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軍事的インテリジェンスの人類学序説

Introduction to Anthropology of Military Intelligence and counterintelligence

池田光穂

0.章立て

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1.軍事的インテリジェンス(Military Intelligence and counterintelligence)の人類学

僕は、中生勝美氏から「インテリジェンス研究」へ の参加招待へのリクエストにお応えした。旧年度の申請書「ナショナリズムとインテリジェンスの人類学:1930年代から40年代を中心に」には協力者とし てノミネートされていた。次年度の、共同研究者(予定)として新年度への研究計画書「ファシズム期における日独伊のナショナリズムとインテリジェンスに関 する人類学史」への参画に際して、プロジェクトの目的を、軍事的インテリジェンス(military intelligence, MI)の利用に関する連合国側と枢軸国側の違いなど、対照的に研究することが重要ではないかと同氏に指摘した。それは研究プロジェクトで必要のみならず、 他ならぬ僕自身の関心でもあったからである。

すなわち、軍事的インテリジェンスの有無、制度、 開発のタイプ、諜報と軍事行動の関係——これは中生氏がエドワード・サイードの 諸論をもとに「知と力」の関係を強調することとパラレルである——そして、 作戦遂行の共通点、相違点を明らかにすることが必要である。それらの所論を整理しつつ最終的には、戦争とMIと人類学(学知)の協力・協働関係を明らかに する。僕の関心はこうである。最終的には、この研究がうまく行われた時に、いったいどのような学問的な実りが期待できるのであろうか?——科研の審査員な らずとも、この研究を見守る者にとっては、大いに気になるところである。また、この研究プロジェクトの重要な課題であろう。

ここで、インテリジェンスについて整理しておこう。 インテリジェンス(intelligence)とは かつて諜報(ちょ うほう)と翻訳されていたことばを外来語として読み直したものである。Google - Dictionary によると二番目の意味に、2. the collection of information of military or political value(=軍事的または政治的価値のある情報収集)とあり、その同義語(synonyms)として「 information gathering(情報の収集), surveillance(監視), observation(観察), reconnaissance(偵察), spying(スパイ行為), espionage(スパイ活動), undercover work(諜報), infiltration(潜入[調査]), ELINT(電子偵察:electronic intelligenceの略号), HUMINT(人間諜報活動:Human intelligence), cyberespionage(サイバースパイ活動), humint(情報分析)」からなる。それらをまとめると、軍事あるいは現実政治 (リアル ポリティーク)の世界で、秘密裏にすすめられる、人または通信や機械(コンピュータ)を使っておこなわれる、(1)情報の収集、(2)蓄積、(3)分析、 (4)報告、そしてそれに基づく(5)作戦遂行、の5要素からなるものが、言葉の正しい意味での、諜報=インテリジェンス[intelligence](あるいは軍事的インテリジェンス: military intelligence)の定義となる。。

2.戦争とMIと人類学(学知)の関係の位相

しかしながら、これらの学的諸関係を理解する以前 に、「戦争やMIを人類学史に位置づける」際に僕自身は次のことを明確にすべきだと思う。つまり「戦争とMIと人類学(学知)」の三者の道徳的倫理的関係 は具体的にはいったいどのようなものであろうか、というものだ。その見取りを仮設的に示しておこう。それは、日本の人文社会科学者における、非常に素朴 (ナイーブ)な「戦争嫌悪」や「反戦信条」という立場——かく言う僕もどちらかと言えばその立場だ——とどう折り合いをつけるのかということだ。3つの エートスを示しておこう。研究グループの各研究者は、この立場を自覚化し、それぞれの研究の立場を相対的に比較考量しないかぎり、次のような現今の「政治 的混乱」の議論に巻き込まれることになる。すなわち、東アジアの安全保障体制のダイナミズムをめぐるきな臭い議論、ネオリベラリズムが奇妙な袋小路に入っ たかのような全世界的な政治ポピュリズムの台頭、そして、日本の防衛装備庁が比較的多額の研究費を大学ならびに民間企業に配分することをめぐる論争や議論 などの状況の状況である。

ここではそれらを単純化して、(α)戦争とMIと 学知の三者の協力は必然である、(β)かつて必然であったからこそ分離離脱すべき、(γ)前二者からの価値判断から自由になりより仔細に検討すべき、の三 分類の(派閥の)エートスにわけてみよう。すなわち、つぎのような主張である。

(α)三者の協力は必然である(「戦争と学知は結び つく派」)

学問と軍事研究は結びついている。なぜならば、近 年になればなるほど、戦争と軍事行動には、高度な知識情報処理とそれにもとづく意思決定が働いている。ICTやAIなどの動員をみればわかるように、戦争 と軍事の分析官の仕事はいままで以上に高度に情報化かつ分業化している(e.g. Gregoire Chamayou, Théorie du drone, 2013)。その分業と全体性を把握できない不全感こそが、軍事研究の刷新を求め、広く知識人に求めるなければならない、と考えるのである。そのような軍 事研究資金提供から得られるものの恩恵の中に当然我々はいる。米国のDARPA(Defense Advanced Research Projects Agency)は潤沢な資金を供給しており、さまざまな批判はあるもののさまざまな成果を上げているのではないか(モレノ 2008;ジェイコブセン 2015;ローチ 2017)。インターネットやGPS、無人ドローン技術など軍事であったものが民生に活用される(spin off)されたり、パソコンやインターネットプロトコルなど民生のものが軍事にも使われたりするようになる(spin on)は、科学技術における常態であり、なんら驚くべきものではない。いや、スピンオン/オフという二元論はもはや時代遅れだ。そのような両者の関係の区 分・境界はナンセンスであり、今日ではデュアルユース・テクノロジーが当然であるという声が聞こえてきそうだ。

知は力なりScientia potentia estFrancis Bacon, 1561-1626.: 「人間の知識と力は一致する、というのも、原因を知らなければ、結果を生み出すこともできないからだ (Scientia et potentia humana in idem coincidunt, quia ignoratio causae destituit effectum.)。自然を支配するためには、自然に仕えなければならない。思索における原因は、作業における規則に対応する」フランシス・ベーコン 『ノヴム・オルガヌム』第1巻「警句」

(β)戦争と学知はかつて必然であったからこそ今こ そ我々は冷静になりそれを分離し、学問は軍事研究を対象にしながらもその中心的なエートスから自らを遠ざけるべき(「分離反戦派」)

かつては、そして今も学問と軍事行動は結びついて いる——英国軍に従軍した社会人類学者E=Pや、エドマンド・リーチG・ ベイトソン、米国のミード、ジェフリー・ゴラー、ルース・ベネディクトを思い出 せ。だか らこそ、その反省にたって良識ある科学者は、軍事研究に関与することから距離を取るばかりでなく、積極的に否定しなければならない(ライト・ミルズ、デ ル・ハイムズ、M・サーリンズ、そしてノーム・チョムスキーらの立場)。マンハッタン計画に加わったアルバート・アインシュタインですら、戦後ナチス・ド イツの科学者でナチに忠誠を誓ったことのある学者を米国に招聘するためにビザを発給することに対して異を唱え、ハリー・トルーマン大統領に書簡を認めたで はないか。湯川秀樹のパグウォッシュ会議会議組織という英雄的な行動と彼の学術研究は完全に両立するではないか、などという主張である。

イノベーションに関 する3つの誤解

(γ)左からと右からのの価値判断から自由になり仔 細に検討すべき(「価値中立分析派」)

文化人類学や社会学は、価値自由の学問である。も し、科学と軍事との関係を客観的に描写し、分析したいのであれば、価値自由で中立的であることが必要であり、それが文化人類学者や社会学者にとっての善行 (good conduct, good deed)となるはずだ。「軍事と科学研究は協働すべきという」考え方も、また「科学研究者は軍事のことを批判的に研究すべきという考え方」も共に誤りで ある。なぜなら、文化人類学や社会学は、そのような双方の姿勢がもつ予断から自由になり、認識論的相対主義の立場から、この軍事と科学と技術の関係を明ら かにすることが先決なのである。よいかわるいかを判断をするのは、私たちが客観的なデータを提示してからであり、それを判断するのは、高度な政治的判断が 求められる専門家であろう。私たちは、その専門家の一翼を担うだけであり、同様な努力をしている他の専門家との共同が欠かせない、というのが第三番目の主 張である。

3.軍事的インテリジェンスの人類学に文化概念は必 要か?

今なぜ軍事的インテリジェンスの人類学なのか。形 式的な分類であるが、anthropology for/of/in military intelligence と両者の関係を表現してみよう。すなわち「軍事的インテリジェンスのための人類学(anthropology for military intelligence)」/「軍事的インテリジェンスの人類学(anthropology of military intelligence)」/「軍事的インテリジェンスにおける人類学(anthropology in military intelligence)」。そうすると、for/of/inという前置詞は、それぞれ上掲のα、β、γの立場に対応すると言えるかもしれない(より正 確には、for/of/in の対応関係は、for/against/of であるとの修正意見も含めて)。では、なぜ、文化人類学者がMIの研究に着手しなければならないのか。私たちの軍事研究機関あるいは研究助成機関にとっ て、この研究はどのような魅力/関心(あるいは嫌悪/無関心さ)をもつのだろうか、あるいは持たせることができるのだろうか。

文化人類学界のインサイダーとしての僕は、このよ うに文化人類学の研究対象の範囲を広げる活動を〈非常に好ましいもの〉だと思っている。が、しかし他方で、それは文化人類学研究の他の隣接人文社会研究 ——例として「戦争社会学」の隆盛——にくらべて文化人類学の魅力自体が欠けており、学問領域全体における文化人類学のヘゲモニーが—— 少なくとも山口昌男らが活躍した1970-2000年の四半世紀強の時代に比べて——とても低下しているように思える。その理由のひとつは、(マスコミの 寵児として称えられるスター人類学者がいないこともあるが、より内在的な理由として)心理学的内面化(enculturation)によって代替され説明 づけられることの多い〈文化〉の概念の長期にわたる衰退の結果ではないのかと思われる。他方、〈社会〉の概念とその分析は普遍化志向がつよく、全体社会の 出来事(Fait social totalで表現される)〈社会〉のイメージは、〈文化〉のそれに比べて、いまだにパワフルである。

ここでいう〈文化〉 概念は、通常、文化研究者が使い分けている2つの文化概念の一方の側のものをさす。すなわち文化は、(1)フランス的な普遍人間文化あるいは文明さらには ビルドゥング(Bildung;教養)に代表されるような単数の大文字の文化と、(2)「他者の異なる諸文化(other cultures)」で表現されるような複数形のボアズ流の文化概念に区分される。そして、僕 が衰退の著しいと言うのは、文化人類学者がもっぱら専業専有してきた後者のほうである。もちろん、前者の普遍[人類]文化=文明の概念も、その中心モデル は西洋化あるいは西欧文明であり、サミュエル・ハンティントン的パラダイムが 言う「非西洋文明」からの挑戦を受け続けているのは周知のとおりである[池 田 Online]。

後者の文化理解の概念が、社会的影響力をもってい たのは、異文化理解が重要だとされていた時代である。それは、文化を分析することは「人々の相互理解のためによいものだ」という我々の信念つまりイデオロ ギーに訴えかけるものである。他者の文化理解を通してこそ、戦争や人種偏見がなくなり、人々が平和裡に共存できるというプログラムを文化人類学がかつては 主張してきたからではないだろうか。だがこれは、あまりにも「現実政治=リアルポリティーク」から遠ざかり、ユートピア思想に染まりすぎていたせいなので はないか。いまや国際政治学(国際政治論)の教科書ですら、多文化主義の理想的なリベラル探求の面よりも、保守主義的な支配のためのイデオロギー装置とし て機能するという面を強調している。ガヤトリ・スピバックは1990年には 「多元論とは、中心的権威が反対意見を受け入れるかのように見せかけて実は骨抜きにするために用いる方法論のことである」と正しく指摘していたではない か。異文化理解による共存は冷戦後のスティーブン・ピンカーのいう『我々の本性のよ き天使たち』がリアルポリティークという雷に打ちのめされる直前のつかの間の幸福な出来事だったのかもしれない。

現在の人文社会科学における異文化概念の扱いは、 人々の投資や消費の行動に見られる特異的なバイアスや変異を生み出す原因である。そして、文化化(enculturation)が脳内の活動として証明さ れるように、fMRIの脳のマップが指し示す人間の認知や情動の局在の普遍性にもとづき、どのように統計的な偏差が出るのかを表現する人種的区分とスレス レの人間的な行動の種的差異のインデックスにまで〈文化〉概念は転落した、と言えよう。あるいは、ビジネスの現場で相手と自分の「真意」がわかる教養のひ とつにまで縮小化した知的道具のアイテムにされてしまった(Erin Meyer, Culture Map, 2014)。

さてメイヤーの知的道具のアイテムは、 言い方を変えると、今から80年以上も前に、Office of Strategic Services(OSS)に雇用されたり関係をもったりしたベイトソンやミード、あるいはOffice of War Information (OWI)で働いていたベネディクトが構想した異文化が激突する戦場ではなく、国際ビジネスの現場で「異文化の他者を理解することを通してwin- lose の関係ではなくwin-winの関係で平和裡に共存しよう=商売しよう」という理念が、いままさに実現しようとしている証左かもしれない。これは大文字の 単数の文化と小文字の複数形の文化を、止揚しようと努力してきた私にとっては多いなる失望である。

この見出し「軍事的インテリジェンスの人類学に文 化概念は必要か?」について考えよう。軍事的インテリジェンスが必要とするのは異文化の文化概念の手垢にまみえていない客観的情報である。そこでは、敵と 味方の双方が共有する力と力の衝突における雌雄を決する要因としての客観的な科学技術を支える。この科学技術の行使は、利用する者たちに行動の倫理的配慮 の規範を求めることへの考慮が入る余地がほとんどない。次回に発表する「ペー パークリップ作戦」の歴史からみても、アメリカ合衆国の軍隊や諜報部は、ナチスの科学者と同等の冷血な功利主義者どもである、というのが現在の僕 の暫定的結論である。

4.《戦争とMIの人類学》はどのような立場をとる べきだろうか?

戦争とMIと人類学(学知)の関係の位相について 思いを馳せる時、先に述べたα、β、γの時間的経緯は当然その順に登場してきた。はじめは、(α)戦争とMIと学知の協力がまさに臨戦状況の中で急ごしら えの中で生まれ、戦争や紛争が終わった時点で、次に(β)戦争の学知の残忍さが暴露され人々に反省すべきであるという視座が生じ、それが歴史的な冷却化を 経て、(γ)価値自由な客観的な研究が求められるようになった。これは事実、弁証法的な帰結だ。最後の立場は非の打ち所がないように思える。しかし、問題 点がまったくないわけではない。すなわち(1)研究の内実と倫理や価値の位相が、現実の世界に生きている僕たちの研究のスポンサーになってくれる個人や団 体にとって見えにくいという問題。言い方を変えると、僕たちは目の前にある仔細な研究を優先することで、倫理的な判断を含めた結論を出すことを先延ばしに しようとしているのではないか。そして(2)さまざまなイデオロギーにまみれていた研究対象である歴史上の科学者や学者と同様に、僕たちもまた僕たちが生 きている現代の社会(あるいは文化!)のイデオロギー的被拘束性に無自覚ではないかという自己反省からの問題性。

これらから自由になるためには、(γ)から(α)や (β)へと先祖返りすることではなく、この三者の前提や立場に立つことの多様な認知的バイアスの存在を疑ってかかる必要がある。最後に、それらを一瞥して おこう。

(α)戦争と学知は結びつく派:この派閥の問題は、 効用に対する興味が過剰であり、科学の勝利者史観(ホイッグ史観)がつよい。効用に焦点があてられすぎると、セレンディピティ現象——偶発的な発見や木に竹を継ぐような奇 天烈なものが思いもよらない結果を生む物語——の歴史的結びつきを過小評価してしまう。さらに(γ)にも通底する問題だが、道徳的無感動(アパシー)を研 究にもたらしてしまう。

(β)分離反戦派:戦争と学知の結びつきは常に悪で あるという点を、論点先取(Begging the question, Petitio Principi)として罪悪視するために、この立場をとる多くの人は陰謀説を安易に採用してしまいがちだ。あるいは、アプリオリな平和教育の重要性を優 先する余りに、軍事的インテリジェンスがもたらす意味に、浅い分析しかできない。過去の自らの行為に対するマゾヒズム、過去の他者の行為に対するサディス ティックな趣味が見られる。あるいは、それらの両義的な解法の手段をもとめるあまり、研究者自身が道徳的企業家(moral entrepreneur)化してしまうという陥穽が待っている。

(γ)価値中立分析派:仔細を通り越した些細な歴史 事象への拘り、反証例を見つけて論証の細部に沈積すること。キャノン(主たる学説が依拠する原典)への信奉、歴史的史料フェティシズム。それらの行動の帰 結としての歴史の細部修正という無限後退、などがその欠点である。

5.米軍研究機関と諜報部による「ペーパークリップ作戦」の紹介

第二次大戦中からアメリカは、ナチスドイツの科学 技術に関心をもっていた。ペーパークリップ作戦とは、ドイツの科学者を占領と共に米国に連れてきて、研究や技術開発に従事させようという計画である。ただ し、当初これには大きな問題があった。ひとつは、ナチスドイツに忠誠を誓った「体制派」の科学者は、潤沢の研究費の給付とともにナチスドイツに忠誠 を誓っていたからだ。また、Vロケット開発(V1, V2)のように(空襲に耐えることができる)地下工場で、ユダヤ人をつかった奴隷労働に従事させていた(すざまじいばかりの人的消耗=虐待行為)。また、 目覚ましい軍陣医学の進歩は、強制収容所の囚人を使って、非人道的な実験をおこなった末の「成果」であった。実際、医学研究における人体実験を禁止した ニュルンベルグ・コードは、ニュルンベルク裁判後におこなわれた、通常「ニュルンベルク医学裁判」にもとづいて策定されたものであった。

このため、戦争犯罪を問われた被告たちを、米国に 本国に召喚するのは困難を極めた。しかし、軍部ならびに情報部は、たくみに戦争犯罪者である科学者たちをリストアップして、彼らの資質を評定し、あげくに は「よきアメリカ人」になる可能性を示して(つまり偽装して)、結果的に1,600名以上を招聘し、ビザを与え、アメリカ本国において戦後、医学や化学、 あるいは破壊技術に関する兵器開発あるいは宇宙開発に従事させることに成功した。その背景には、戦後に激化する冷戦構造があり、科学者をソビエトに奪われ ることは、米国の軍事的優位を損なうことになるという「大義」を優先させたことなのである。

 次回は、以上の議論を踏まえて、米軍研究機関と諜 報部による「ペーパークリップ作戦」を紹介し、戦争とMIと学知の関係 について考察することにする。

クレジット:

池田光穂「軍事的インテリジェンスの人類学序説」国 立民族学博物館共同研究会「人類学/民俗学の学知と国民国家の関係:20世紀前半のナショナリズムとインテリジェンス」(研究代表者:中生勝美)、 2018年12月27日研究発表(アップロード日:2019年1月1日)

ファシズム期における日独伊のナショナリズムとインテリジェンスに 関 する人類学史」(中生勝美先生・基盤研究(B)2019年度-2023年度:19H04363)

1930年代から40年代ならびに戦後処理期の人類 学史を、日独伊に焦点をあてて研究する。

現段階での池田による評価
日本
ドイツ
イタリア
1. ナショナリズム:民族意識の高揚に自国の人類学を活用したか?
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++
2. インテリジェンス:対敵分析や宣伝のため、人類学者をいかに利用していたか?
++++
+++++
+
3. 科学的レイシズム:人類学理論は、科学的レイシズムとどのような関係をもったか?
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+++++
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「日独伊の三カ国の戦時中の人類学を比較検討するこ とを通じて、総力戦が人類学に与えた影響、戦後の人類学との連続性、政治とアカデミズムの緊張関係、さらに人類学者の研究活動が、いかに戦争遂行に関係し ていたかを、「三角測量(トライアンギュレーション)」の手法で描き出す」中生申請書より)

「ドイツ研究班のうち池田光穂(研究分担者)は、ナチハンティング、優生学に関して論文を用意しており、中生と共同してベルリンでの調査、および単独でイスラエルでの調査を実施する」同上)

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