日本帝国医療年表:Japanese Imperial Medicine, Chronology, by (c) Mitzub'ixi Quq Chi'j. Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2019 :はじめにお読みください














 

    清野謙次(1885-1955)キヨノ 日本民族学ニホンミンゾ クガク関連カ ンレン 石井四郎(1892-1959)イシイシロウ 小泉親彦オヤヒコ:1884-1945 内務省ナイムショウ厚 生省コウセイショウ社 会保障シャカイホショウ公 衆衛生政策コウシュウエイセイセイサク 長與ナガヨマタロウロウ、ルドルフ・トイスラー、ならびにロックフェラー財 団ザイダン 増田敬太郎マスダケイタ ロウ増田神社関連マ スダジンジャカンレン 元号ゲンゴウ 西暦セイレキ 大英帝国ダイエイテイコ ク 外交史ガイコウシ国 際情勢コクサイジョウセイ

      日本文化人類学史
                 

明治元年メイジガンネン 1868               明治元年メイジガンネン 1868    

明治メイジネン 1869   開拓使設置。蝦夷地を北海道と改称         10月、増田敬太郎、菊池郡泗水村吉富に生まれる 明治メイジネン 1869    

明治メイジネン 1870               明治メイジネン 1870    

明治メイジネン 1871               明治メイジネン 1871    

明治メイジネン 1872               明治メイジネン 1872    

明治メイジネン 1873               明治メイジネン 1873    

明治メイジネン 1874         恤救ジュッキュウ(じゅっ きゅう)規則キソク布 達2ツ 政府は8月18日に76箇条の「医制」を公布。   明治メイジネン 1874   台湾出兵タイワンシュッ ペイ

明治メイジネン 1875           衛生行政は文部省から内務省へ移管。内務省初代衛生局長は長与専斎(〜1891、明治24年)。   明治メイジネン 1875   江華島コウカトウ事 件ジケン

明治メイジネン 1876               明治メイジネン 1876 ビクトリア女王、インド女帝を兼任。 日朝修好条約ニッチョウ シュウコウジョウヤク

明治メイジ10ネン 1877   エドワード・モースによる大森貝塚の発見。       ゲールツにより日本薬局方、草案完成(長与専斎、衛生局長)。最初サイショのコレラ大流行ダイリュウコウ西南戦争セイナンセンソウ   明治メイジ10ネン 1877 トランスバール共和国併合キョ ウワコクヘイゴウ  

明治11年 1878           長與又郎ナガヨマタロウ東 京トウキョウ神 田カンダまれる   明治11年 1878    

明治12年 1879           コレラ流行(患者数162,000、死亡数 105,000) 敬太郎(12歳)の父死去
明治12年 1879    

明治13年 1880           伝染病予防規則(〜1897年/明治30:伝染病予防法)   明治13年 1880 トランスバールでブーアジ ン蜂起ホウ キ  

明治14年 1881               明治14年 1881 プレとリア協定キョウテ イ、ブーアジ ントランスバール共和国主権確立キョウワコクシュケンカクリツ  

明治15年 1882           コレラ流行(患者数51,000、死亡数33,000)   明治15年 1882    

明治16年 1883       小泉親彦オヤヒコ:1884-1945

  コッホ、コレラキン分 離培養ブンリバイヨウ成 功セイコウ発 見ハッケンはフィリッポ・パチー ニ、1854ネン)。   明治16年 1883    

明治17年 1884  

坪井正五郎(1863-1913)、東京大学理学部生物学科に入学し、「じんるいがくのとも」研究会を組織する。   小泉親彦オヤヒコ出生シュッショウ       明治17年 1884   甲申政変

明治18年 1885 清野謙次(1885-1955).岡山オカヤマに て出生シュッショウチチ清野キヨノユウ岡山県立オカヤマケンリツ医学校イガクコウ校長コウチョウノチ大阪府立医学校オオサカフリツイガクコウチョウ             明治18年 1885   天津条約テンシンジョウ ヤク

明治19年 1886   人類学研究会ジンルイガ クケンキュウカイ(坪井正五郎・鳥居龍蔵・小金井良精ら)坪井『人類学報告』刊行
      コレラ流行(患者数155,000、死亡数108,000)   明治19年 1886    

明治20年 1887           後藤新平ゴトウシンペイ国 家衛生原理コッカエイセイゲンリ   明治20年 1887 ビクトリア女王即位50年、大英帝国植民地会議開催  

明治21年 1888               明治21年 1888    

明治22年 1889               明治22年 1889    

明治23年 1890   教育勅語キョウイクチョ クゴ     官吏恩給法カンリオン キュウホウ官吏遺族扶助法カンリイゾクフジョホウ軍人恩 給法グンジンオンキュウホウ高 級官吏コウキュウカンリ軍 人グンジンタイする恩給制度オンキュウセイド確立カクリツ コレラ流行(患者数46,000、死亡数35,000)   明治23年 1890    

明治24年 1891   井上哲次郎イノウエテツ ジロウ『勅語衍義』。久米邦武クメクニタケ「神道ハ祭天の古俗」           明治24年 1891    

明治25年 1892   坪井、理科大学教授(現・東大理学部) 石井四郎(1892-1959).千葉チバケン県 千代田村ケンチヨダムラ加 茂カモまれる     後藤新平ゴトウシンペイ内 務省衛生局長就任ナイムショウエイセイキョクチョウシュウニン。 大日本私立衛生会、伝染病研究所デンセンビョウケン キュウショ設立セ ツリツ 家督相続を放棄、養蚕業に従事。 明治25年 1892    

明治26年 1893   帝国大学令テイコクダイ ガクレイ。坪井、理科大学・人類学講座初代教授。鳥居龍蔵・標本整理係に就職。           明治26年 1893   英国エイコクと の不平等条約フビョウドウジョウヤク改 正カイセイ

明治27年 1894               明治27年 1894   日清戦争ニッシンセンソ ウ(〜95ネ ン台湾割譲タ イワンカツジョウ

明治28年 1895           コレラ大流行(患者数55,000、死亡数40,000) 佐賀県東松浦郡入野村高串に敬太郎、巡査として赴任、同地ドウチでコレラのため死去シキョ 明治28年 1895 トランスバール共和国へ侵攻失敗(セシルローズ首相) 下関条約シモノセキジョ ウヤク台湾領有タ イワンリョウユウ

明治29年 1896   明治29-32 鳥居、台湾に調査         9月瓦葺き堂完成
明治29年 1896    

明治30年 1897   北海道国有未開地処分法」発布       伝染病予防法デンセン ビョウヨボウホウ制定セ イテイ   明治30年 1897    

明治31年 1898         横山源ヨコヤマゲンスケ日本ニホン下層社会カソウシャカイ     明治31年 1898    

明治32年 1899 京都帝国大学医科大学キョ ウトテイコクダイガクイカダイガク開設カイセツドウ附属医院フゾクイイン設置セッチ 「北海道旧土人保護法」公布。内地雑居ナイチザッキョ       伝染病研究所デンセン ビョウケンキュウショ内務省ナイムショウ官立研究所カンリツケンキュウショとなる。フレクスナー来 日ライニチ   明治32年 1899 ブーア(第二次ダイニジ戦 争センソウ 改正条約実施(外国人居留地ガ イコクジンキョリュウチ廃止ハイシ内地雑居ナイチザッキョ

明治33年 1900   伊能嘉矩『台湾蕃人事情』       Rudolf B. Teusler (ルドルフ・トイスラー)米国聖公会宣教師として来日(24歳)   明治33年 1900    

明治34年 1901   臨時台湾旧慣調査会、先住民への調査(→『蕃族調査報告書』全8巻、1913-1921、『蕃族慣習調査報告書』全8巻、 1915-1922)           明治34年 1901 ビクトリア女王ジョウオ ウ死亡シボ ウ  

明治35年 1902           トイスラー聖路加病院の初代院長となる。   明治35年 1902 ブーア人共和国ジンキョ ウワコク英領エ イリョウ直轄植民地チョッ カツショクミンチになる。「アフリカ分割ブンカツ」の完了カンリョウ。J.A.ホブスン『帝 国主義論テイコクシュギロン  

明治36年 1903               明治36年 1903    

明治37年 1904         カシヘイシカン兵卒家族救助令ヘイソツカゾクキュウジョレイ 東京トウキョウ帝 国大学医科大学テイコクダイガクイカダイガク卒 業ソツギョウ山 極ヤマギワ勝 三郎カツサブロウのもとで病 理学ビョウリガク専 攻センコウ   明治37年 1904   日露戦争ニチロセンソウ(〜 05)。第一次日韓協約

明治38年 1905             拝殿増築
明治38年 1905   第二次ダイニジ日 韓協約ニッカンキョウヤク。ポー ツマス講和条約コウワジョウヤク樺 太割譲カラフトカツジョウ

明治39年 1906             増田神社/秋葉神社の鳥居完成(「凱旋記念」) 明治39年 1906   韓国統監府を設置セッチ

明治40年 1907           フライブルグ大学アショフ教授(Ludwig Aschoff,1866-1942)のもとで病理学ビョウリガクマナぶ。   明治40年 1907   第三次日韓協約ダイサン ジニッカンキョウヤク

明治41年 1908               明治41年 1908    

明治42年 1909 京都帝国大学医科大学キョ ウトテイコクダイガクイカダイガク卒業ソツギョウ病理学ビョウリガク専攻センコウ         帰国キコク東 京帝国大学トウキョウテイコクダイガク医 科大学イカダイガクジョ教授キョウジュ   明治42年 1909    

明治43年 1910   柳田国男ヤナギダクニオ遠 野物語トオノモノガタリ』『石 神イシガミ問 答モンドウ       東京帝国大学医科大学ト ウキョウテイコクダイガクイカダイガク教授キョウジュ。第1回極東熱帯医学会(マニラ)開催   明治43年 1910   韓国併合カンコクヘイゴ ウ、朝鮮総督府を設置セッ チ

明治44年 1911         工場法コウジョウホウ制 定セイテイ恩 賜財団オンシザイダン済 生会サイセイカイ発 足ホッソク 野口ノグチ梅 毒バイドクスピロヘータの培 養バイヨウ成 功セイコウ   明治44年 1911    

大正元年タイショウガンネ ン 1912 フライブルグ大学ダイガ クアショフ教授キョ ウジュ(Ludwig Aschoff,1866-1942)のもとで生体染色セイタイセンショクマナぶ(〜1914)。         極東熱帯医学会(第2回ダ イニカイ香港ホ ンコン   大正元年タイショウガン ネン 1912    

大正タイショウネン 1913   柳田国男ヤナギダら 『郷土研究キョウドケンキュウ発刊ハッカン。坪井、ペテルブルグでの国際学会中に客死。     石原修イシハラシュウ女 工ジョコウ結 核ケッカク John D. Rockefeller 父子ロックフェラー財団設立。公衆衛生学校(ハーバードとMITの連合)開校。極東熱帯医学会(第3回ダイサンカイ:サイゴン)   大正タイショウネン 1913    

大正3年 1914   今村鞆『朝鮮風俗集』   軍医学校グンイガッコウ教 官キョウカン   野口英世、帰国(R研究所正所員ケ ンキュショセイショインショイン)。伝染病研究所デンセンビョウケンキュウショ内 務省ナイムショウから文 部省モンブショウ移 管イカン   大正3年 1914    

大正4年 1915     荒木アラキ寅 三郎トラサブロウノチシュウト京都キョウトダイガク帝国大学テイコクダイガクダイダイ総長ソウチョウ就任シュウニン(〜昭和ショウワ4)   工場法コウジョウホウ施 行セコウ 癌研究会理事長ガンケン キュウカイリジチョウ   大正4年 1915    

大正5年 1916 京都帝国大学キョウトテ イコクダイガク医科大学イカダイガク病理学ビョウリガク教室助教授キョウシツジョキョウジュ         12月トイスラー、財団の援助を受けて日米医学交通委員会発足   大正5年 1916    

大正6年 1917 ドイツ、フランスへ留学リュ ウガク       軍事救護法グンジキュウ ゴホウ内務省地方局ナ イムショウチホウキョク救護課キュウゴカ     大正6年 1917    

大正7年 1918               大正7年 1918    

大正8年 1919 京都帝国大学医科大学(同年ド ウネン医科大学イ カダイガク医学部イ ガクブ改称カ イショウ)病理学教室教授。人骨収集ジンコツシュウシュウはじまる       内務省地方局社会シャカ イ 長与又郎、伝染病研究所デ ンセンビョウケンキュウショ所長ショチョウ   大正8年 1919    

大正9年 1920   国際連盟、発足。学位令改正。           大正9年 1920    

大正10年 1921 視察シサツの ため渡欧トオウ微 生物講座教授ビセイブツコウザキョウジュ   京都帝国キョウトテイコ ク大学ダイ ガク医学部卒業イ ガクブソツギョウ陸 軍入隊リクグンニュウタイ二 等軍医ニトウグンイ     国際連盟・衛生機関、発足。第4回極東熱帯医学会(バタビア→ジャカルタの旧名)開催   大正10年 1921    

大正11年 1922 帝国テイコク学 士院賞ガクシインショウ生 体染色セイタイセンショク       内務省社会局ナイムショ ウシャカイキョク発足ホッ ソク健康保険法公布ケ ンコウホケンホウコウフ     大正11年 1922    

大正12年 1923   朝鮮総督府調査資料(1923-1941)に、総督府嘱託として村山智順、善生永助が関与     東京帝国大学トウキョウ テイコクダイガクセツルメント(大震災ダイシンサイにより設立セツリツ)。恩給法オンキュウホウ 2月〜5月、長與ら一行渡米(秦佐八郎ハタサハチロウフクむ)。9月1日関東大震災。聖路加病院消失。トイ スラーの介在により財団のInternational Health Board, Division of Medical Education 震災復興を申し入れる。ダイカイ極東熱帯医学キョクトウネッタイガクカイカイ(シンガポール)   大正12年 1923   関東大震災カントウダイ シンサイ

大正13年 1924 病理学講座教授ビョウリ ガクコウザキョウジュ兼任ケンニン フライブルグ大学アショフ教授(Ludwig Aschoff,1866-1942)来日ライニチ 医学部イガクブ細 菌学サイキンガク衛 生学エイセイガク病 理学ビョウリガク研 究ケンキュウ医 学博士イガクハカセ、〜 1926)     ロックフェラー財団ザイ ダン招聘ショ ウヘイにより、米国ベ イコク出張シュッ チョウ。米国、新移民法(排日条項を含む)を可決。   大正13年 1924   ジュネーブ議定書が第五回国際連盟ダ イゴカイコクサイレンメイ総会ソウカイ採決サイケツされる。

大正14年 1925   柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行
(〜1929)
京都帝国大学キョウトテ イコクダイガク医学部研究班イガクブケンキュウハン大正タイショウ十三13ネン夏季カキ香川県カガワケン地方チホウケル流行性リュウコウセイ脳炎ノウエン研究ケンキュウ」『日新ニッシン医学イガク定期増刊テイキゾウカン4ガツ4ニチ(→清野キヨノケンジケンジ)。ジュネーヴ軍縮条約グンシュクジョウヤクでガス・細 菌戦サイキンセン禁 止キンシ   細井和ホソイワキゾウゾウ女工哀史ジョコウアイシ』、治安維持法チアンイジホウ普通選挙法フツウセンキョホウ 10月第6回極東熱帯医学会(東京)開催[加藤高明首相・総裁、北里柴三郎会長、長與又郎副会長]。国際衛生技術官交換視 察シサツ会議。財団との交渉は中 断。   大正14年 1925   イギリスの未加入ミカ ニュウ宣言セ ンゲンによりジュネーブ議定書ギテイショミハッコウ発効ハッコウとなる。

大正タイショウ15ネン昭和ショウワ元年ガンネン 1926 清野キヨノ宮 本ミヤモト博 人ヒロトツクモクモ石器時代人セッキジダイジンはアイヌニンなりや」(3ペン)『考古学雑誌』コウコガクザッシカッコ 京城帝国大学創設(宗教学教室:赤松智城、社会学教室:秋葉隆)     健康保険法施行(給付は1927年より:cf.国民健康保険コクミンケンコウホケンホホウ1938)     昭和ショウワ元 年ガンネン 1926    

昭和2年ショウワネン 1927 病理学教室ビョウリガク キョウシツ教授キョ ウジュ専任セ ンニンとなる、28ネ ンヒ?)   医学博士イガクハカセ(「ぐ らむ陽性雙球菌ニ就テノ研究」京都帝国大学・医学研究科・医学部(旧制)学位請求:旧制医34)     ダイカイ極東熱帯医学会キョクトウネッタイガクカイ(カルカッタ)   昭和2年ショウワネン 1927    

昭和3年 1928 日本石器時代研究』ニ ホンセッキジダイケンキュウカッコ出版シュッパン石器時代セッキジダイ人骨ジンコツ656レイ古墳人骨コフンジンコツ31レイ 台北帝国大学文政学部・土俗人種学教授・移川子之蔵 ヨーロッパ派遣ハケン(〜 1930)。軍医学校教官グンイガッコウキョウカン     国際連盟衛生会議コクサ イレンメイエイセイカイギ   昭和3年 1928    

昭和4年 1929   岡正雄ら『民俗学』刊行(柳田の脱退を受けて)(〜1933)     救護法キュウゴホウ無 産者ムサンシャ診 療所運動シンリョウショウンドウは じまる。 ロンドン衛生熱帯医学院(London School of Hygine and Tropical Medicine)開校(R財団ザイダンが ロンドン熱帯医学院ネッタイガクイン吸 収キュウシュウ   昭和4年 1929    

昭和5年 1930   霧社事件ジケン台 湾タイワン 陸軍軍医学校教官リクグ ングンイガッコウキョウカン防疫学教室ボウエキガクキョウシツ)、小泉コイズミ親彦オヤヒコ科学兵器カガクヘイキ研究室主任ケンキュウシツシュニン)と知遇チグウをえる。 軍医グンイカンカン   長与又郎、ツツガムシ病原体ビョ ウゲンタイ・リケッチャ・オリエンタリス命名メイメイ。ロックフェラー財団との交渉再開。ダイカイ極東熱帯医学会キョクトウネッタイガクカイ(バンコク)   昭和5年 1930    

昭和6年 1931   日本学術振興会、設置。上海自然科学研究所、発足 細菌戦部隊創設を提唱   労働ロウドウサイガイ者 災害扶助法シャサイガイフジョホウ労 働者災害扶助責任法ロウドウシャサイガイフジョセキニンホウ成 立セイリツ日 本無産者ニホンムサンシャ医 療同盟イリョウドウメイ(〜 1940年代初頭ネンダイショトウま でツヅく)     昭和6年 1931    

昭和7年 1932     兵器本廠付(東郷部隊ト ウゴウブタイ〜1935ネン/300人規模ニンキボ 近衛コノエ師 団シダン軍 医部長グンイブチョウ 時局匡ジキョクキョウキュウ(きょうきゅう)事業ジギョウ開始カイシ     昭和7年 1932   満州国樹立マンシュウコ クジュリツ

昭和8年 1933     軍医学校部員陸軍軍医学校に防疫研究室を創設・主宰する。ハルピン近郊(インブカワ:ペイインホ)に加茂部隊を設置。 Military surgeonにLeon Foxの「細菌戦サイキンセン戦闘セントウにおける病原微生物ビョウゲンビセイブツ使用シヨウ」が掲載ケイサイされ、直後チョクゴ邦訳ホウヤクされる(内容ナイヨウ細菌戦サイキンセン懐疑的カイギテキ)。 軍医学校長グンイガッコ ウチョウ 任意ニンイセイセイド健康保険制度ケンコウホケンセイド要綱案ヨウコウアン内務省社会局ナイムショウシャカイキョク     昭和8年 1933   アラバマシュウメ イコンに おいて「タスキーギ研究ケンキュウ」 はじまる(〜1972ネン)。

昭和9年 1934   日本民族学会(初代理事長:白鳥庫吉、理事:新村出、渋沢敬三、関屋貞三郎、桑田芳蔵、移川子之蔵)   軍医総監グンイソウカンケン陸軍省リクグンショウ医務局長イムキョクチョウ 健康保険法改正法ケンコ ウホケンホウカイセイホウ公布コウフ 長与又郎、東京帝国大学総長ト ウキョウテイコクダイガクソウチョウダイカイ極東熱帯キョクトウネッタイ医学イガクカッカイカイ南京ナンキン:33ネン順延ジュンエン   昭和9年 1934    

昭和10年 1935   民間伝承ミンカンデン ショウ発刊ハッ カン柳田国男ヤ ナギダ還暦記念カ ンレキキネン)。『臺灣高砂族系統所屬の研究』臺北帝國大学土俗・人種學研究室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935
    国民保険制度要綱案コク ミンホケンセイドヨウコウカンヨウコウアン修正シュウセイ社会保険調査会シャカイホケンチョウサカイ     昭和10年 1935    

昭和11年 1936     関東軍防疫部長(平房ヘ イボウ:1000人規模ニンキボ)。北野政次キタノセイジ満州医科大学マンシュウイカダイガク関東軍 司令部カントウグンシレイブ御 用掛ゴヨウカ     長与又郎、帝国学士院会員テ イコクガクシインカイイン   昭和11年 1936    

昭和12年 1937   日本民族学会ニホンミン ゾクガッカ保谷ホ ヤ研究所ケ ンキュウショ博物館ハ クブツカンをもつ。   軍医中将グンイチュウ ジョウ 軍事扶助法グンジフジョ ホウ 保健所法ホケンショホウ施 行セコウ   昭和12年 1937   蘆溝橋事件ロコウキョウ ジケン。12ガ ツ南京ナン キン大虐殺ダ イギャクサツ

昭和13年 1938 京都帝国大学教授キョウ トテイコクダイガクキョウジュ辞職ジショク経典古文書ケイテンコモンジョブンショ窃盗 事件セットウジケン有 罪ユウザイとなり6ヶ 月カゲツ服 役フクエキ)。独 文ドクブンによる生 体染色セイタイセンショク研 究ケンキュウショショ刊行カンコウ 東亜研究所トウアケン キュショ総裁ソ ウサイ近衛文麿コ ノエフミマロ設置セッ チ ハルピン郊外コウガイ平 房ヘイボウ(ピンファン)の部 隊施ブタイシセツケン建 設ケンセツ 予備役ヨビエキ 厚生省設置(体力局タイ リョクキョク筆頭ヒッ トウキョウキョ ク保険院ホ ケンイン外局ガ イキョク)。国家総動員法コッカソウドウインホウ(4/1)、国 民健康保険法公布コクミンケンコウホウコウフ(7/1) 国立公衆衛生院(林春雄院長)発足。ハノイでダイ10カイ極東キョクトウ熱帯医学会ネッタイガッカイ(Far Eastern Association of Tropical Medicine)開催カイサイ(11/25-12/2)   昭和13年 1938   厚生省設置。

昭和14年 1939 京都キョウトに て自宅謹慎ジタクキンシン 東亜研究所トウアケン キュウショ西村朝日太郎ニシムラアサヒタロウ棚瀬タナセジョウジジョウジドウ入所ニュウショ人口問題研究所ジンコウモンダイケンキュウショ設 置セッチ。東京帝国大学理学部人 類学科創設(長谷部言人) 内藤良一ナイトウリョウ イチ、ロックフェラー医学研究所イガクケンキュウショ訪問ホウモン黄熱オウネツウィルスのサンプル提供テイキョウ金銭キンセンにて入手希望ニュウシュキボウ米国務省ベイコクムショウ報告ホウコクされる。ホクシ支那シナ防疫給水部(→1855部 隊)設置ボウエキュウウスイブセッチ北 京ペキン)。チュウシナ支那シナ防疫給水部ボウエキキュウスイブ多摩部隊タマブタイ→1644部隊ブタイ)を設置セッチ南京ナンキン)。南支那防疫給水部ミナミシナボウエキュウスイブ(→8604部 隊ブタイ広 東カントン         昭和14年 1939    

昭和15年 1940 清野キヨノ研 究室ケンキュウシツ閉 鎖ヘイサ 帝国学士院テイコクガク シイン東亜諸民族ト ウアショミンゾクチョウ調査チョウサケンキュウ研究委員会ケンキュウイインカイ設置セッチ岡正雄オカマサオ(ウィーン・日本研究 所主任ニホンケンキュウショシュニン一 時帰国イチジキコクし、民 族研究所ミンゾクケンキュウショ開 設カイセツ奔 走ホンソウ 関東軍防疫給水部長ブ チョウ平房ヘ イボウ2000人規模ニ ンキボ)。「石井式濾水器」を考案コウアンする。       巡査大明神の鳥居完成(皇紀2600年記念) 昭和15年 1940    

昭和16年 1941 上京ジョウキョウ太 平洋協会嘱託タイヘイヨウキョウカイショクタク外 戚ガイセキ平 野ヒラノ義 太郎ヨシタロウ鶴 見祐ツルミユウスケスケ)。731部隊ブタイ顧問コモン ガツ資 源科学諸学会連盟シゲンカガクショガッカイレンメイ設 置セッチヒガシアジアの天然資源テンネンシゲン基礎研究調査振 興キソケンキュウチョウサシンコウ目 的モクテキとして)され、年 末ネンマツ12ガツ文部省モンブショウ資源科学研究所シゲンカガクケンキュショ設置セッチ 731部隊ブタイ陸 軍部隊名リクグンブタイメイ変 更ヘンコウ](8ガツ:300人規模ニンキボ 厚生大臣コウセイダイジ ン第三次ダ イサンジ近衛内閣コ ノエナイカク東条ト ウジョウ内閣ナ イカク)[〜1944] 労働者年金ロウドウシャ ネンキンホケンホウ保険法公布ホケンホウコウフ人口政策ジンコウセイサクカクリツ確立要 綱カクリツヨウコウ閣 議決定カクギケッテイ 長与又郎ナガヨマタロウ東 京帝国大学トウキョウテイコクダイガク退 官タイカン。8ガツ死去シキョ   昭和16年 1941   12ガツ8ニチ真珠湾攻撃シンジュワンコウゲキ。マレーオキカイセン海戦カイセン

昭和17年 1942 清野謙次キヨノケンジ平 野義太郎ヒラノヨシタロウ太 平洋タイヘイヨウ民 族ミンゾク政 治学セイジガク日 本評論社ニホンヒョウロンシャ 国立民族研究所創設計画コ クリツミンゾクケンキュウショソウセツケイカクのために、日本民族学会ニホンミンゾクガッカイ発展解 消ハッテンカイショウし、財 団法人民族学協会ザイダンホウジンミンゾクガクキョウカイ設 立セツリツされる。 軍医学校付。731部隊ブ タイは8ガ ツ北野キ タノ政次セ イジ部隊長ブ タイチョウ就任シュ ウニン南方軍防疫給水部ナンポウグンボウエキュウスイブ(シンガポール)   国民健康保険法コクミン ケンコウホケンホウ健康保険法ケンコウホケンホウ(1926)の大 改正ダイカイセイホホウホウ公布コウフ     昭和17年 1942    

昭和18年 1943 『インドネシアの民族医学ミ ンゾクイガク出版シュッ パン ガツ民 族研究所ミンゾクケンキュウショ設 置セッチ所 長ショチョウ高 田タカダウマ)。日本民族学会が(財)民族学協会に改組。人口 問題研究所に東京帝大卒の人類学者・篠崎信夫入所。海軍・マカッサルカイグン・マカサル_____________銷腆_______賻離_____鎌_鋩 ______軒__跨遍______研究所ケンキュウショ設置セッチ   女子労働ジョシロウド ウ不必要フ ヒツヨウ発言ハ ツゲン       昭和18年 1943    

昭和19年 1944 『日本人種論変遷史』小山書店 東亜諸民族調査研究委員会が解散カ イサン西北セ イホク研究所ケ ンキュショ所長ショ チョウ今西錦司イ マニシキンジ)の設立セ ツリツ   勅撰チョクセン貴 族院キゾクイン議 員ギイン       昭和19年 1944    

昭和20年 1945     3月軍医中将に昇進。5月 第25202部隊(→731部隊ブタイ)長に再度就任。北野キタノ上海派遣軍シャンハイハケングン軍医部長グンイブチョウ就任シュウニン。8月 ソ連軍の侵攻でハルピンを脱出し帰 国する。 割腹自殺カップクジサツ       昭和20年 1945    

昭和21年 1946 日本民族生成論ニホン ミンゾクセイセイロン日本評論社ニホンヒョウロンシャ (財)日本民族学協会、GHQ民間情報教育(CIE)のパッシンによる講演会開催。CIEは、国内における文化人類学民族誌調 査を開始する。 当時トウジ) 新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経営。極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷に当たって戦犯容疑を受けるが訴追を免れる。         昭和21年 1946      

昭和22年 1947               昭和22年 1947      

昭和23年 1948 東大トウダイ緒 方オガタ三郎トモサブロウ助力ジョリョクにより厚生科学研究所 が厚生省により設置され所長コウセイカガクケンキュウショチョウ就 任シュウニン茨 城県イバラキケンカスミガウラ木 原村キハラムラ)。       社会保障制度シャカイホ ショウセイド審議会シ ンギカイ設置セッ チ(〜2001)     昭和23年 1948      

昭和24年 1949 古代人骨コダイジンコ ツ研究ケ ンキュウモ トづく日本人種論ニ ホンジンシュロン岩波書店イワナミショテン出版シュッパン。<清野研究室キヨノケンキュウシツ人類学ジンルイガク論文目録ロンブンモクロク>には本人門下 生ホンニンモンカセイあわせて 227論文ロンブン収 録シュウロク             昭和24年 1949      

昭和25年 1950               昭和25年 1950      

昭和26年 1951   杉浦健一『人類学』の刊行(日本学術会議人類学研究連絡委員会による新制大学教養科目「人類学」教授要項による、戦後の代表的 人類学教科書)           昭和26年 1951      

昭和27年 1952               昭和27年 1952      

昭和28年 1953               昭和28年 1953      

昭和29年 1954               昭和29年 1954      

昭和30年 1955 死去シキョ             昭和30年 1955      

昭和ショウワ31ガンネン 1956 随筆ズイヒツ遺 稿イコウ京 都大学医学部病理学教室キョウトダイガクイガクブビョウリガクキョウシツ             昭和ショウワ31ガンネン 1956      

昭和33年 1957               昭和33年 1957      

昭和34年 1958               昭和34年 1958      

昭和35年 1959     喉頭癌のため死去         昭和35年 1959      

昭和36年 1960               昭和36年 1960      

     


             

リンク
文献