのですが、その主張を、私(池田光穂)が、フ ランスの言語学者のアルジダス・グレマスの「意味の四角形」にヒン トを得て、分析したものです。
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僕の結論は、とてもシンプルです。
結論
人間と機械の関係は、その時代が定義するそれぞれの概念とそこから派生する隠喩の関係の相からなりたつシステムとしてみることができる。運命を共にした機 械と人間の〈あいだ〉には、遠近法の複数化に伴い、機械と人間の関係を考察する多元的自然学・多元自然論(multi-naturalism)が構想され る必要がある。

  1. 人間=機械論のリンク集です
  2. 機械の中の幽霊(ここから派生する問題は、実践知、延長 をもつ身体、タチコマ問題などです)
  3. 戦争機械論
  4. 生気論
  5. 人 間=機械論・再訪
  6. 『老人Z』をめぐる議論
  7. 患者サイボーグ宣言
  8. テクノアニミズムという概念の貧困
  9. ルーシー・サッチマン『プランと状況的行為』(初版)を読む
  10. 道具と人間の身体がつくる世界
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++雑多なメモ+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
人間と動物から想起されるすべての概念図
I
自然と文化/動物と人間
熊送り
*
**
***
II
自然の用法の夥(おびただ)しさ
文化の界における自然の位置
二元論のデカルト的解決
レヴィ=ストロースの自然と文化
*
III
麻酔のプロセス
視覚神経生理学
生理学者の日常
実験室の自然
生物学の自然
IV
シャーマニズムにおける動物
エヴェンキの道徳
ディスコラ四元論・再考
文化=自然批判
VdCの観点主義
V
サールの心一元論
現実性/仮想性の二元論
マトリクス存在
パラサイト問題
サイボーグ的理性
VI
結論
*
**
***
****
VII
文献
方法
メモ



人間機械論の問題

・「人と機械が共生する未来社会のイメージを探る」
・人間=機械と言う、メタファーの時代的変遷
1)ヴェザリウス/ウィリアム・ハーヴェイ/デカルト
2)
3)ウィーナー
4)ウィリアム・ギブソン

・攻殻(機動隊)問題
【定義】観点主義(ニーチェ)に関する厳密な議論をしないので、鍵概念の統一がなく、それぞれの論者が使うメタファーが多様化して、みんなで議論すると、 すでにどこかで聞いたような紋切り型の議論(心身問題、ネットワークの有限/有限、自己組織性、直観、再帰性など)に回収されて、盛り上がりに欠けた常識 ——あるいはクリーシェ——の確認に終わる会議の儀式化の問題

・機械のメタファー/人間のメタファー/機械と人間の関係のメタファー、の組み合わせ
・機械を人間のかわりに労働してくれる存在(ロボット:労働としてのrobota)とみる見方は、人間と機械の関係の位置づけには、その社会のメンバーが 共有する「労働」観が影響する。例えば、人間の労働からの解放を「福音」とみなすのか「地獄」や「疎外」とみるかで、真逆の議論が可能になる。ここでの機 械を「原子力発電所」に置き換えると、同じような論争を引き起こすだろう。

・多くの人間機械論は、「人間から見た機械」観からしか議論されていないのでは? つまり、人間=主人、機械=従者・下僕。もし、下僕も、我々と同じよう な思考をもつとすると(少なくとも動物に対他意識があることを認める人は多い)、人間と機械の間にでも、ヘーゲル的な弁証法は成立するだろう。

=========
1)欲望の問題
・欲望というものは外的な対象へと向かう。自己と対象との関係が何らかのかたちで変化した時、欲望は消滅したり、さらに増強されたりする。
・自然がもらたす欲望(つまり動物=機械的なもの)は、食う食われるものの関係のように、対象を否定することによって、自己をも否定するような対称的な関 係である。動物的=機械的欲望は、外部からやってきて、私たちに取り憑く、欲望が立ち去ると、我々は我に戻る。
・動物的=機械的な欲望に対して、人間的欲望は持続することが特徴である。愛や自尊心のように、他者=機械から認めてもらう(=承認)を必要になる欲望 が、人間的な欲望である。人間がもつ、自己意識は、他人=機械から見られている私の意識である。
2)相互承認
・人間としての私の欲望は、自分がもつ力や自由を感じることである。自分の自身の命すら支配できるという自己意識をもつ。そのような、意識を他者=機械が もつのであれば、他者=機械も、自由であり意識をもち、自分の命すら支配できるという自己意識をもつことができるだろう。自由のために命を捨てることがで きる者が強い存在であるならば、命と引き換えに自由を得る勇気をもたない者は、下僕=奴隷になるだろう。命と自由は、トレードオフの関係にある。
3)主人と下僕:人間と機械
・人間(主人)は、機械(奴隷)の労働を通して、支配する自由を得ることができる。それに対して機械(奴隷)は、人間(主人)の命令に従い、自由を捨て て、労働する存在になる。(労働は、命を奪われるかわりに差し出す供儀である)
・機械(奴隷)は、命を奪われる(=廃棄処分)代わりに人間(主人)に労働することで、死を免れることができる。機械が労働(labor)を通して作り出 される物は、機械の精神の物象化であり、その作品(works)である。機械は、労働という否定的な活動を通して、死(=他者であることを完全に否定され る)を免れる。
・他方、人間(主人)は、その生活を機械(奴隷)の労働に依存する。主人は、自分では何もできず、機械(奴隷)の活動に依存する。これでは、人間(主人) は完全に自由であるとは言えない。
=========
・人間と機械の関係は、ヘーゲルの弁証法にみられる、主人と奴隷の関係に類推して考えることができる。
・しかしながら、臓器移植の関係は、形態的には補綴(prosthesis)という、別の機能を想定する必要が出てくる。


・通常、臓器移植は、移植を受ける人間はレシピエントすなわち、臓器の「新たな所有者」になる。脳死判定にもとづく臓器提供者(ドナー)は、臓器摘出の前 に死亡を宣告されて——ただしその本人に告げるようではなく、宣告は家族や親族に伝えられる——、所有権の放棄という、法的な手続きのための医学的判定が なされ、その時間が記録される。取り出された臓器は、再利用のために、保存処置がなされ、その後、移植に供される。移植される臓器は、レシピエントに従属 するものとされる。所有され、臓器としての機能(=労働)を果たすことが期待される。
・その意味で、レシピエントは主人であり、臓器は奴隷である。ヘーゲルが言うように、主人は、奴隷を労働を提供するものとして承認しなければならないし、 奴隷は主人の承認がなければ、殺されてしまう。しかし、主人は臓器移植の場合は、受け入れた——受け容れた——臓器が、前の所有者の痕跡(=製造者による 使用権の制限)があるために、主人は免疫抑制剤を使用して、生体がもつ「他者の臓器」に関する監視、監督機能を停止、低減させなければならない。臓器移植 後のレシピエントのQOLが低下する理由になっている。他方、臓器移植は、他者の臓器を受け容れることで、その臓器に対して、これまで自分の他の臓器に必 要でなかった「特別な配慮」が必要になる。この点において、主人は奴隷の生殺与奪を自由にする権力が削がれ、一部あるいは生活の大きな部分に「従属」する ようになる点が、非常にユニークなところだ。言い方を変えると、主人と奴隷の立場が入れ替わる。善意にもとづいて提供された臓器を貰ったレシピエントは、 その臓器を生存させるための、奴隷になるとも言える。これは、臓器移植に関する(非科学的で誤った)世俗的な道徳的としての「他人を殺してまで、臓器をも らって生き延びるレシピエント」が誤りであることを示す。臓器をもらったレシピエントは、それ以外の本人の臓器を生かしておくために、その臓器を受け容 れ、自分がもつ自己の集団とマイノリティに対して寛容になり、多文化共生の道を模索しないとならない。そのために、細菌やウィルス感染症などの、生存に脅 威を与える他者を受け容れる可能性を開くことになり、そのための「人工的管理」が本人のQOLを下げることになる。臓器移植を推進するキャンペーンは、こ のようなハンディが「医学的管理技術の進歩」により克服されている成功例のレシピエントを広告媒体に使うことで(例:運動会で他の児童と競争するレシピエ ント像)、それが危惧には値しないことを宣伝する。

・そのように考えると、臓器移植で、主人が移植された臓器そのものに支配権を奪われずに、飼いならすことができたのは、角膜と輸血のみということになる。 そして、人は、これらの移植を通常は「臓器移植」と感じないが、これは、世俗的に言ってもそのようにみなされていない。
・また、iPS(Induced pluripotent stem cells)人工多能性幹細胞は、自分の体細胞の遺伝子を使うので、そこから形成された臓器を自分に移植するのはいわゆる自己移植になり、他者の臓器を使 う移植とは、その〈他者性〉の意味付けが根本的に異なるはずだ。

・従って、人工臓器によるレシピエントのサイボーグ化と、他者の臓器を自己の身体に埋め込む古典的臓器移植は根本的に異なる。その意味で、サイボーグのよ うに人間と機械の融合により、人間の生存圏(Lebensraum)の拡張をとげるのではなく、古典的臓器移植は、臓器調達という希少性という困難を抱 え、ただレシピエントの生命の時間的延長(=寿命)だけが主目的になった——コストパフォーマンスの悪い——「特殊な医療」に終わるだろう。また、iPS 利用による臓器再生という「夢」が語られることで、移植医療に直接関わらない医療者は、積極的に古典的臓器移植への推進の協力者になることは望まないであ ろう。

・medicalization の本当の怖いところは、生物医学によって人間の自律性が失われること(=イヴァン・イリイチのテーゼ)ではなくて、全世界の身体観が、統一規格のまなざし のもとに見られてしまう(=M・フーコーのテーゼ)ということなのだ。

・移植した臓器に、人格的主張を認めさせる(=メッセージの送り手としての資格を与える)とすると、宿主(レシピエント)に対して、次のように主張してい るように思える:「私(=移植臓器)の存在を忘れないでくれ、そのためには君は免疫抑制剤を定期的に飲んで、君自身が内在化している、私に対する敵意(= 免疫の作用)を抑制するか、忘却してほしいんだ」。
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感覚の所有者論
・我々は情動に飼いならされているのか、それとも情動という動物を飼っているのだろうか?
・動物にも情動があることを、科学的に証明する理由は、情動行動を表出している時に脳の活動電位が、情動があるのだというのがドナルド・グリフィンの主張 だ。
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・寄生虫は、人間が飼っているのか?それとも、寄生虫に人間がハックされて、余計な栄養を吸い取られているのか? ある種の寄生虫は、宿主をヘルシーな状 態にするために代謝を高めたり、宿主からの免疫応答を回避するために、自分がもつ抗原のタイプを変化させ、寛容にさせるような作用をもつものもあるとい う。これはもう、サイボーグとしてしか言いようがないじゃないか?、あるいは『ミトコンドリア創世記』
・【A】「未開人=怠け者」説:この言説は、熱帯の未開人が(西洋人や近代人が考える)労働に対して怠け者である主張であるが、その根拠に使われるのが次 のような主張である。「熱帯では作物が年中自由になる。そのため、腹がへったら、そこらになっているバナナを食べればよいので、勤労に対する尊さが生まれ ず、怠け者なのだ」
・文明人のこの「偏見」にはいくつかの含意(コノテーション)がある。熱帯の気候や作物の素晴らしさ。労働は辛いが、そこから得るものがある。熱帯では (環境要因のせいで)現地の人びとをその点が見逃しがちだ。
・【B】未開人は悪くない、わるいのはhockworm(十二指腸虫) だ。あるいは、未開人(現地人)の怠惰な理由を別の要因に置き換えること。この仮説は、駆虫剤を彼らに与えることで、彼らが働く活力を取り戻し、また、植 民地の生産性をあげてくれるためには、たいへん悦ばしいことだと考える。また、熱帯の人びとを、病気の猖獗の地から解放し、彼らに福利を授けるのは白人の 責務(white man's burden)という目的にも叶う。これは、ロックフェラー財団とジョンズ・ホプキンス大学が共有するテーゼだ。
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臓器移植に反対する論理:情緒に訴える我が国の人たちの主張の特徴
1)脳死患者を犠牲にするシステムはよくない【臓器提供を供犠とする見方】
2)臓器をパーツのように取り扱うのは(日本的な)人倫の概念に反する【臓器=部品論への異論/身体観による否認】
3)脳死は人の死だと認め難い。あるいは、脳死は「早すぎた死」ではないのか【脳死への否認】
4)臓器移植そのものが「自然」に反する医療だ【臓器移植への否認】
5)自分は臓器移植を認めてもいいが、親族は(本人が同意している以外は)臓器提供を認めたくない【ダブルスタンダード】

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臓器移植法(臓器の移植に関する法律、平成九年七月十六日法律第百四号)・改正時にでた異論:
2009(平成21)年7月13日参議院にてA案(中山太郎案)が可決された。1997年7月に制定されたこの法律の、改正の特徴は、大きく2つあり (1)12歳未満の児童からの臓器提供が解禁されたこと、(2)意思確認なしに親族による臓器提供が可能になったことである。臓器移植法の改正が必要と なった理由は、1997年に施行された法律下で、臓器移植の手術件数が思うように延びなかったことと、あわせて12歳以下の子供の臓器を利用することがで きなかったことで、移植医関係者に強い不満があった。改正法案の時期において、それまでの法律に満足していた国内の生命倫理関係者から強い異論があった。 そのうちの1人である森岡正博は、法律対案まで草起して論陣を張った。現在のウェブページの更新は2009年9月21日が最終だが、彼のページには、その 「異論」を伝えるマスメディア報道の要約が掲げてある。
下記に列挙
・『中央公論』2001年2月号の拙論「日本の「脳死」法は世界の最先端」(全文)をぜひお読みください。※改正前の法律の本人の同意優先の内容を高く評 価している。森岡の異論は、子供の臓器提供および同意なしの親族提供
・長期脳死児:診断後1カ月以上60人 全国病院調査(毎日新聞 2007年10月12日)
・「脳死」判定後、6年間心臓が動き、成長した7歳の男の子(中日新聞・東京新聞 2006年12月23日)
・「超重症児」長期生存も、自発呼吸や体温調節回復例(2007年12月18日 読売新聞)
・「脳死」の乳児、判定6日後呼吸戻る 近畿大病院 (朝日新聞 2006年06月03日00時03分)
・脳死:米国・カナダで判定の3人、日本帰国後に意識回復 (毎日新聞 2006年7月26日15時00分)
・脳死宣告から4カ月後、意識を取り戻した青年(AP通信 2008年3月24日)
・ 脳死宣告後、人工呼吸器を取り外したが、その後3ヶ月も自発呼吸で生き続けている韓国のケース(誤報?)(AFP通信 2009年9月21日0
※http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm(2012年9月24日)
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臓器移植を推進する修辞法
1)いのちの贈り物(gift of life)
2)やがて死んでしまう家族・親族の命が、臓器として「いきつづける」
3)臓器移植は、困った人を助ける善行である
4)臓器を待ち続ける人がいる
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・臓器移植において、ドナーとレシピエントを結びつけない「匿名化の技法」:事前・事後に契約・負債・交渉などを回避する。臓器の適合性や緊急性などにお いて、必然に支配されない形でドナーとレシピエントが結びつく偶発性
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臓器移植が、近代医療の手法としては「最先端」で「超絶技巧」なものでもないのに関わらず、この医療と医療者は注目を浴びるのか?
・移植手術は比較的簡単な方法に類する
・免疫抑制剤の開発により、術後の免疫管理が以前に比べて楽になった
・移植前の保存技術の確立
・手術件数が増え、ルーティン化することが、医療成績をさらに改善されるというメリットがある。
・提供できる病院の選別による質の管理。
・臓器移植の医療イメージが、近代医療を代表する2つの教説(臓器=部品説と人間機械論)に支えられているから。

臓器=部品説の創立者:ヴェザリウスの解剖学による図像の正確な表象
臓器機械説の創設者:ウィリアム・ハーヴェイの血液循環説

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・視覚表象を通した、機能と構造の呈示:例:被覆がとれたターミネータの頭部

寄生虫論
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サイボーグ(cyborg)とは、サイバネティック・オーガニズム(cybernetic organism, cyb. + org. = cyborg)のそれぞれの省略形による合成語である。サイバネティック(サイバネティクスという学問の形容詞形)の言葉を意味する学問としてのサイバネ ティクスとは、今日で言う制御理論 (control theory)とシステム理論(system theory)が融合した総合的な学問であり、ノーバート・ウィナーがその命名者であり創始者だと言われる。もともと空中を移動中の飛翔体(航空機やミサ イル)などを追尾撃墜する弾道計算を探求する研究のなかから生まれて、生命現象、学習や認知あるいは、社会や文化現象にまで拡張されて、有機体や組織(と もにorganism)の特色を、それぞれが内的な制御システム——その中でもフィードバックがもっとも重要な概念——をもつものと考えことに由来する。

したがって、サイボーグは、サイバネティクスという学問あるいは思想を具現化するものと考えられる。しかし実際のサイボーグという用語の発明は、もっと実 利的な面もあり、Manfred Clynes と Nathan Kline が、1960年に宇宙空間で働けるための人間と機械の自己制御機構の提唱というかたちで登場する。(つまりこの概念だと宇宙服のみならず宇宙船もまた一種 のサイボーグとして捉えることができるが、それは今日の我々が抱くサイボーグの意味とほど遠い)。

現在のサイボーグ概念にとって私がより重要だと思えるのは、補綴(ほてつ・ほてい)の概念である。補綴(prosthesis)とは、おぎなっ てつづりあわせることであり、不足を足すことであるが、医学・保健用語では義手や義足などの義肢(ぎし)である。この概念が拡張し、ハイテクなどの技術と 融合するように、SFなどでは表現される(例えば、映画『スターウォーズ・エピソードV:帝国の逆襲』に登場するルーク・スカイウォーカーの右手の義手) ことが多いが、この拡張版と考えればよい。

prosthesis
[L., a. Gr. πρόσθεσις addition, f. προστιθέναι to put to, add. Cf. F. prosthèse.]
1. Gram. The addition of a letter or syllable at the beginning of a word.この用法の初出は1553年。 (The qualification ‘at the beginning’ may have arisen from associating προς- with προ-.)
2. Surg. (usu. pronounced prɒsˈθiːsɪs). a.2.a That part of surgery which consists in supplying deficiencies, as by artificial limbs or teeth, or by other means. b.2.b (Pl. prostheses.) An artificial replacement for a part of the body. この用法の最初のもの(単数形)は1706年で、その用法は、1706 Phillips (ed. Kersey) s.v., In Surgery Prosthesis is taken for that which fills up what is wanting, as is to be seen in fistulous and hollow Ulcers, filled up with Flesh by that Art: Also the making of artificial Legs and Arms, when the natural ones are lost. とある。複数形の後者も含めて、この単語がよく使われるようになるのは1900年以降、すなわち20世紀以降になってからだ。第一次大戦は、義手義足など の補綴が急速に普及する。(→古代エジプトの義足、江戸時代の入歯)

しかしながら、この拡張として『攻殻機動隊』の登場人物・草薙素子(くさなぎ・もとこ)のように、大脳と脊髄の一部のみ生体で残りは義体(「義肢」概念の 延長上に造語された義身体、「ぎたい」と呼ぶ)になると、それは果たして身体性を基調とする人格(パーソナリティ)を持ちうるのかという議論は しばしば我々は耳にする。しかし、2nd GIGのエピソード11「草迷宮」(affection)にみられるように、草薙はもともともっていた少女の身体という艤装がほどこされ、さらに成長に応 じて身体化をとげた(=「立派な義体使いとなる」)と説明されているので、彼女の脳は、つぎつぎと成長してゆく身体とともにアイデンティティを形成したも のと思われる。またこのことにより、彼女は色気と戦闘的攻撃性という両極端な女性性——それはともに公安9課での秀逸な活動を保証する——を具有してい る。

サイボーグ・ドット・コムでは、池田(online)は、(人体をもつ現代人で ある)「我々はすべてサイボーグであり、その考え方を敷衍すると我々はすべて草薙素 子である」という極端で特異な(異様な)主張をおこなっている。

■マトリクス
→人間動物機械論.doc を検索せよ

■ニーチェの遠近法/遠近法主義ノート (→今後の展開はこちらです

「現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格をも有っているのか、解釈もなく・「意味(ジン)」もない現存在 はまさに「愚にもつかぬもの(ウンジン)」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか。こうしたことがらは、当然なが ら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう 際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはないからである。わわわれは自分の存在する片 隅の周囲を見ることができない。そのほかにもどんな種類の知性や遠近法がありうるのかを知ろうとすることなどは、徒な好奇心でしかない」——ニーチェ『悦 ばしき知識』信太正三訳、374節、p.442.、1993

「意識は、もともと、人間の個的実存に属するものではなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はま た、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。……われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類のない仕方で個人的であ り、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、それらはもうそう見えな くなる。……これこそが私の解する真の現象論であり遠近法論である」——ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、354節、p.394.、1993

■ 遠近法、遠近法主義、Perspektive, Perspektivismus (→今後の展開はこちらです

# 「生存の遠近法的性格はどこまで及んでいるのだろうか。あるいは,生存にはまだほかに何らかの性格もあるのだろうか,解釈なき生存,〈意味〉 (Sinn) なき生存とはまさに〈ナンセンス)(Unsinn) にならないだろうか,他方から言えば,一切の生存は本質的に解釈する存在ではないだろうか」——悦ばしき知恵(#374) # 「人間の知性はその分析に際して,自分自身を自らの遠近法にもとづく諸形式のもとで見るほかはなく,これらの形式のなかでしか見ることができない」——悦 ばしき知恵(#374) # 「遠近法的なもの」=「一切の生の根本条件」——善悪の序文 # 「あらゆる信仰,真であると思うことはいずれも必然的に誤りであるということ,これは,真の世界などというものはまったく存在しないからである。すなわ ち、それはわれわれに由来する遠近法的仮象(perspektivischer Schein) である」——遺稿(II.10.34)※( )内の読み方=白水社版 II 期、10巻、断片番号34 # 「私が理解する仮象とは,現実的で唯一の,事物の現実(Realität) である。……それゆえ,私は〈仮象〉を〈現実〉に対置するのではなく,反対に仮象を現実として受け取るのであり,この現実は,空想の産物である〈真理の世 界〉への変容に抵抗するものである」——遺稿(II.8.480) # 「われわれの空間と時間の知覚」は誤謬——『人間的』I.19 # 「われわれがいま世界と呼んでいるものは,一連の誤謬と空想の産物であり,それは有機的な生命体の全発展のなかでしだいに発生し,互いに結びついて成長し て,いまでは過去全体の蓄積された宝としてわれわれに相続されたものである」——『人間的』I.18 # 遠近法への影響関係では、ショーペンアウアー、やフリードリヒ・ランゲ(『唯物論史』) # 「ニーチェが「遠近法」という表現を用いるようになるのは,彼がシュピーアやタイヒミュラーを再読した1885年頃からであり,しかも形而上学の根本概念 を「遠近法的仮象」として解体するという文脈においてである」——大石紀一郎『ニーチェ事典』55ページ。 # 「「存在」や「実体」は経験の誤った解釈によって成立した概念であるとされ「自己」や「主観」といった概念も「遠近法的仮象」であって「見るときの一種の 遠近法をもう一度見る行為そのものの原因として措定する」ことによって「捏造」されたものだという[遺稿11 .9.146, 215]——大石(55ページ) # ヘーゲルの絶対精神=「危険な古い概念的虚構」で「能動的な解釈をする力」を欠く。——『系譜』III.12 # 「〈本質〉や〈本質性〉というのは何か遠近法的なもの」で、あって「根抵にあるのはつねに〈それは私にとって何か?〉(われわれにとって,あらゆる生物に とってなど)という問いである」とされる[遺稿II .9.187]。 # 「従来の解釈はすべて生に対して一定の意義を持っていた一一生を維持し,耐えられるものにし,あるいは疎外し,洗練し,またおそらくは病的なものを分離し て死滅させるものであった」——遺稿 II.8.454 # 「動物界のある特定の種の維持と力の増大に関して有益であるという観点にしたがって」遠近法的に見られ,整えられ,選ばれること」——遺稿 II.11.208 # 「真理とは,それなくしてはある特定の種の生物が生きられないような種類の誤謬である」——遺稿 II.8.306 →『権力への意志(下)』ちくま文庫版(#493) # 仮象=唯一の現実、「この現実に対する特定の名称が〈力への意志〉であろう」——遺稿 II.8.408 # 「あらゆる人間の向上はより狭い解釈の克服を伴い,達成された強化と力の拡張はいずれも新たなパースベクティヴを開き,新たな地平を信ずることである」 ——遺稿 II.9.156 # 「世界の多義性は力の問題であり」——遺稿 II.9.163, 172 # 「すべてのものが生成であるとすれば、認識は存在を信じることにもとづいてのみ可能である」——『権力への意志(下)』(#518) # 「遠近法的に見ることしか,遠近法的な〈認識〉しか存在しない,そして,われわれがある事柄についてます多くの情動を発言させ,ますます多くの眼,さまざ まに異なる眼を同じ事柄に向けるすべを心得ているならば,この事柄についてのわれわれの〈概念〉,われわれの〈客観性〉はいっそう完全になるであろう」 ——『系譜』III.12 # ニーチェの光学=遠近法(『生成の無垢(下)』番号92では、人間の認識を蜘蛛の活動と比喩して(!)遠近法=光学について語っている) # 「同一のテクストが無数の解釈を許容する。つまり,〈正しい〉解釈などというものは存在しない——遺稿 II.9.54

【文献】

ニーチェ年譜(http: //keikoyamamoto.com/nietzsche1-1.htm およびウィキペディア(日本語)による)


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2012-2099

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