はじめによんでください

隔離・孤立・孤独の区別

Isolation, loneliness, and solitude: Definitions by Hannah Arendt

池田光穂

「孤 立化した人間の集団をその鉄の錨で締めつけ、そして彼らにとって沙漠となってし まった世界のなかに彼らを生かしておく全体的テラーの強圧と、各個人を して他のすべての人間からの孤独な隔絶に慣れさせる論理的演揮の自己強制力とは、テラーに支配された運動を発進させ、絶えず活動させるために、たがいに呼 応し、たがいに他を必要としあっている」[アーレント 1981:317]。
「テ ラーが思うまま支配し得るのはもっぱらたがいに孤立さられた人々だけであること、 だからすべての専制的政府の第一の関心事の一つはこの孤立を作り出す ことだということはしばしば指摘されて来た。孤立はテラーの始まりであるとも言えよう。たしかにそれはテロルの最も肥沃な地盤であり、テラーは常に孤立の 結果なのである。この孤立は謂わぱ全体主義以前のものである。その特徴は無力ということだが、カというものは常に共同して行動する人々の、つまり 《acting in concert》(エドマンド・バーク)の所産であるという意味でそうなのだ。孤立した人々は本来カを持たない」[アーレント 1981:318]。
「孤 立と無力、すなわちそもそも行動する能力を根本的に欠いているということは、これ までずっと専制の特徴だった。人と人とのあいだの政治的接触は専制的 統治においてはたちきられ、行動をおこないカを示す人間の能力は発揮されずに終る。しかし人間間の関係のすべてが絶たれ、人間のすべての能力が破壊
され るわけではない。経験することや物を作ることや考えることの能力を含めて私生活の 領域はそっくり無傷のまま残っているのだ。しかし私たちは、全体的テ ロルの鉄のタガ(箍)がそのような私生活の存在する余地を残さず、全体主義的論理の自己強制は人間の行動能力と同じくらい確実に経験と思考の能力をも破壊
してしまうことを知っている」[アーレント 1981:318]。
【43】 What we call isolation in the political sphere is called loneliness in the sphere of social intercourse. Isolation and loneliness are not the same. I can be isolated -- that is in a situation in which I cannot act, because there is nobody who will act with me -- without being lonely; and I can be lonely that is in a situation in which I as a person feel myself deserted by all human companionship -- without being isolated. Isolation is that impasse into which men are driven when the political sphere of their lives, where they act together in the pursuit of a common concern, is destroyed. Yet isolation, though destructive of power and the capacity for action, not only leaves intact but is required for all so-called productive activities of men. Man insofar as he is homo faber tends to isolate himself with his work, that is to leave temporarily the realm of politics. Fabrication (poiesis, the making of things), as distinguished from action (praxis) on one hand and sheer labor on the other, is always performed in a certain isolation from common concerns, no matter whether the result is a piece of craftsmanship or of art. In isolation,/ man remains in contact with the world as the human artifice; only when the most elementary form of human creativity, which is the capacity to add something of one's own to the common world, is destroyed, isolation becomes altogether unbearable. This can happen in a world whose chief values are dictated by labor, that is where all human activities have been transformed into laboring. Under such conditions, only the sheer effort of labor which is the effort to keep alive is left and the relationship with the world as a human artifice is broken. Isolated man who lost his place in the political realm of action is deserted by the world of things as well, if he is no longer recognized as homo faber but treated as an animal laborans whose necessary "metabolism with nature" is of concern to no one. Isolation then becomes loneliness. Tyranny based on isolation generally leaves the productive capacities of man intact; a tyranny over "laborers," however, as for instance the rule over slaves in antiquity, would automatically be a rule over lonely, not only isolated, men and tend to be totalitarian. [Arendt 2004:611-612]

【43】=第43パラグラフ

【43】「われわれが政治の領域で孤立と呼ぶものは、社会的な人間関係の領域では loneliness と呼ばれる。孤立とロウンリネスは/同一じものではない。私は lonely ではなくても孤立しているーーつまり、私と一緒に行動する人聞が一人もいないから行動することができない状態にいるーーかもしれない。また私は孤立してい なくても lonely であるーーつまり、一人の個人として自分があらゆる人間的なつきあいから疎外されているように感ずる状態にあるーーかもしれない。孤立とは、人々が共同の 利益を追って相共に行動する彼らの生活の政治的領域が破壊されたときに、この人々が追いこまれるあの袋小路のことである。けれども孤立は、力を破壊し行動 能力を破壊しはするが、いわゆる人間の生産活動なるものに手をつけないばかりか、むしろこの生産活動のために必要なのである。人間は homo faber (工作人)たるかぎり自分の仕事とともに孤立しようとする傾向がある。つまり一時的に政治の領域から逃れようとするのだ。一方では行動(praxis)と も、他方では純粋な労働とも異なるものとしての製作(吉富山由ll 物を作ること)は、そこに作り出されるものが工芸品であると芸術作品であるとにかかわりなく、常に人間共通の関心事からの或る程度の孤立のなかでなしとげ られる。孤立のなかでも人は人間の営為としての世界と接触を保っている。人間の創造性の最も根源的な形式は、共同の世界に自分自身の手による何ものかをつ けくわえる能力であるが、この形式が破壊されたときにはじめて孤立はまったく堪えがたいものになるのである。こういうことは、その主要な価値が労働によっ て決定される、言い換えればすべての人間活動が労働に転化されてしまっている世界では起り得る。そのような条件のもとでは純粋な労働の努力||それは命を つな守ための努力にほかならないーーだけが残されており、人間の営為としての世界との関係は絶たれている。行動の政治的領分のなかで自分の席を失った孤立 した人聞は、もはやhomo faber としては認められず、その不可欠の「自然との代謝」のことなど誰も心配してくれないようなanimal laboranse (辛苦する動物)として扱われるならば、物の世界からも見捨てられる。そうなると孤立は loneliness となる。孤立の上に成立っている専制は一般に人間の生産能力を無疲のままに残しておいてくれる。ところが、たとえば古代の奴隷に対する支配のような〈辛苦 する人々〉に対する専制は自動的に、単に孤立しているだけではなく lonely でもある人々に対する支配となり、そして全体主義的な傾向を/持つだろう」[アレント 1981:319-320]
【44】 「【隔離】は人間生活の政治的領域に関係するにすぎないが、【孤立】= loneliness は全体としての人間生活に関係する。たしかに全体主義的統治はすべての専制と同様、人間生活の公共的領域を破壊することなしには、つまり人々を【隔離】さ せることによって彼らの政治的能力を破壊することなしには存在し得なかった。しかし全体主義的支配は、統治形式としては、この【隔離】だけでは満足せずに 私生活をも破壊するという点で前例のないものである。全体主義的支配は【孤立】= lonlyness の上に、すなわち人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである、自分がこの世界にまったく属していないという経験の上に成立っている」[アレント 1981:320]【44パラグラフ:訳語は変えてあります】
While isolation concerns only the political realm of life, loneliness concerns human life as a whole. Totalitarian government, like all tyrannies, certainly could not exist without destroying the public realm of life, that is,without destroying, by isolating men, their political capacities. But totalitarian domination as a form of government is new in that it is not content with this isolation and destroys private life as well. It bases itself on loneliness, on the experience of not belonging to the world at all, which is among the most radical and desperate experiences of man[Arendt 2004:612].
【45】 「テラーを生む一般的な地盤であり、全体主義的統治の本質であり、そしてイデ オロギーもしくは論理性にとっては、その執行者および犠牲者を作り上 げるものである lonelyness は、産業革命以来現代の大衆の宿業(しゅくごう)となっていた、そして前世紀末の帝国主義の興隆およぴ現代における政治制度および社会的伝統の崩壊ととも に鮮明になった、根を絶たれた余計者的な人間の境遇と密接に関係している。根を絶たれたというのは、他の人々によって認められ保障された席をこの世界に 持っていないという意味である。余計者ということは、全然この世界に属していないということを意味する。孤立が loneliness の予備条件であり得る(あらねばならぬ、ではない)のとまったく同様にを絶たれていることは余計者であることの予備条件であり得る。それを生んだ最近の歴 史的原因や政治のなかでそれが演ずる新しい役割を捨象してそれ自体について見れば、lonelyness は人間の条件の基本的な要求に背馳すると同時に、すべての人間の生活の根源的な経験の一つなのである」[アレント 1981:320]。

※【45】=第45パラグラフ

Loneliness, the common ground for terror, the essence of totalitarian government, and for ideology or logicality, the preparation of its executioners and victims, is closely connected with uprootedness and superfluousness which have been the curse of modern masses since the beginning of the industrial revolution and have become acute with the rise of imperialism at the end of the nineteenth century and the break-down of political institutions and social traditions in our own time. To be uprooted means to have no place in the world, recognized and guaranteed by others; to be superfluous means not to belong to the world at all. Uprootedness can be the preliminary condition for superfluousness, just as isolation can (but must not) be the preliminary condition for loneliness. Taken in itself, without consideration of its recent historical causes and its new role in politics, loneliness is at the same time contrary to the basic requirements of the human condition and one of/ the fundamental experiences of every human life. Even the experience of the materially and sensually given world depends upon my being in contact with other men, upon our common sense which regulates and controls all other senses and without which each of us would be enclosed in his own particularity of sense data which in themselves are unreliable and treacherous. Only because we have common sense, that is only because not one man, but men in the plural inhabit the earth, can we trust our immediate sensual experience. Yet, we have only to remind ourselves that one day we shall have to leave this common world which will go on as before and for whose continuity we are superfluous in order to realize loneliness, the experience of being abandoned by everything and everybody.[Arendt 2004:612-613].
【46】 「【孤立=loneliness】は【孤独=solitude】ではない。孤 独は一人でいることを必要とするに反して、【孤立】は他の人々と一緒 にいるときに最もはっきりとあらわれて来る。これについてはいくつ/かの感想が散見するがーーそれらは大抵、《nunquam minus solum esse quam cum solus esset》すなわち「彼は一人でいたときほど孤独でなかったことはなかった」、もっと精確には「彼は孤独でいたときほど【孤立して】なかったことはな かった」というカトーの言葉( Cicero, De Re Publica, I, 17に引用されている)のように逆説的な言い方で言われているのだがーー、それらを別にすれば、【孤立】と孤独との区別を最初におこなったのはギリシャ生 れの解放奴隷で哲学者だったエピクテトスであったらしい。彼が主として興味を抱いたのは孤独でも【孤独】でもなく、絶対的自立という意味で〈独り〉 (monos)であるということだったのだから、或る意味では彼の発見は偶然だった。エピクテトスの見ているように、【孤立した】人間(eremos) は他人に囲まれながら、彼らと接触することができず、あるいはまた彼らの敵意にさらされている。これに反して孤独な人間は独りであり、それ故「自分自身と 一緒にいることができる」。人聞は「自分自身と話す」能力を持っているからである。換言すれば、孤独においては私は「私自身のもとに」、私の自我と一緒に おり、だから〈一者のうちにあるニ者〉である
が、それに反して【孤立】のなかでは私は実際に一者であり、他のすべてのものから見捨てられているのだ。厳密に言えばすべての思考は孤独のうちになされ、 私と私自身との対話である。しかしこの一者のうちにある二者〉の対話は、私の同胞たちの世界との接触を失うことはない。なぜなら彼らは、私がそれを相手に 思考の対話をおこなう私の自己に代表されているからである。孤独が担っている問題は、この〈一者のうちにあるニ者〉がふたたび一者ーー他のものと決して混 同されることのない不変の一者ーーとなるためには他者を必要とするということだ。私が自分のアイデンティティを確立しようとすれば、全面的に他の人々に頼 らねばならない。そして友情というものが孤独な人々にとって最大の救いであるのは、この友情が彼らの分裂を解消させ、彼らを思考の対話ーーこの対話のなか では人間はあくまで唆昧な存在たるにとどまるーーから救い出し、アイデンティティを回復させるからである。このアイデンティティのおかげで彼らは交換不可 能な人格 の単一の声で語ることができるのだ」[アレント 1981:320-321]。
【46】

Loneliness is not solitude. Solitude requires being alone whereas loneliness shows itself most sharply in company with others. Apart from a few stray remarks- -- usually framed in a paradoxical mood like Cato's statement (reported by Cicero, De Re Puhlica, I, 17): numquam minus solum esse quam cum solus esset, "never was he less alone than when he was alone," or, rather, "never was he less lonely than when he was in solitude"-it seems that Epictetus, the emancipated slave philosopher of Greek origin, was the first to distinguish between loneliness and solitude. His discovery, in a way, was accidental, his chief interest being neither solitude nor loneliness, but being alone (monos) in the sense of absolute independence. As Epictetus sees it (Dissertationes, Book 3, chapter 13) the lonely man (eremos) finds himself surrounded by others with whom he cannot establish contact or to whose hostility he is exposed. The solitary man, on the contrary, is alone and therefore "can be together with himself" since men have the capacity of "talking with themselves." In solitude, in other words, I am "by myself," together with my self, and therefore two-in-one, whereas in loneliness I am actually one, deserted by all others. All thinking, strictly speaking, is done in solitude and is a dialogue between me and myself; but this dialogue of the two-in-one does not lose contact with the world of my fellow-men because they are represented in the self with whom I lead the dialogue of thought. The problem of solitude is that this two-in-one needs the others in order to become one again: one unchangeable individual whose identity can never be mistaken for that of any other. For the confirmation of my identity I depend entirely upon other people; and it is the great saving grace of companionship for solitary men that it makes them "whole" again, saves them from the dialogue of thought/ in which one remains always equivocal, restores the identity which makes them speak with the single voice of one unexchangeable person [Arendt 2004:613-614].
「孤 独 solitude が【孤立 lonelyness】になることもある。そうなるのは、私が完全に自分だけを頼りにするようになって、その結果自分の自己から打捨てられているときであ る。孤独な人々には、彼らを二重性と唆味性と疑惑から救ってくれる友情という救済をもはや見出し得ないときにはいつも【孤立 lonelyness】におちいる危険があった。歴史的に言えば、この危険が増大して人々に注目され、歴史に記録されるほどになったのは、ようやく十九世 紀になってからだったようだ。孤独というものを一つの生き方とし、仕事をするための条件としているのは哲学者だけだが、その哲学者/たちがもはや「哲学は 少数者のためにのみ存在する」という事実に満足できなくなり、誰も自分たちを〈理解〉してくれないと主張しはじめたときに、この危険ははっきりとあらわれ て来た。この間の事情をよく物語っているのはへーゲルの臨終の際の或る逸話であるが、彼以前のいかなる大哲学者についてもこういう逸話が語られることはま ずないだろう。「ただ一人を除いて私を理解してくれたものはなかった。そしてその一人も私を誤解していた」と彼は言ったと言うのだ」[アレント 1981:321-322]。
Solitude. can become loneliness; this happens when all by myself I am deserted by my own self. Solitary men have always been in danger of loneliness, when they can no longer find the redeeming grace of companionship to save them from duality and equivocality and doubt. Historically, it seems as though this danger became sufficiently great to be noticed by others and recorded by history only in the nineteenth century. It showed itself clearly when philosophers, for whom alone solitude is a way of life and a condition of work, were no longer content with the fact that "philosophy is only for the few" and began to insist that nobody "understands" them. Characteristic in this respect is the anecdote reported from Hegel's deathbed which hardly could have been told of any great philosopher before him: "Nobody has understood me except one; and he also misunderstood."[Arendt 2004:614].
[T]here is always the chance that a lonely man finds himself and starts the thinking dialogue
of solitude. This seems to have happened to Nietzsche in Sils Maria when he conceived Zarathustra. In two poems ("Sils Maria" and "Aus hohen Bergen") he tells of the empty expectation and the yearning waiting of the lonely until suddenly <'"um Mittag war's da wurde Eins tu Zwei ... / Nun feiern wir, vereinten Siegs gewiss, / das Fest der Feste; / Freund Zarathustra kam, der Gast der Gaste!" ("Noon was, when One became Two ... Certain of united victory we celebrate the feast of feasts; friend Zarathustra came, the guest of guests.") [Arendt 2004:614].
「【孤 立 lonelyness】をこれほど堪えがたいものにするのは自己喪失ということである。自己は孤独のなかで現実化され得るが、そのアイデンティティを擁認 してくれるのは、われわれを信頼してくれ、そしてこちらからも信頼することができる同輩たちの存在だけなのだ。【孤立 lonely】な状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験をするために 必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験をおこなう能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである」[アレント 1981:322]。
What makes loneliness so unbearable is the loss of one's own self which can be realized in solitude, but confirmed in its identity only by the trusting and trustworthy company of my equals. In this situation, man loses trust in himself as the partner of his thoughts and that elementary confidence in the world which is necessary to make experiences at all. Self and world, capacity for thought and experience are lost at the same time [Arendt 2004:614].
「【孤 立 lonelyness】の条件のもとでは、自明性というものはもはや単なる悟性の手段ではなくなり、生産的になりはじめ、それ自身の〈思考〉の経路を展開 させはじめる。ど/う見ても何らの逃げ道もない厳密な自明的論理性によって特徴づけられる思考過程が【孤立 lonelyness】と何らかの関係を持つことは、「人間が孤独であることはよくない」という聖書の言葉についてのあまり知られていない註解のなかで、 ルターがつとに指摘していることである(孤独と【孤立 lonelyness】について彼自身がなめた経験はおそらく何びとにも劣らぬものだったろうし、彼は一度「人間には彼が信頼することができる存在が必要 だから、神が存在しなければならない」とまで言った)。【孤立した lonly】人間は「いつも次から次へと演鐸をおこない、すべてを最も悪く考える」とルターは言っている。全体主義運動の有名な極端主義(エクストレミズ ム)は、真のラディカリズムと何らかの関係があるどころか、実はこの「すべてを最も悪く考えること」、常に最悪の結論に達するこの演鐸の過程にほかならな いのである」[アレント 1981:323]。
Under the conditions of loneliness, therefore, the self-evident is no longer just a means of the intellect and begins to be productive, to develop its own lines of "thought." That thought processes characterized by strict self-evident logicality, from which apparently there is no escape, have some connection with loneliness was once noticed by Luther (whose experiences in the phenomena of solitude and loneliness probably were second to no one's and who once dared to say that "there must be a God because man needs one being whom he can trust") in a little known remark on the Bible text "it is not good that man should be alone": A lonely man, says Luther, "always deduces one thing from the other and thinks everything to the worst." The famous extremism of totalitarian movements, far from having anything to do with true radicalism, consists indeed in this "thinking everything to the worst," in this deducing process which always arrives at the worst possible conclusions. [Arendt 2004:615].
「非 全体主義の世界のなかで人々に全体主義支配を受容れさせてしまうものは、普通はた とえば老齢というような或る例外的な社会条件のなかで人々の嘗める限 界的経験だった【孤立 lonelyness】が、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である」[アレント 1981:323]。
「し かも全体主義的支配は、独房に監禁するという極端な場合を除いて決して人間を一人 にしておこうとはしない。人間と人間とのあいだの一切の空間をなく し、人間と人間とを押しつけることで、孤立の持つ生産的な可能性すらも無に帰せられてしまう。【孤立 lonelyness】のなかでは、すべての過程の出発点にあった最初の前提を取逃してしまったら完全に破滅してしまうことがわかっているのだが、そのよ うな【孤立 lonelyness】の論理の働きを教え、それを讃美することによって、【孤立 lonelyness】が孤独に変り論理が思想に変るほんのわずかの可能性も消し去られてしまう。このやりかたを専制のやりかたと比較すると、砂漠そのも のを動かし、無人の地球のありとあらゆる部分を蔽いかねない砂嵐をまきおこす方法がこれで見つかったというように見える」[アレント 1981:323]。

「ちょうど恐怖と、恐怖を生みだす無/力とが反政治的な原理であり、政治的行動とは両立しない状況
に人間を投げこむのと同様に、【孤立 lonelyness】、そこから最悪のものを論理的=イデオロギー的に演鐸することは、反社会的状況を意味し、人間の共同生活すべてを破壊する原理を秘 めてい
る。けれども組織された【孤立 lonelyness】は、一人の人間の専制的なほしいままの意志に支配されている人々の組織されていない無力よりもはるかに危険なのだ」[アレント 1981:323-324]。

Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2014

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