社会学的想像力
Sociological Imagination
ライト・ミルズが自著のタイトルにつけた用語で、社会学的分析における批判的な力(=分析力)のこと。クリティカル・シンキングとも言えるが、ミルズ流に理解すると、社会学上の認識には、社会階級的な権力が投影されていることについて自己反省的になることが、より強調されている。
「情報を駆使し理性を発展させることによって、かれら自身の内部や世界におこることがらを、明晰に総括できる精 神の資質」(p.6)
・背景
手に入る情報の爆発、人間の多様さの範囲が広大であるという発見
・結果
人間存在の疎外状況
・効用
「社会学的想像力を所有している者は巨大な歴史的状況が、多様な諸個人の内面的生活や外面的生産にとって どんな意味をもっているかを理解することができる。・・・・」(p.6)
2つの区分――社会学的想像力がはたらくための生産的な区分
(a)個人的環境にかんする史的問題
「一個人の性格の内部で、また他人との直接交渉の範囲内でおこる。私的問題はかれの自己、および社 会生活のなかでかれが直接または個人的に意識している限られた領域に関連」する(p.10)。
(b)社会構造にかんする公的問題
「ある個人の限られた環境や、かれの内面生活の範囲をこえた事柄に関連」する(p.10)。
ライト・ミルズの社会学的想像力とは、文字通りにはグランドセオリー(T・パーソンズが現実の敵とされており「誇大理論」という名訳あり)とラザスフェルドの抽象化された経験主義からの両方からの距離をとるという立場のとるために使われる想像力(構想力)のことである。→同名の本が翻訳されている。こちら
ミルズのこの想像力は、社会学者として生きることに大事なことを忘れてはいませんか?というメッセージ性がつよく、それを2つのあることの橋渡しの能力として構想されているのだ。
この2つの対比は、先のような「誇大理論」と「抽象化された経験主義」の間の他に、<人間>と<社会>との間、<ライフヒストリー>と<歴史>との間、<自己>と<世界>との間の相互浸透を理解する能力として想定されているのである。
ミルズは、ごくごく私的なことを考えても、必ずその思念・思考様式・実践には社会性(=社会構造に関する公的問題)が投影されているという、今では紋切り型と思われても仕方のないような、<社会のことをお忘れなく!>という批判があるのだと指摘している。
このメッセージを教訓としての我々の心に刻んでおくことはよいことだ。
しかし、こんなメッセージを発したからと言って、主知主義にこり固まったパーソニアン・エピゴーネンや、経験を抽象化したと思いこんでいるラザスフェルド主義者の<すでに開始された妄想>に歯止めを止めることが可能だったのだろうか?[→量的研究と質的研究のバトルロイヤルの神話]
科学社会学を多少なりともかじったことがあるものなら、歯止めの効果のほどはいかばかりなのかと考えてしまう。
社会学的妄想力
社会学的妄想力は、ミルズの社会学的想像力をもじって池田光穂が造語した反省的自己諧謔的用語のこと。
ミルズを、パーソンズやラザスフェルドの間の立場をとる折衷主義者とさせない、あるいはいつも怒ってばかりいる俗流マルクス主義者にさせないような形で、ミルズの精神をべつのかたちで評価する(=我々の肥やしにする)方法というものはないのだろうか?
ミルズのラディカルなメッセージを、反省や良識の一つのストックとして評価する(=しつこいですが肥やしにする)のではなく、人生を変える破壊力として活用するためには、それは<未だ我々の前には現れていないもうひとつの社会学>がそこにあり、そのための想像的訓練を要求するものであると理解すればどうだろうか?
これはミルズのメッセージを改良のための提案として捉える視点ではなく、ミルズのメッセージを呪詛として捉える観点である。
イマジネーションを妄想として構想するのである。
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