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コミュニケーションデザイン・テーゼ

学部生および大学院生が参加する「よい」相互作用を引き出すコミュニケーションを設計する

Communication-Design Thesis : Is learning a priori ?

Irises, Vincent van Gogh (1890), the Van Gogh Museum in Amsterdam

池田光穂

倫理学は先験的である。(倫理学と美学はひとつで あ る)――ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」6.421 より

この発表では,昨今の日本の大学で声高にその必要 性が叫ばれている,アクティブ・ラーニング(能動学習)あるいは対話型授業について,取り上げる.その現場でいったい何が行われているのか,その教育学上 の含意はなにか,能動学習は文部科学省や大学経営者が期待するような学習上の効果を学生たちにもたらすのか,授業のやり方を変えると学生のひとりひとりの 中に,これまでとは変わった中長期的な教育効果が生まれるのか.そして,このようなことは,操作可能な事実として存在しているのか,などについて私は問う ことにする.

しかし時間も限られているために,教育の方法論がも つ経験主義的な文脈に立ち戻り,私の過去9年間の経験を積み重ねてきた対話型授業を紹介し,「コ ミュ ニケーションデザイン(Communication- Design)」に関する12のテーゼについて,Marvin Minsky(1990)の叙述スタイルに範をとった解説をおこない,コミュニケーションデザインを「創発性(emergent)の管理思想」で あると私じしんが定義したプロセスについて,解説しようと思う.そこから,学部生および大学院生が参加する「よい」相互作用を引き出すコ ミュニケーションを設計することには,どのような現場の知であるところの「現場力」が要請されるのかを問おう.そして結局のところ,いったい何が生起しよ うとしているのかについて見極めることとする.

ここでの能動学習あるいは対話型授業の現場とは,次のような状況 を想定している.あるいは次のような認識が,現場において実践のかたちで実装されている.(i)教える側と教えられる側の間の発話が対等なものであるとい う合意が両者の間にある.(ii)一方的な知識伝達よりも対話を通して各人がもつ知恵の創出・創造に主眼がおかれる.(iii)成員による発話の資格が対 等なだけでなく,各人が腹蔵なく話せる場であるという認識がある.(iv)理念的目標としての「知恵の創出」に積極的に関わるという場のエートス (ethos)と参与者の性向(性格の状態 hexis)が共有されている.

コミュニケーションデザイン・テーゼ

 日本で初の大学院の共通教育――高度教 養教育――を実施する組織として2005年4月[2016年6月30日をもって廃止COデザインセンターに統合]に発足した大阪大学コミュニケーションデ ザイン・センター(CSCD)での,これまでの10年間の教育と研 究の成果として,組織のミッション・ステートメントはあったが,十分に明確化されてこなかった「コミュニケーションデザイン」について,私は,以下の12 のテーゼと1つの結論の命題文をもって応答する.(以下、命題番号はオリジナル論文(312-4.pdf, 905k, 2015年3月22日発表)に由来します)

3.1 現今のデザイン論的転回につい て述べる.私の役割は,そこで何が能動学習の授業の現場で起こっているのかを思想史的に解明――人類学的に解釈――することである.

3.2 デザイン論的転回の起源や,そこで現代人が何を考えているのかについて抽出する必要がある.思想史家のWolfgang Schäffner(2015[2010])によれば,自然科学研究はすでに1959年に物理学者Richard Feynmanが,ナノテクノロジー――原子レベルへの操作的介入――の可能性を考えた時に,自然現象を観想的に解釈する知識が,同時に,自然現象を操作 可能にするデザインの発想に自然科学を多いに転換させたと主張したことを嚆矢として,「デザインへの転回(Design turn)」と呼んだ――Schäffnerは言及していないがこれは哲学者 Richard Rorty (1931-2007)――提唱者はGustav Bergmann(1906-1987)――による人文学の転換点の指摘である「言語的転回/言語論的転回(linguistic turn)」という有名な指摘のパロディないしは模倣である.

言語論的転回とは、言語へ の考察を、哲学的な問題を説く方法として採用しようと、その方向性を推し進めることである(冨田恭彦「アメリカ言語哲学入門」ちくま書房、p.24)。

3.3 デザイン的発想の対極にある, エマージェンス(emergence, 創発)/エマージェント(emergent)な事態を,私は「対照化」してみよう.デザインは、現象――私たちの組織ではコミュニケーション――を,操作可能 にする技を事前に設計できるということに由来する.そしてそれとは対極的に,事前に設計せずに立ち現れてくる現象,我々はエマージェンスな いしはエマージェントすなわち創発性と呼んでいるからである.

3.4 デザイン的発想の歴史的根源に,超越論的な存在の創意をみてしまう可能性はある.人類史を紐解いてみれば明白なことだが,西洋思想では,キリス ト教信仰を社会の公的領域から切り離し内面的な世界の現象として逆に個人の心情の領域として確保した「世俗化」とダーウィン進化論の定着は,結果的にこの 宗教における,神の役割を人間が担うようになったと言っても過言ではない.フランス革命以降における神=超越論的な役割を担ったのは人間の理性(合理性) である.今日,私たちがデザインをおこなう主体であることを,多くの人たちは疑わないが,キリスト教の歴史においては創造主すなわち神がその位置を占めて いた.進化論以降,神学の存在意義と人間の理性を調停する試みは,Reinhold Niebuhrによる「理性神学」や,創造主たる神の超越性を担保するためのものとしてインテリジェント・デザインという用語が創案されたが,これらの思 想(信念?)には,デザインをする主体は,造りたいものを造ることができるという強い信念が投影されている.デザイン的理性の主体が,いかなる思想的系譜 に属しているのかについての反省的知識は不可欠である。

3.5 生命現象,組織現象,情報工学(セルオートマトン等)におけるエマージェントなもの,つまり創発的な思考法と,デザインや制御が可能な「現象への合理的介入」という異 なる思考法が,二元論的対立図式ないしはダブルバインド状態をなしていることがわかる(Bateson 1972[2000]).

3.6 コミュニケーションデザインという用語と概念は,創発 的で結果が予測できないコミュニケーションと,制御可能なデザインという,相異なる2つの現象を明示する用語が同居している.しかし,それ はデザインコミュニケーションすなわちデザインを生み出すコミュニケーション(行為)ではなく,コミュニケーションをデザイン(設計・制御)することを意 味している.言い換えると,コミュニケーションデザインとは,〈創発性の管理〉を端的に意味していることがわかる.ないしは,そのようにこの用語は創案さ れたのである.

3.7 したがって,コミュニケーションデザインとは,創発性 の管理が可能である,という信念によって裏付けられた用語法なのである.その用語法が異様なものではないことを証明するためには,それが実 現可能であることを証明しないとならないが,まず必要なのは,創発性とは何か?ということであり,他方で設計や制御としてのデザインとはなにか?というこ とを今一度問うことにほかならない.

3.8 創発性について考えよう.創発性には必ず「制御できな い」「予測できない」性質がある.あるいは,それを人は創発性ないしは創発的と呼んできたのである.創発性は,楽観的にはVannever Bush(1945)が言う「我々があたかも思うように(As We May Think)」というスローガンで代表されるものであり,より悲観的にはカオス,無秩序,そして重大事故のようなメタファーで表現されるものである――リ スク・マネジメントという言葉を思い出されたい.さて創発性万歳の思想をつきつめれば,そこに生起することは,なんでもあり(anything goes)であり,そのことに人は畏れてはならないことになる.そのことを制御してもできないし,制御できる発想が誤っていることになる(池田 2014).

3.9 コミュニケーションデザインでは,なぜ創発性が管理されなければならないのだろうか.コミュニケーションデザインの用語がなぜ重要な概念として 我々の生活の中に浮上してきたのだろうか.授業における知識伝達と管理・制御の発想を推し進めれば,従来の講義室でのレクチャー一辺倒の授業に戻ってしま うことは,誰でも想像できるはずである.だから,管理を「破壊せ よ」(Albert Ayler)ということではなく,管理の代替物として創発性をデザインできるのではないか,あるいはデザインしようではないかという発想が登場す る.それを思いつきから一種の思想運動に変えたのは大阪大学総長就任期(2007-2011年)の鷲田清一氏である.だが鷲田氏は,コミュニケーションデ ザインのアイディアを定義するという管理制御ということを自らに課さず,むしろ後進たるセンターの教職員にその課題を伝えた(と私は信じている).

3.10 コミュニケーションデザインは,創発性万歳の思想に は強い親和性を持たず,むしろ,「よき管理」に傾斜することを余儀なくさせる.それは,なんでもあり(anything goes)への畏れがあるか らである.なんでもありという状況は,教育の現場に立ち会う人間にとっては,授業の効果や効力(パフォーマンス)への信頼を失わせ,授業評価を不能にし, そして文部科学省の監督者たちを当惑させることに繋がるからである.

3.11 したがって,なんでもありへの畏れは,財源を確保し 進取の大学院教育を実現したりするために文部科学省に不評を買わないようにすると同時に,大学内部の上級管理者から妨害されたり規模を縮小されないように するための組織的防衛意識から生まれる面をもつ.

3.12 創発性を担保しつつ,既存の大学教育にはない能動学 習あるいは対話型授業をおこなうための堡塁を築き,その砦の中で,創発性をのびのびと運営するためには、同時に管理監督も必要となる宙づりの緊張感をある 業務が不可欠になる.それが,コミュニケーションデザインを「制度的に」保証する強力な場や環境を形成してきた.なんでもありという創発性 もつ無秩序性(アナーキー)を制御し,かつ飼いならし,創発性のエネルギーを管理するためには,最新のコミュニケーション研究の蓄積という技術的かつ学問 的裏付けをもとに,能動学習や対話型授業で,その都度改善してゆく緊張感が不可欠になる.また,私は臨床コミュニケーションという授業の運営を通して,そ のような意識と義務感をこれまで痛感してきた.

3.13 「コミュニケーションデザインとは,創発性の管理思 想」であり「コミュニケーションデザイン教育の場は創発性と管理がせめぎ合う緊張感のある場」であったことが以上をもって証明された(Quod Erat Demonstrandum)

結語

学部生および大学院生が参加する「よい」相互作用 を引き出すコミュニケーションを設計することには,どのような「現場力」が要請されるのか?――(答)よく練られた既存の能動学習のプログラムを運用する 際に,ファシリテーターたる君は,授業が生起する現場でそのつど、そのつど修正していけばよい.現場力は,現場というコンテクストがあってはじめて成立す るものである.現場力はつねに現場でのトレーニング(On the Job Training, OJT)によって鍛えられる.

そこでいったい何が生起しようとしているのか?―― (答)人と人が相互作用する現場においておこる情報の還流,それが学習(learning)と私たち が呼んできたものである.学習は人間がおこなう創発性の一種であり,既存の学習の場というものが枠組みを与える限り管理という現象は不可避であるが,その ような管理があるからこそ,(逆説的に)コミュニケーションとしての学習は緊張感のある創発性を維持進展することができるのである.

文献

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(c)Mitzub'ixi Quq Chi'j. Copy&wright[not rights] 2015-2016

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