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存在論

Ontology

池田光穂

存在論(オントロジー, ontology)とは、存 在論のことであり、存在自体のこと、在るとはどういうことかについて研究する学問。通常、哲学の一分野とみなされている。(→それ以外の「オントロジーについてはこちら」)

スタンフォード哲学エンサイクロペディアの「存在論 的コミットメント」の冒頭部分には、オントロジーにこんな解説がある。

Ontology, as etymology suggests, is the study of being, of what there is. The ontologist asks: What entities or kinds of entity exist? Are there abstract entities, such as sets or numbers, in addition to concrete entities, such as people and puddles and protons? Are there properties or universals in addition to (or instead of) the particular entities that, as we say, instantiate them? Questions such as these have divided philosophers down the ages, and divide them no less to this day. - Ontologucal Commitment, by Stanford Encyclopedia of Philosophy

「存在論的問題」は、つぎのような問いの形をとる。 「わたしたちの住んでいるこの世界は、この場所に存在しないことも想像しうるだろうに、いったいどうしてここに存在するようになったのだろうか」 (p.285)――ウィリアム・ジェイムズ「哲学の根本問題」

ショーペンハウエルによると、人々が形而上学を希求 する原動力は、自分の存在に対する「不安」にもとづくものであるという。その不安は、世界は括弧として存在するか否かという疑問よりも、この世界は存在す るよりも――そのような確信をもっていること事態が不思議ではあるがそれは不問にして――「存在しないほうがましなのではないか」という考えを生みだす (『意志と表象としての世界』補説17章「人間の形而上学的要求」)。

「存在一般もしくはある形の存在はつねに存在してい たわけであるから、存在の総体を原初の非存在とうまく関係づけることはできない。存在一般は、神としてであれ、物質的原子としてであれ、それ自体、最初の ものであってしかも永遠なものである」(ジェイムズ p.286)――ただし、このような問題に取り組むと、始点より前にある無(=非存在)を想定せざるを、そのような無がなぜ存在に転化したのかという、無 限後退に陥ってしまう。

パルメニデスとゼノン:「非存在者は存在せず、存在 者のみが存在するから、存宿するものは必然的に存在者であり、存在者は必然的に存症する」(ジェイムズ 1968:287)

より積極的には、存在論的な問いは、一切病的な問い かけだという主張もある(→「 20世紀の〈形而上学〉栄枯盛衰」)。

■アリストテレスの存在論

「ある」「存在する」(ウーシア,ト・オン)という 表現のなかに多様な意味があるだろうというポイントから出発する。存在者が存在者の全体であることの全体を指摘するのが存在論。しかし、ハイデガーは「存 在とはなにか?」という問いを隠蔽する――隠したり不問にしたりすること――したのだと指摘して、西洋の存在論には、存在忘却(後述)が綿々と続いてきた と指摘し、古代以来眠っていた存在論の近代的議論の再燃に貢献した。

ブレンターノ学位論文、Franz Brentano, Von der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles. 1862年は、113年後にRolf George により英訳"On the several senses of being in Aristotle"として、カリフォルニア大学出版会から出版されました。「私の仕事の途上において、最初に出会った本が、1907年以来何度も何度 も、Franz Brentano の Von der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles だったのです」――このハイデガーの言葉は『言葉への途上』に収載されています。(ブレンターノの本の英訳の解説より)。ブレンターノが整理した、4つの 存在(様式)とは、1. Accidental Being, 2. Being in the Sense of Being True, 3. Potential and Actual Being, 4. Being According to the Figure of the Categories. ですが、最後の4つ目のものについては、15の命題を立てて、存在とカテゴリーの関係(後者は、語の存在様式=秩序という観点から「文法概念」が多用され て)を詳しく検討しています。下記の2つの図は、そこからとられたものです。

Source: Franz Brentano, On the several senses of being in Aristotle, University of California Press, 1975.

具体化した=身体化したコミュニケーション技術」中の「附論:アリストテレスの存在論」を参照

■その後の展開

ハーバート・スペンサー(=進化主義的な経験論 者):「「最低の実在性しかもたないものは、もっとも脆く、もっとも微かな、もっとも捕えがたい、もっともうぶなものであり、まっ先にあらわれやすく、非 存在につづいて最初にあらわれるだろう。そして、同様な漸進的なやり方で、より高度な実在性がすこしずつ加えられ、やがてこの全宇宙ができあがったのだ」 と」考えた(ジェイムズ 1968:288)。

スピノザ:「他の人びとにとっては、存在の極小値で はなくて極大値が、知性にとって最初のものと考えられた。『ある 物が完全性をもつということは、その物が存在することをさまたげるものではなく、かえって それが存在することを根拠づける』とスピノザは言った」(ジェイムズ 1968:288)。

アンセルムスの証明(=存在論的証明):「ある方向 において事物の存立を困難にさせるのは、その事物のぶつかる妨害物であり、この場合、その事物が弱小であればあるほど、妨害物はその事物にたいしていっそ う力をふるうようになる。ある事物は、きわめて偉大で包括的であるがゆえに、存在するということをその本性にふくんでいる」(ジェイムズ 1968:288)。

※アンセルムス『プロスロギオン』かつデカルト『省 察』

神の存在証明の大枠:「不完全とみられるものは何ら かの点で欠けるところのあるものだが、存在を欠いていることもあろう。しかし、とくに「もっとも完全な存在」と定義されている神が何かを欠いているとすれ ば、そうした神は神の定義と矛盾するだろう。したがって、神は存在を欠くことはできない。つまり、神は「もっとも完全な存在」であると同時に、「必然的な 存在」であり、「もっとも実在的な存在」である」(ジェイムズ 1968:288)。

ヘーゲルによる「存在と非存在」を媒介する方法:で も、それは満足できるものではないとジェイムズは言う。

「へーゲルは『論理学』のはじめのところで、存在 (有)と非存在(無)を媒介する他の方法を追求している。その要点はこうだ。抽象的な意味での「存在」、つまりのっペらぼうのたんなる存在は、特殊な存在 の姿をまったくもたないことを意味するから、「無」と区別できない。したがって、抽象的な意味での「存在」と「無」というこつの概念は同一であるという考 えがなりたち、この同一性は右の二つの概念の一方から他方を導きだすのに何か役にたつかもしれない。こうヘーゲルは漠然と考えたのだろう」(ジェイムズ 1968:288)。

【引用者による補足説明】

「パルメニデスは存在と思惟との同一性を主張し、ア リストテレスは己れ自身をその総体において永遠に思惟する存在について語り、スピノザはデカルトから着想を得て思惟は実体の属性であると述べ、シェリング はそれから着想を得ていたのであった。へーゲルは、自己の哲学に先行するもろもろの哲学のこのような結果に反駁せず、ただ、このような哲学が思い描いてい た存在と思惟との関係は何ら注目すべきものをもっていない、と述べるに留める」――アレクサンドル・コージェブ「ヘーゲル哲学における死の概念」 p.379『ヘーゲル読解入門』上妻精・今野雅方訳、国文社、1987年

未解決の問題:「存在の出現するプロセスは、一挙に 全部あらわれるか、すこしずつあらわれるかのいずれかであるが、それはいかにして知的に理解されうるかという論理的な謎は、まったく手つかずのまま残され ている」。ただし、哲学者は、そのような神や存在の質料やエネルギーの増減はないと考えるという矛盾した態度をとりつづける。

「存在がしだいに発展してきたものとすれば、もちろ ん、存在の量はつねに同一ではなかったはずだし、これから先も同一ではないだろう。だが、たいていの哲学者はこうした考えをおかしいと考えてきた。つま り、かれらは神も質料もエネルギーも増減の余地のないものと考えたのだ。実在の量はいかなることがあろうと保存されるはずであり、わたしたちの現象的経験 の消長は、実在の深部にはふれない上面(うわつら)だけの現象とみるべきだ、というのが正統派の考え方である」(ジェイムズ 1968:289)。

■ウィリアム・ジェイムズにとって、存在の問題に関 する、きわめて明確な「態度の決定」の立場

起源のことを問いかけたり、なぜそうなるかと、考えるよりも、それが何であ るのかということを明らかにせよ!

「存在の問題は哲学の問題のうちでもっともむずかし い。この問題にかんするかぎり、わたしたちは、みんな、与える立場ではなく与えられる立場、つまり物乞いの立場にあり、いかなる学、派も、他の学派をあな どったり、他の学派を見くだしたような態度をとることはできない。なぜなら、事実というものが、みんなにとってひとしく説明の余地のない与件をなしている から。事実は何らかの仕方で成立するのだが、それがどこからあらわれるのかとか、なぜあらわれるのかということよりは、むしろそれが何であるかを明らかに するのが、わたしたちの仕事である」(ジェイムズ 1968:289)。

■ハイデガーの「不毛な」存在論=形而上学談義であ る「存在忘却」について

基礎的存在論=現存在の形而上学の第1段階である。

ハイデガーにとって基礎的形而上学は、人間の存在を 通路とするものである。

それと同時に、存在論や形而上学においては、存在者 =das Seiendeとその存在者性=Seiendeheit を問題とする。そこでハイデガーは、(人びとは?)存在者と、存在者をたらしめる存在=Seinを区別すること(しなければならないこと?)を、忘れてい る=忘却していると主張する。これを存在忘却というが、その嚆矢は、なんとアリストテレスそのものである(先述)。(※ハイデガー自身は、自分もまた存在 忘却するような存在ではない、なぜなら、君たちは忘れているよと指摘して、いるわけだから、自分はそれを知る希有な存在、つまり形而上学の本質がわかる存 在、あるいは自分は神だ、ないしは、神のような超越論的な立場を持っていると言っているようなものであるからだ)。また、ハイデガーによると、そのような 存在暴力という(認識論的病気が蔓延している)この世界で、存在の語りかけ(音声言語の比喩を使っていることに注意せよ!)を「待つ」ことが重要である。 語りかけを「待つ」というのも比喩表現である。聞こえることを待つということは、存在を視覚表象をとおして認識することではなく、じっとして耳をすます と、存在からの声が聞こえるという比喩を使う。

そのようなハイデガーにとって重要な用語をを「存在 論的差異= ontologische Differenz」という。

いずれにせよ、存在の語りかけを待つことが人間の責 務であると、ハイデガーは唱える。

参照:「存在忘却」(コトバンク)https://goo.gl/UgT6oq

■クワインとオントロジー(Ontologucal Commitment, by Stanford Encyclopedia of Philosophy

"Meta-ontology concerns itself with the nature and methodology of ontology, with the interpretation and significance of ontological questions such as those exhibited above. The problem of ontological commitment is a problem in meta-ontology rather than ontology proper. The meta-ontologist asks (among other things): What entities or kinds of entity exist according to a given theory or discourse, and thus are among its ontological commitments? Having a criterion of ontological commitment for theories is needed, arguably, if one is to systematically and rigorously attack the problem of ontology: typically, we accept entities into our ontology via accepting theories that are ontologically committed to those entities. A criterion of ontological commitment, then, is a pre-requisite for ontological inquiry."

"Quine's criterion of ontological commitment has dominated ontological discussion in analytic philosophy since the middle of the 20th century; it deserves to be called the orthodox view. For Quine, such a criterion played two distinct roles. First, it allowed one to measure the ontological cost of theories, an important component in deciding which theories to accept; it thus provided a partial foundation for theory choice. Moreover, once one had settled on a total theory, it allowed one to determine which components of the theory were responsible for its ontological costs (see Quine (1960: 270) for the purported benefits of such ontological bookkeeping). Second, it played a polemical role. It could be used to argue that opponents' theories were more costly than the theorists admitted (see Church (1958), who wields the criterion polemically against Ayer, Pap, and Ryle). And it could be used to advance a traditional nominalist agenda because, as Quine saw it, ordinary subject-predicate sentences carry no ontological commitment to properties or universals.

The locus classicus for Quine's criterion is “On What There Is”. Quine writes:

A theory is committed to those and only those entities to which the bound variables of the theory must be capable of referring in order that the affirmations made in the theory be true.  (Quine 1948: 33)

To illustrate: if a theory contains a quantified sentence ‘∃x Electron(x)’, then the bound variable ‘x’ must range over electrons in order for the theory to be true; and so the theory is ontologically committed to electrons. (For an introduction to the logic of quantifiers and bound variables, the basics of which are presupposed in this article, see Shapiro (2013).)

Talk of “commitment” has an unfortunate connotation: it applies more naturally to persons than to theories. But Quine's criterion should be understood as applying to theories primarily, and to persons derivatively by way of the theories they accept (Quine 1953: 103). It would be more perspicuous to speak simply of the existential implications, or ontological presuppositions, of a theory. But ‘ontological commitment’ is well entrenched, and it would be pointless to try to avoid it.

It is important to note at the start that Quine's criterion is descriptive; it should not be confused with the prescriptive account of ontological commitment that is part of his general method of ontology. That method, roughly, is this: first, regiment the competing theories in first-order predicate logic; second, determine which of these theories is epistemically best (where what counts as “epistemically best” depends in part on pragmatic features such as simplicity and fruitfulness); third, choose the epistemically best theory. We can then say: one is ontologically committed to those entities that are needed as values of the bound variables for this chosen epistemically best theory to be true. Put like this, the account may seem circular: ontological commitment depends on what theories are best, which depends in part on the simplicity, and so the ontological commitments, of those theories. But there is no circularity in Quine's ontological method. The above account of ontological commitment is prescriptive, and applies to persons, not to theories. What entities we ought to commit ourselves to depends on a prior descriptive account of what entities theories are committed to. The prescriptive account of ontological commitment serves as a crucial premise in the Quine-Putnam indispensability argument for the existence of abstract entities (the locus classicus is Putnam 1971). This article, however, will focus entirely on descriptive criteria of ontological commitment."

■オントロジーをみる眼をエピステモロジーとすると、世界はどのように見えるだろうか?(思考実験)→「デサナ・プロジェクト 2010

単純なオントロジー(存在論)とエピステモロジー(認識論)の図式で理解可能である。例えばハリウッド映画の『ブレードランナー』は1つ、『マトリクス』は2つ、世界がある。


リンク

参考文献(というか、このページは、全面的ジェイム ズの所論に依拠 しています)

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仮想・医療人類学辞典
(c)Mitzub'ixi Quq Chi'j. Copy&wright[not rights] 2013

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