はじめに よんでください

癒しを定義する

Defining IYASHI, healing, in Japanese

池田光穂

癒しとは、英語のヒーリング(healing、 healは自動詞と他動詞の二つの用法がある)の訳語であり、病気が治ることを意味す る。しかし、その意味から派生して、身体的な病気がなおるとという治療(curing, なおcureは他動詞である)よりも、心身が平穏になるという積極的な意味がある。

──精神的には人間は不可分のものとしてではな く、可分のものとして自らを癒す(グードルフG. Gusdorf, L'Experiecnce humaine du sacrifice, 1948 p.178.向井元子訳/Evans-Pritchard, Nuer Religionに引用)

さて、「癒し」という言葉は流行語であり、その誕生は意外 と新しい。■1。

■1.国立情報学研究所の図書データベース(NACSIS-Webcat)で1999年末当時に検索した「癒し」を表題に含む一九九件の図書資料うち、九 〇年以降に出版され たものは全体の九三パーセントにもおよぶ。九〇年代の発行年別の上位三位の出版年とその百分率は、九七年(二八%)、九九年(二一%)、九八年(一八%) となり、この事例で言える範囲では「癒し」を表題に含む書物は九七年以降著しく増加している。癒しが近代医療概念にとって積極的な意義を見いだすものとし て、エリック・キャッセル(Eric J. Cassel)のThe Healer's Art: A new approach to the doctor-patient relationship(1978).の邦訳が検討に値する事例を提供する。一九八一年の大橋秀夫による邦訳の際には副題に由来する『医者と患者——新 しい治療学のために』となっているのだが、十年後の改訳には土居健郎が共訳者になり『癒し人のわざ——医療の新しいあり方を求めて』(共に新曜社)と副題 には原著にあるような医師患者関係ではなく、癒しを医療全体に内包させるように変化させられている。

『広辞苑』第四版には「癒す」という動詞はあっても 「癒し」という名詞はない。この名詞は、癒すという動詞の派生語であり、独立した意味を与えられるほど単語としては重要でなかったことを示唆する。また 今、分別ある人が辞書編纂を任されれば、「癒し」という項目に積極的に取り組むことに躊躇するだろう。泡沫的流行語として、やがて人びとの脳裏から次第に 忘れ去られてゆくからだ。善良な意志から癒しの意味を定義しても、結果的に世に数多ある怪しげな癒し産業の片棒を担ぐのがせいぜいのところだからである。

日本語においてこの出自の不明瞭な「癒し」ということばはどこからやってきたのか? 言うまでもない英語のヒーリング(healing)の訳語である。 ご本家の英語はすでに『マクベス』(一六〇五) に登場する由緒正しい「癒す to heal」の名詞形としてすでに四百年の歴史をもっている。この「癒す」の語源たる英語の古語は十世紀にも遡れ、ご存じのとおり「健康 health」——これは全体(whole)と語源を同じくする——にもつながる。太古からあるのだから人間の多様性をこえて普遍といえば、それは誤った 推論だ。言語が異なれば人間の思惟構造もある程度それにともない異なる可能性もあるからだ。本章の目的は、癒しの語源に関する蘊蓄を語ることではない。癒 しというものの現代的性格をあきらかにし、その用語に現在考えれうる正確な評定をくだすことにある。したがって、日本語の癒しは、ヒーリングの翻訳語とし て我々に膾炙したものであり、古くからある「癒す」■2という言葉の派生語としては本章ではとらえない。

■2.広辞苑が挙げている用例の地蔵十輪経は玄奘の翻訳によるものなのでその漢語の起源はシェークスピア以前千年の七世紀にも遡れる。もちろんこのような 比較文明論はコービーブレイク向けの話題以外のなにものでもない。

「癒し」はふつう病気や苦悩を和らげたり治すことである。それでは 「治療」との違いは何かという疑問がでてくる。ここで用語法の整理をしておこう。以下 の定義は「癒し」概念を批判的に検討するために私が独自に行うものである。従って世間的に流布している「癒し」を気分や雰囲気で形容したものとは峻別され る。私が提案するのは「癒し」を「治療」とセットにして考慮することである。

 癒し・・・病気や苦悩からの解放のうち、苦しんでいる本人やその家族あるいはそれらをとりまく社会が定義するものをいう。
 治療・・・病気や苦悩からの解放のうち、近代医療によって了解可能なもの、あるいは説明できるものをいう。

この定義を採用すれば、近代医療の助けなしに治療 というものが起こりうるし、病院で癒しが成就することもある。したがって、癒しと治療の間には共通の部分ができることがわかる【癒しと治療の定義の概念 図】。癒しは社会的定義、治療は臨床的定義と言い換えることもできる。

こう述べると、法律施行後の脳死による臓器移植によって事情をよく理解していない一部の臨床医が、法的脳死と臨床的脳死という一般になじみのない用語法 を弄して素人を手玉にとるのと同じような手口を私が使っているものと誤解する向きもあるだろう。だが、それは心配無用である。私のこれからの議論は、癒し と治療の二分法というものに限界があることを指摘するためにある。この二分法がなりたたないことを論証するために、あえて将来破綻をもたらすだろう前提か ら出発するのである。

さて、癒しあるいはヒーリングは現代日本でどのようなかたちで受容されてきたのだろうか。歴史をチェックしておこう。日本では一九八〇年代にアンド リュー・ワイルなどの海外の代替医療の動向の紹介を通して、流行語としての言葉と概念が登場してくる。ワイルの『人はなぜ治るのか』は日本教文社より一九 八四年に翻訳出版されている。ワイルの本を翻訳した上野圭一は、日本における「癒し派」の一人であり、現在におけるその強力な実践者の一人である。

癒しは、近代医療の治療の特徴である要素還元的あるいは攻撃的治療に対抗するために、全体論的あるいは調和的な治療を指し示す意味を、その登場の時期か ら担わされてきた。時はイヴァン・イリイチ(Iván Illich, 1926-2002)脱病院化社会』が一九七八年に翻訳され、近代医療に批判的な論者から大受けされた時代である。自然治癒力とい う言葉と並んで、癒しは近代医療を批判する対抗的言説として華々しくデビューしたのだ。そのため癒しは、近代医療が予め到達することのできない領域におけ る技術すなわちアートとして位置づけられた。癒しを追及する人たちが、そのモデルとして求めたのは、シャーマンやヒポクラテスあるいはウィリアム・オス ラーといった、どちらかと言えば神棚に奉っておけばよいような偉人がなせる技であった■3。それも技能者の身体や精神性と不可分なものとしての技芸なので ある。癒しは、近代医療がもつ宿痾を退治するためにやってきた幻影のヒーローといえよう。現代において「癒し」という用語が神秘性を帯びている理由はここ にある、と私は考える。

■3.近代医療のまともな内科医であったオスラー(William Osler, 1849-1919)が珍妙な神格化をとげるのは、それほど癒し派と思えないような合理的な近代医療派でありかつ主流派の両方に威光を放つ医学者である日 野原重明(1911-)の貢献による。

以上のことを整理しよう。まず、(一)「癒し」は迷信や非合理主義、あるいは代替科学の主張を擁護し、しばしばそれらを受け入れる可能性のあるオカルト 的概念である。他方(二)このオカルト的概念は、近代医療を対抗軸として措定しているために、そこから生み出されるものには近代医療批判という機能も生ま れてきた。そのため、癒しという用語には創造的な独自性をもつ側面もある。しかし(三)現代社会におかれた癒し概念は、また近代医療というもっとも巨大な 対抗勢力を射程においているがうえに、意図的あるいは非意図的に近代医療概念を内包せざるをえず、場合によってはもっとも大きな勢力である近代医療の概念 や理念を結果的に補強することもありうる。以下の解説はこれら三点を念頭におきながら、癒しという用語にまつわる社会現象について考察していこう。

出典:池田光穂「「癒し論」の文化解剖学」佐藤純一編『文化現象としての癒し』[共著]、Pp.185-209、メディカ出版、2000年

クレジット:癒 しを定義する——〈癒し〉の文化人類学

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インデックス

    1. 癒しを定義する——〈癒し〉の文化人類学(1)
    2. 癒しをうむ社会的文脈:宗教的側面——〈癒し〉の文化人類学(2)
    3. 癒しの受容と排除:政治的側面——〈癒し〉の文化人類学(3)
    4. 癒し論の粉飾決済:オカルト施術から癒しへ——〈癒し〉の文化人類学 (4)
    5. 癒しを見る眼——〈癒し〉の文化人類学(5)

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