かならずよんで ね!

明石海人(1901-1939)

Akashi KAIJIN (nom de plume), Katsutarou NODA, 1901-1939

池田光穂

そむけたる医師の眼をにくみつつうべなひ難きこころ昂ぶる——『白描』より

野田勝太郎こと明石海人(あかし・かいじん)は「静岡県沼津市出身 の歌人。1901(明治34)年7月5日~1939(昭和14)年6月9日。小学校に勤務しながら作歌を始める。1926(昭和元)年[出典にある1927年は間違い]、ハンセン病の診断 を受け、翌1927年明石楽生病院に入院。[1932年]病院の閉鎖にともない長島愛生園(現瀬戸内市邑久町長島)に入所、園の機関誌「愛生」のほか、「水甕」、「日本歌人」に も作品を発表するようになる。1936(昭和11)年、医官として来園した内田守人の指導によって作歌に精進する。1938(昭和13)年、改造社の『新 万葉集』に11首が掲載され、日本歌壇の脚光を浴びる。1939(昭和14)年に歌集『白描』を改造社より刊行。この歌集は世の絶賛を受け、明石海人の名 を不動のものとした。主要作品に『白描』(改造社 1939年)のほか『海人遺稿』(改造社 1939年)など、全集に『明石海人全歌集』(短歌新聞社  1978年)、『明石海人全集』全2巻(改造社 1941年)、『海人全集』全3巻(皓星社 1993年)がある。長島愛生園に歌碑がある」-「明石海人について」(出典:岡山県立図書館より加筆修正)。

かたゐ等は家さえ名さえむなしけれ白米[ひらよね]の飯を珍[とも]しらに食む——「海人の遺骨消息

海人の異名は、野田勝太郎(本名)、明石大二、無明、晴明、明海音、野田青明。

下記の年譜は、(岡野 2006:年譜)に多くを負っている。誤記などはrosaldoあとcscd.osaka-u.ac.jpにて指摘願います。なお下線部は、サイト内外のリンクへの接続を意味します。

1896 泉鏡花『龍潭譚』 「かたい」=かったい(=乞丐、癩)

「小家こいえあちこち、このあたりに住むは、かたい というものなりとぞ。風俗少しく異なれり。児こどもが親達の家富みたるも好よき衣きぬ着たるはあらず、大抵跣足はだしなり。三味線さみせん弾きて折々わが 門かどに来きたるもの、溝川に鰌どじょうを捕うるもの、附木つけぎ、草履など鬻ひさぎに来るものだちは、皆この児どもが母なり、父なり、祖母などなり。さ るものとはともに遊ぶな、とわが友は常に戒いましめつ。さるに町方の者としいえば、かたいなる児ども尊び敬いて、しばらくもともに遊ばんことを希こいねが うや、親しく、優しく勉めてすなれど、不断は此方こなたより遠ざかりしが、その時は先にあまり淋しくて、友欲しき念の堪えがたかりしその心のまだ失うせざ ると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは拒まずして頷うなずきぬ」泉鏡花『龍潭譚

1901 7月5日 

野田浅次郎と母せいとの間に三 男として生まれる(長男敬太郎、次男義雄、妹政子、生後死亡した弟がいる)。勝太郎(静岡県駿東郡片浜村、現在の沼津市)。浅次郎は商事会社の重役。

1903 前川佐美雄、奈良県南葛城郡忍海村に生まれる。

1907 片浜尋常小学校入学

1909 10月26日伊藤博文(1841-1909)ハルビン駅にて安重根(1879-1910)に暗殺される。癩予防ニ関スル法律[明治40年法律第11号]公布3月18日、施行3月19日。

1913 同小学校卒業、沼津町立商業学校予科1年入学

1914 尾上柴舟(1876-1957)により『水甕』創刊(尾上は自然主義歌論の唱導者のひとり)

1916 折口信夫(1887-1953)万葉集全20巻の口語訳を完成(『口訳万葉集』)。

1918 本科(3年)を経て、同学校卒業。静岡師範学校本科二部入学

1920 静岡師範学校本科二部卒業。小学校本科正 教員免許状を取得。駿東郡原尋常小学校で教諭。夏、長兄敬太郎のいる天津に旅行(勝太郎19歳)。

1924 古郡浅子と結婚(彼女は須津尋常高等小学 校教諭を退職)(荒波  2016:493)/大野悦子、明石楽生病院に勤務(→1932年愛生園に移り未感染児童保育所保母となる)。

1924 勝太郎23歳

長女、瑞穂誕生。「絵画を愛好し、クラシック音楽を聞き、文学、思想にも関心をもつほか、赤いオートバイに乗り、テニスも楽しむ青年教師」(村井 2012:265)。

モダンボーイとしての野田勝太郎の肖像(これは藤原敦が自著の写真集『詩人の島』の表紙に使ったもので言わずもがな藤原の肖像ではない。まぎらわしいので、明石海人ないしは詩人・野田ぐらいキャプションは入れてほしいものだ!)

1926 東京帝国大学医学部、附 属病院にてハンセン病の診断を受ける(海人25歳)。4月退職。同年末、次女和子誕生。

そむけたる医師の眼をにくみつつうべなひ難きこころ昂[たか]ぶる/言もなく昇汞水に手を洗ふ医師のけはいひに眼をあげがたし/看護婦のなぐさめ言も聞きあへぬ忿[いかり]にも似るこの侘[わび]しさを

8月10日内田守人編『檜の影:第1集』九州療養所檜の影会、刊行される

1927 1月東京の治療院に通院。6月、明石楽生病院[=明石叢生病院](明石郡玉津村)に入院。和歌山県那賀郡田村 村打田に借家し、打田の佐野病院に通院。

【明石楽生病院の来歴について】(松村 1981:15-16)

 明石楽生病院(正式名称は「明石叢生病院」)は、松村 (1981: 15-16)によると、もともと第二楽生病院といい、明石郡玉津村字高津橋の所在地からの呼称である。最初の楽生病院は、成立年不祥で、福岡の第一楽生病 院の院長・経営者であった医師・竹内勅(生没年不祥)が、薬草から抽出した「癩の特効薬」を発見し、当時の「主婦之友」誌において14ページにわたり掲載 されたことからうまれたようである。このことに興味をもった、賀川豊彦、尼崎の実業家である福島玉吉※(→「社団法人明石叢生病院設立許可申請書」1927年/『近現代日本ハンセン病問題資料集成 : 編集復刻版. 補巻6』 に収載)、神戸の蒲鉾製造業者・魚住伊蔵(松村の記述では「定市」)淡路の素封家・国木田洋介ら(申請書には「坂田教逸、□[脱字]田善作、千歳守一」が見られ る)が、(竹内に)薬剤使用権2万5千円を支払い、定員百名の病院を開いた。しかし、偏見をもった村民により50アールの敷地の周囲に2.5メートルの板 塀をはりめぐらした。やがて出資者3名(魚住・国木田・もう一人)は昭和4(1929)年に撤退し、福島のみが財団法人化や宗教家への援助を模索したが、 昭和7(1932)年11月24日病院閉鎖に至った。大野悦子は、患者39名とともに3回にわけて長島愛生園に出発する。その後、病院は放火され、福島は 破産した。この他にも奈良に第三楽生病院、大阪に第四楽生病院を建てたが、周辺住民の焼き打ちなどで撤退を余儀なくされた。

「明石楽生病院の方は、従来の営利目的の病院から賀川豊彦(1888-1960)等 の援助を得て「社団法人明石叢生病院」と改称して、「治療及救済」を目的とする病院への転換を試みたが、頓挫し、やがて経営難が深刻化していく。賀川豊彦 の「東雲は瞬く」(「主婦之友」に12回連載:1930.8̃1931.7)は、明石楽生病院への財政支援が目的の執筆であったとされる。また同時期に、 「社団法人明石叢生病院」の申請人(賀川豊彦・魚住伊蔵ら)を中心に神戸MTL協会が設立(1930年5月頃:詳細不明)13)されており、同じ意図で組 織されたものと判断できる」。(平田 2011:29)/平田勝政「日本ハンセン病社会事業史研究(第3報):治療解放主義の系譜(楽生病院)の検討」『長崎大学教育学部紀要、教育科学』 75:25-34,2011. http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/25060

※明治40(1907)年山陽サイクル商会で興業主の新聞広告がある。また、本名を、大友惣兵衛ともいう。

※『日本MTL』は1926年に創刊された日本救癩 協会の機関紙。同協会は「ハンセン病患者とその家族を支援するキリスト教団体であるが、同時に国の強制隔離政策を是とし、皇室の恩寵策と強調して啓発活動 をおこなった」。機関紙『日本MTL』は「朝鮮・台湾の植民地や統治領だけでなく、中国・フィリピンなどアジア各地やハワイのハンセン病に関する情報にも 富み、多くの貴重な報告が掲載されている」(→出典『近現代日本ハンセン病問題資料集成 補巻』)。 賀川は1927年『雲の柱』6 巻 3 号に「社会問題と して見たる癩病絶滅運動」というタイトルで、「私が何故癩病問題を喧しく云うかと云えば、それは 国民の社会的能率を上げる為に云ふのである。日本 MTL の使命は、日本人である我々が同じ日本 人である癩病患者を、少しでも愛し様と云う」ことにあると説明する文章を記している」(厚労省 :436)

1928 勝太郎27歳

次女和子腸炎にて死亡(のちに亡児として回顧のなかに登場)。粉河で妻と過ごす、(その後?)静岡に帰郷、浅子 との離別(別居?)を告げる[1930年までに少なくとも2信を認める(内田 1956:41-55)]。明石楽生病院に再入院。浅子、美容師として自立を決意。

次女和子腸炎にて死亡(1928年)ほぼ10年後 に、次の一首「(紀州粉河の近在に独居して病を養ふうち、たまたま子の訃に接す。事[=葬儀のこと]過ぎて既に旬日の後なり)世の常の父子[おやこ]なりせばこころゆく嘆きあらむかかる際にも」(『新万葉 集』に収載)

1929 

明石楽生病院に再入院。晩夏か初秋に4,5日帰郷。1929年無癩県運動がはじまると光田健輔『回春病室』に記載している。他方、1930年に山口県からはじまるという記載や、1934年に愛知県方面委員が愛生園を訪問、それを嚆矢とするものがある。

12月10日内田守人編『檜の影:第2集』九州療養所檜の影会、刊行される

1930 

明石楽生病院を出て、加古川に泉陽子と同 棲がはじまる。映画館の看板描きの仕事に従事。この頃、病状悪化。山口県で無癩県運動らしきものがはじまる。

9月『プロレタリア短歌集』短歌前衛社編、マルクス書房.(1930Proletarier_jap_poetics.pdf

1930 

光田健輔らが率先して全生病院の患者を動員して長島を開拓、国立療養所長島愛生園を設立する。林文雄(1900-1947)が、愛生園・医務課長として赴任(→『長島開拓』1932年)。

前川佐美雄、第一歌集『植物祭』(当時前川、ダダイズムシュールレアリスム、マルクス主義、プロレタリア歌人同盟などの影響のもとで『短歌前衛』などに出詠する。参照:短歌前衛社『プロレタリア短歌集』マルクス書房, 1930.)

1931 

1月、前川佐美雄、石川信夫、斎藤史らと『短歌作品』創刊(昭和7=1932年8月まで8冊が刊行?、後継誌『カメレオン』)。

浅子が加古川を訪ね、泉の存在を知り、陽 子は出奔する。病状悪化、三度目の明石楽生病院に入院。『愛生』創刊。

待ついもの便りはなくていたずらに蝉の音[ね]しげく今日も暮れゆく/故里[ふるさと]はともはるけし見はるかすこの野のはては雲のみ白し——海人の初期の歌(内田 1956:40)

4月、「明治40年法律第11号」が、昭和6年4月2日(法律第58号)「癩予防法」 と改題される。この時、国立癩療養所患者懲戒検束規定が制定されて、収容ハンセン病療養者への管理や身体拘禁などの制御が強化される。それに呼応して、ハ ンセン病患者の収容政策も各都道府県の自発的な参画もあり「無癩県運動」が、実質的な国民運動として本格化するように思われる。

9月 満州事変

10月 改造社『短歌研究』の発行をはじめる(同誌は同社の解散命令により1944年11月から新しい巻号で短歌研究社の雑誌に代わる)

1932(昭和7年:32歳) 

1932年8月「青明」名で、短 歌六百首、俳句百九十五句、小文ノートの存在(『稿(一)』神谷文庫)(村井 2012:295-296)。

10月 不明の熱により錯乱。

11月10日大宮御所歌会「癩患者を慰めて」貞明皇后節子[1884-1951]・御製歌「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」

11月24日 明石楽生病院の閉鎖。(海人は人事不省のまま)他の病者二〇余名と共に、長島愛生園へ11月移動。この移動は、大野悦子(1890-1960)「第二の母、この人」の功績が大きい。

楽生病院以来病める我らの第二の母として喜びも悲しみをも頒[わか]ち給ふ人に——いつの日かわが臨終は見給はむ母となのみつつこの人に頼[よ]る

 幻視、幻聴、追跡妄想にかられる。野田青明で作歌がはじまる

1933 『日本詩壇(Le Monde poétique japonais)』創刊(4月創刊)——海人も寄稿

3月中旬 妻・浅子、面会に来る。

5月精神異常全快。

12月父「野田浅次郎」死去。次兄・義雄が来園。

11月 前川佐美雄、短歌誌『カメレオン』(1巻4号)を編集、翌1934年6月の『日本歌人』創刊のきっかけになる。

山中にて自殺未遂(?)。

12月23日 B・C・オールズ牧師(「O牧師」B.C. Olds ?)により受洗(内田 1956:60-61)。同日は、継宮(つぐのみや)明仁生誕。「本日午前6時39分、親王殿下御生誕との事、まことにおめでたい。我は父を失ひ、国は世嗣を得る、悲喜交々。」

1934(昭和9年:34歳)

野田青明、明石大三、明石晴明、明石海人で、作歌。 /島木健作『』(岡野 2006:年譜)

「私が歌を習いはじめたのは昭和9年頃で、当時視力 は大分衰えていたが注釈を頼りに万葉集などに読耽った。園内には長島短歌会と云う同好会の団体がった、之によって作歌の便宜と刺激を受けたことが尠くな い。昭和10年1月水甕に入社させて頂き、同じく8月日本歌人に轉じた」(明石 1939:「作者の言葉」1)

2月 林文雄(1900-1947)医官、帰朝大歓迎会。眼科医・大西富美子は当時、海人の角膜炎の手術を担当する(「失明」)。大西は1936年2月に林と結婚し林姓を名乗る。林富美子は文雄の死亡後の1951年に復生病院に赴任する。

3月 野田青明「追悼歌」他3首

1934年3月27日 日記「改名する、明石大三、雅号、無明。明石は地名より、大三は丈高き三男坊の意」(内田 1956:62-63)

6月 野田青明、林医官歓迎会に1首。前川佐美雄『日本歌人創刊(前川の編集は昭和16=41年8月まで通巻84号まで続く)。

1934年6月1日 M. Akashi のサイン(村井 2012)。『海人遺稿』(1939)ならびに内田『日の本の癩者…』等の口絵に登場。

7,9,12月 アララギの杉鮫太郎来園にて短歌会開催。

「追悼 杉鮫太郎先生(その1)」(資料1)の 「杉先生を偲ぶ 青山幸子」には、「本名は湯浅敏夫」とある。さらに、「略歴」には、「明治四十一年・美作落合町の杉家で、厳格な警察官の父湯浅立太郎、 母いなよの長男(本名・敏夫)として生まれる。父の度々の転勤で岡山市弘西小学校から二中、津山中、父が成羽の署長の時は高梁中へ。」、「昭和三年・岡山 県警察部通信の職につく。短歌に興味、アララギの斎藤茂吉先生の短歌を書写。この年、岡大で斎藤茂吉、中村憲吉両先生の講演を聴講、アララギへ入会。」、 「昭和四十二年・三十八年間の警察庁技官の職を引退。その後は後楽園古陶館に勤務。」、「昭和五十五年・勲五等双光旭日章受賞。金重陶陽賞受章。」、「平 成六年十月十九年・八十七歳で死去」とある。/また、「略歴」から主な著作を抜粋すると、斉藤茂吉との共著の『平賀元義歌集』(1938)、『平賀元義の 歌』(1944)、歌集『哉生明』(1949)、宗定克則との共著の『岡山後楽園』(1966)、『岡山の鳥』(1969)、藤原幾多との共著の『岡山の 短歌』(1971)のほか、歌集『飛鳥出林』、歌集『路上黄昏』などがある」 -  「追悼 杉鮫太郎先生 その1」『おかやま同郷』Vol.29,No.2,1995.1,p.10-13.出典:https://goo.gl/wwzFLw

7月 「恩賜の楓」3首

8月 明石海人14首

9月 室戸台風で大被害。外島保養院罹災者到着

1934年9月(日付不明:1st?)のD.AKASHI —明石大三—のサインがある(村井 2012)。

1934年9月26日 D. Akashi —明石大三—のサインがある(村井 2012)。

10月 朝日新聞社トーキーニュース班来園。眼疾の進行に備え先人の歌集を大きく墨書する。/明石晴明「新宮氏の舞踊」「病友荒井氏逝く」他17首。野田青明「虫」2首。

11月 明石海人「外島療養所遭難者追悼会」他22首

1935 

歌人として療養所内外に知られるようにな る。『日本歌人』(1934年6月に前川佐美雄が創刊)に1935年5月に入会。 評論「短歌に於ける美の拡大」を連載。同時に皇太后への一連の歌を愛生園への儀式の折りに作歌。投稿したのは『愛生』『水甕』『日本詩壇』『日本歌人』。この年、朝鮮癩予防令(政令第4号)

1月 杉本浩一来園(詩謡研究会)。水甕に入社。

2月 『短歌研究』昭和10年2月号に窪田空穂選で、4首が推薦される。

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし[1935]——目白四郎名で『短歌研究』に投稿、窪田空穂選(内田 1956:65)

そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる[1935]——目白四郎名で『短歌研究』に投稿、窪田空穂選(内田 1956:65)

3月 杉鮫太郎来園(長島短歌会)

5月 『日本歌人』入社。(翌6月号から1939(昭19)年1月号までほとんど休詠せず387首を投稿)

6月 礼拝堂には大塚かね子夫人(83歳)歓迎会

7月 大森佳一内務政務次官、多久安信岡山県知事来援、B・C・オールズ牧師帰米送別会

8月 水甕から日本歌人に「転じる」(明石 1939:「作者の言葉」1)——実際の掲載が始まったのは6月。

11月「恵の鐘」撞き初め式

12月 杉鮫太郎来園(長島短歌会)

1936 秋、完全失明。長島愛生園における患者 長期ストライキ「長島事件

内田は愛生園で「肉眼が駄目になった人は心眼を磨け」と口にしていたという。海人もまた「女々しく」なかったと(内田 1956:69)。

8月12日 長島愛生園における患者 長期ストライキと自治闘争である「長島事件」がはじまる。

「屈強な二十数名の一団は、前々日早朝、日出地帯 から新良田地区に通じる一朗道の道路掘削作業中、突然職員に抜き打ちで出勤者の総点検を行なわれた者たちである。/彼らはこの作業総点検は作業主任の捺印 を信用しない、奴隷的な扱いであると憤慨した。/これをきっかけに、土木部に従事していた者を中心に、日頃、職員の横暴極まる態度に不満を持っていた者た ちが自然発生的に集まり、徒党を組んで気勢を挙げながら園内を巡回していたのである。/これがいわゆる長島事件のはじまり」http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/kaga23.htm

「昭和11(1936)年12月1日、「自助会」は発足したが、昭和16(1941)年4月一日、わずか3年5ヶ月で、国家総動員法による国家統制の煽りを食って、患者が血涙を絞って戦い取った「自助会」も施設に返還することとなった」同上。

1936 海人35歳

1月 内田守(守人)——水甕同人——九州療養所より長島愛生園に赴任。

首あげて盲の我のうちまもるおん顔と思う声のあたりを——海人。下村海南は自分が短歌会に参加した折に自分に詠まれた歌と解説しているが、うちまもるは、内田守に掛けているようにおもわれる(下村海南「序」内田守人『日の本の癩者に生まれて』1956年)

2月26日〜29日 2.26事件


7月12日 2.26事件第一処断(処刑)[判決は〜7月5日まで]

「叛乱罪死刑宣告十五名日出ずる國の今朝 のニュースだ」「死をもつて行ふものを易々と功利の輩があげつらひする」——明石海人(『日本歌人』1936年9月号に収載されたもので、これにより発 禁)

海人は1935年、前川佐美雄が創刊した同名の、短歌結社「日本歌人」に入会する。前川は、上掲2首の発禁の際に、当局から海人のことを聞かれ、不案内で、その時にはじめて、海人が癩者 であることを本人から知らされることになる。(村井 2012:304)

他方で斎藤瀏(Ryu Saito, 1879-1953: 226事件に関与し陸軍衛戍刑務所で禁固刑5年に処せられた)を歌人として評価し(佐美雄『植物祭』を好評)、また斎藤の娘・史(1909-2002)も同人で、史(閨秀[=女流作家のこと]史)の同年頃の青年将校——坂井直——の処刑という事実と関係しているかも、 というのが村井紀の推理(村井は坂井の名を記載せず)。

斉藤瀏の自宅は2.26事件の起こる前から電話傍 受されており、その記録が1987年2月26日のNHK特集「戒厳指令…交信ヲ傍受セヨ:二・二六事件秘録」で放送された。斉藤もそのことを自覚しており 「斎藤は戦後に著した回想録『二・二六』のなかで、事件の間、何者かに自宅電話を傍受されているのではないかという疑念と共に、軍の諜報機関などによると 思われる、要領を得ない謀略めいた電話が度々かかってきたことを記している。後者の疑念も匂坂資料及び傍受に当たった当時の関係者の証言により事実である ことが判明し、斎藤への電話傍受は事件前から始められていたこと、事件後の斎藤自身が傍受を警戒してかほとんど自分からは電話をかけていなかったことも分 かった」という(中田整一『盗聴二・二六事件』文藝春秋、2010年)。

栗原安秀(1908-1936)7月12日に処刑さる。「斎藤瀏とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直もこの頃の幼馴染である。大きくなっても、斎藤史からは「クリコ」と呼ばれていた」栗原安秀)。辞世歌「わが道やここに在りきとかへりみむ三十に足らぬ一生(よ)をあはれ/天皇陛下萬歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ/ひきがねを引かるるまでの時の間は音ぞ絶えたるそのときの間や」

栗原は、中央マント姿

※※坂井直(1910-1936)7月12日に処刑さる。

涙こそ清らにそそがれ死にゆけり若き命にしばしかたむく——前川佐美雄『大和』より

海人は、前川に自分は「癩者」という「廃人」なので、同誌が咎を受けるのなら、それは自分が受けるべきと私信を認める(村井 2012:304-305)。海人は「大変僕に対しての気の毒がり、若[も]し何かの処罰があるのであるなら廃人である自分にそれを負わしめられたい」と書く——これは前川の弁。

市井の人は2.26事件をどう読んだか。山本三生編輯『二・二六事件』(改造 ; 8月号別冊附録)、改造社、1936年8月、159pp.

1月 光田園長還暦祝賀会。医官内田守(1900-1982)着任。海人、激しい眼神経病による苦痛。

2月 三浦環(1884-1946)、来園独唱会開催。2月26-29日二・二六事件北条民雄(1914-1937)『文學界』1936年2月号に「いのちの初夜」を発表。第二回文學界賞を受賞。

3月 藤本浩一ら日本歌人同人「詩の講座」開く

4月 『日本詩壇』の全国詩人住所録に明石海人の名が載る。

5月 下村海南(下村宏, 1875-1957)来園

「歌人としては1915年に佐佐木信綱主宰の竹柏 会に入会し、竹柏会の「心の花」に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。1921年、兵庫県西宮市の苦楽園に邸宅を構え「海南荘」と称して 約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した」(下村宏, 1875-1957)。

7月 二・二六事件、裁判第1次処断(〜7月5日)。15名の処刑(7月12日)

8月 長島事件起こる

9月 『日本歌人』合評歌選者に選ばれる/同年、秋『日本歌人』発禁(前川佐美雄、海人がはじめてハンセン病であることを知る)/失明

秋? 失明した海人のために上田敏全集を田中文雄(本名:鈴木重雄, 1911-1979)が代わりに朗読(→『愛生』平成17[2005]年2月号。):文献:松岡弘之「ハンセン病回復者の社会復帰と宮城県本吉郡唐桑町」荒武賢一朗編『東北からみえる近世・近現代-さまざまな視点から豊かな歴史像へ-』(岩田書院、2016年)所収(出典はこちら

12月 北条民雄『いのちの初夜』創元社より刊行(355pp.)。

1937 (病状悪化だが、旺盛な歌作の時期)

1月 杉鮫太郎来園(長島短歌会)

2月 渡辺はま子(1910-1999)独唱会(1936年「忘れちゃいやヨ」で内務省からレコード販売禁止の統制指令を受けている)。この4月、彼女は国民歌謡の「愛国の花」でヒット。

3月 水甕社主幹の松田常憲(まつだ・つねのり,1895-1958)が来園。

4月 B・C・オールズ牧師夫妻が(再)来園

5月 恩賜寮が完成

8月 日本詩壇の同人・藤本浩一が来園。安田青風の歓迎。改造社『文芸』誌上に、ポエジイ短歌8首が掲載——前川による推薦と言われる。

12月 山本三生編纂代表『新萬葉集』全11巻、改造社、の刊行はじまる(〜1939年6月)[三生は、改造社社長=山本実彦(1885-1952)のペンネームか?]。愛生園合同歌集『楓蔭集』内田守人編、長崎書房発行に、海人寄稿(長歌1首、短歌82首)。田河水泡『のらくろ總攻撃』大日本雄辯會講談社、1937年12月.

1938 (病状悪化だが、旺盛な歌作の時期)。改造社の『新 万葉集』に11首(応募制限一人20首)が掲載される——11首は(内田 1956:70-72)に収載。

1月 改造社の『新 万葉集』に11首が掲載。この「事件」により、癩歌人(ハンセン病歌人)というものが、非癩者の評論家や歌人たちに初めて発見されるのだ(→「ハンセン病文学とコロニアリズム想像力について」)。

釈迢空「今迄にない部類は疾病である。……明治時代の文学史家は、日本の短歌に悲観分子が多いと云って常に非難したものである。『新万葉集』を後世見て、疾患の多いことを社会の不健康に結びつけて論難する人があらうとも思われる。其の為に予め弁じて置く必要がある。今迄は病人でも四季諷詠、恋歌、詠歎の歌を詠んですましてゐたのだ。自分の生活外に風流韻事を置いて考へて居たのが[ママ]、病人は病気の生活の中にはけ口を見出した訳である。唯肺病の歌に割合に溺れてゐるものが多いのに、癩患者の方に真実を掴んで、其過不足のない表現で示してゐる人の多いのは思ひがけない事であった」(内田 1956:73-74)。

11月 呼吸困難のために気管切開、発声困難となる(執刀医は内田守)(岡野 2006:48-52)。小川正子『小島の春』長崎書店より刊行(略装普及版/並装版/特装版:282pp.)

1939 

海人は、あくまでも『日本歌人』に初出された「ポエ ジイ短歌」の「第二部・翳」を『白描』に収載することを考えており、跋文にあたる「作者の言葉」にも「前川佐美雄氏は癩者の私を人間として認めてくれたの みならず、何時も劬[いたわ]り励まして下すつた暖かい御気持には感謝の言葉がない」(明石 1939:[作者の言葉] 1)とある。他方、内田は、作風を『新万葉集』の定型律のみにしたかったらしい(内田 1956:76)

2月20日『新万葉集と癩者の歌』内田守人編、癩予防協会(新万葉集入選の療養歌人のアンソロジー)に収載

2月23日歌集『白描』改造社発行 最終的に2万5千部のベストセラー※25万5千部という記載があるがこれは誤りであろうと思われる。『日本歌壇』1939年9月号では刊行8千部との記載(吉川則比古「明石海人を憶ふ」『海人全集』別巻、234頁している。なお、池田の推測だが、4刷換算すれば、 3万2千部なので『海人全集』説の2万5千部が穏当ではある。その根拠として白描には改訂版等の増刷の痕跡がない。ただし25万部の否定する情報にはなら ず。内田は素直に「『白描』は2万5千部ぐらい売れた」と記載している(内田 1956:88))。

後に、河上徹太郎は「広く文壇を通じて近来の絶品」、下村海南は「経典である」と絶賛。/厚生省主催「癩文芸座談 会」 が銀座ニューグランドで開催され、光田と内田が出席する。主催は、日本癩予防協会(1931年設立)と長崎次郎書店主(岡野 2006:57-58)(内田 1956:86)。

3月 日本詩壇の同人・藤本浩一が来園/3月27日患者収容八周年記念式典(礼拝堂)にて『白描』の献本式(=光田に献じられる)開催。海人は出席できず代理の入所者松岡がおこなう。「癩者吾が命をかけし歌書をまづ園長(そのおさ)に大人に捧げむ」海人。

4月 腸結核、発病。小川正子『小島の春』(1938)長崎書店、改版・普及版出版(図版が加わったようだ)

5月 河上徹太郎、『新女苑』において『白描』を絶賛。『婦人界』記者来園。

「5月の始めに「白描」の印税が届いた。めったに嬉しい顔もしない彼も流石に満足の様であった。 「先ず故郷の母に遣って不幸ばかり續けてきた萬分の一を償ひたい。又病友の短歌会の為に少し有効に使ひたい」と云った。「海人賞」は斯[か]くて制定せら れて彼の息吹が永久に此の長島の地に呼吸する様になったのは感謝にたえない」内田守、跋(其の二、p.14, 『海人遺稿』1939年))

6月9日 午後10時45分、腸結核 にて水星病舎2階1号室にて死亡。最期を診たのは大野悦子と難波医官(→「海人の遺骨消息」)。解剖したのは、出張中の内田に代わり光田健輔。後日、光田が内田にその脳髄が重かった(「1490グラム」)と表現(→『海人遺稿』光田健輔「跋」p.3;「海人の遺骨消息」「解剖をめぐる二群の短歌」)。

8月『海人遺稿』改造社(315pp.)。kaijin_manuscript_posthumus1939.pdf with password

1941

1月/3月『明石海人全集』上下巻、改造社[皓星社、1993]、刊行。 /小田切秀雄『万葉の伝統』(海人ならびに小川正子への言及がある——戦後の決定版[1968]では小田切は海人への賛美を抹消)(村井 2012:286)

1941 『日本歌人』の発禁と廃刊(1941年8 月)

1942 

長島、楓の森に歌碑建立(美めぐみは言は ましかしこ日の本の癩者に生れて我悔ゆるなし)。

12月。坂口安吾、『白描』を評して「激しさに惹かれざるを得ぬ」と評論「青春論」で表現する(村井 2012:267)(→坂口安吾『堕落論』1947、銀座出版社)

1945 8月21日「小鹿島虐殺事件」(犠牲者83名)。同年、8月24日 日本人職員撤収。

1950 光田健輔、朝日賞(朝日社会奉仕賞)受 賞。浅子が光田を訪問し、瑞穂が医師になったことを光田に告げる。

1956 7月、内田守『日の本の癩者に生れて:白描の歌 人明石海人』第二書房(209pp.)

「尚本書中には私は「ハンゼン氏病」と書いたが「ラ イ」と言ふ言葉は病者から嫌悪されているし、現代の本病はプロミンの出現で全快度が高められ、又公民権が与えられたり、病者自身の文化的向上も著しく、昔 日の病者より全く脱皮したものと言へるので、名称も改めて新しい観点に立ちたいと言ふのである」(内田 1956:209)。

1980 松村好之『慟哭の歌人:明石海人とその周辺』小峰書店

1991 沼津「明石海人を偲ぶ会」(川口和子・沼津牧水会理事)と、牧水会理事長・林茂樹により長島より碑石を取り寄せた歌碑建設の計画が立ち上がるが遺族の同意なく頓挫

1993 岡野久代「明石海人年譜」『海人全集 別巻』皓星社

2001 7月5日明石海人顕彰会と沼津商業高校同窓会により、沼津市内に四基の歌碑の建立。

2002 9月、皓星社『ハンセン病文学全集』の刊行をはじめる(2010年7月完結10冊「短歌」編は第8巻大岡信責任編集)。

2006 岡野久代『歌人明石海人——海光のかなたへ』静岡新聞社

2011 荒井裕樹『隔離の文学 : ハンセン病療養所の自己表現史』書肆アルス

2016 荒波力『幾夜の底より:評伝・明石海人』 白水社

『白描』1939年改造社版( pdf with password)

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その他の情報

終戦までのハンセン 病患者の「臣民」化における短歌と医療の関係をめぐって松岡秀明

■明石海人ギャラリー

藤原敦写真集『詩人の島』2015年

蒼穹舍; 初版 (2015), ISBN-13: 978-4904120477:

 「戦前のハンセン病患者であり伝説の歌人、明石海人(1901-1939)の歌に心うたれ、日本最古の国立ハンセン病療養所がある岡山県の長島を度々訪れ 撮影した、『南国頌』『蝶の見た夢』に続く藤原敦の3冊目の写真集。 『私が初めてこの島を訪れたのは、8歳の子供の頃だった。 私は島の手付かずの自然に感動するとともに、島の住人(患者)たちの悲しい現実に小さな胸を痛めたことを今でも覚えている。 その35年後、写真家となった私は再びこの島の地を踏み、ある歌と偶然出会ったのだ。 ―深海に生きる魚族のように 自らが燃えなければ何処にも光はない― 明石海人 私は島の建物や風景の中から、慟哭の歌人(患者)たちの痕跡や 気配を探しながら歩いたのだった。』」 (あとがきより一部抜粋)
松村 好之, 慟哭の歌人―明石海人とその周辺 (1980年)小峯書店 (1980/06)
W570

明石海人の歌集『白描』の歌と歌意(松田範祐)
明石海人顕彰会(か?)
http://web.thn.jp/kaijin/kai/kai01.htm
松田範祐(まつだ・のりよし)昭和15年8月2日、サイパン島にて生まれる。慶応義塾大学卒業。現在(当時?)母校の関西高等学校教諭。日本児童文学者協会会員・龍和歌会同人児童文学会「松ぼっくり」同人。ファンタジー小説・童話の出版5作品
http://web.thn.jp/kaijin/kai/kai02.htm
明石海人顕彰の活動雑記

http://web.thn.jp/kaijin/kensyou/kens04.htm
明石海人顕彰事業

http://web.thn.jp/kaijin/kensyou/kens01.htm
明石海人顕彰会

http://park6.wakwak.com/~kaijinkenshoukai/index.html
松村好之『逆境に耳ひらき』小峯書店、1981年


海人の自画像。M.Akashi, 1st, Jun. 1934とある。

(判読不能1st?)Sep. 1934 D. Akashi, のサインのある。鳥と草花の絵(明石大三)
1934年3月27日 日記「改名する、明石大三、雅号、無明。明石は地名より、大三は丈高き三男坊の意」(内田 1956:62-63)

1934年9月26日 D. Akashiのサインがある。(明石大三)

・明石海人『白描』改造社、1939年
・村井紀(むらい・おさむ)『明石海人歌集』岩波文庫、岩波書店、2012年

前川佐美雄も初期にはかかわっていたと思われる、プロレタリア短歌運動の現存する数少ないテキスト。短歌前衛社『プロレタリア短歌集』マルクス書房, 1930
1930Proletarier_jap_poetics.pdf

改造社の現在の社屋——グーグルストリートビューより

改造社のビル(1986(昭和61)年5月11日当時)もともと、瓦葺の装飾が施されていたようだ。出典は:「ぼくの近代建築コレクション(改造社ビル/銀座5丁目)

Norakuro in all-out attack, 1937 『の らくろ総攻撃』が公刊された1937年の1月末に、前の朝鮮総督であった宇垣一成(うがき・ かずしげ、1868-1956)——この陸軍軍人はシベリア出兵(1918-22)の策定をおこない、陸軍の軍事装備の近代化に貢献しましたが、当時は穏 健なグループ(「陸軍統制派」)の長老になっていました——を首班とする組閣工作が失敗しました。(「のらくろ帝国主義」より)


晩年の集合写真(右端)

荒 波力『幾世の底より:評伝・明石海人』白水社、2016年。同書の帯紙には「ハンセン病と闘いながら生きる希望と家族への愛を歌い続けた幻の大歌人」とあ る。「昭和13年、改造社が『新萬葉集』を刊行する際、全国から募った短歌の中に、齋藤茂吉、釈迢空、与謝野晶子ら審査員をひときわ驚かせる作品があり、 うち11首が収録され、全く無名の歌人が彗星のごとく世に躍り出た。/それらの作品は、国立らい療養所・長島愛生園で療養しているハンセン病患者からのも のだった。のちにベストセラーとなる歌集『白描』の作者、明石海人である。/当時彼はすでに失明しており、作品は口述筆記での応募だったが、『新萬葉集』 刊行後、彼の歌を絶賛する評論が相次ぎ、「現代の万葉調」随一の作者だという世評も高まっていった。しかしその2年後、幻の大歌人はわずか37年[ママ] の生涯を閉じることになったのである。/本書は前作『知の巨人 評伝生田長江』に続き、ハンセン病作家への並々ならぬ畏敬の念を抱く著者が、酷い差別偏見にさらされ、過酷な宿命に翻弄されながら、生きる希望と家族への 愛を歌い続けた歌人の生涯を、地を這うような取材を基に浮かび上がらせた、渾身の力作である。/表題は代表作の一つ「さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世 の底より鐘の鳴りくる」から。」

明石海人と言えば、晩年のこの写真がよく使われるが、これは上掲の、晩年の集合写真(右端)のものをトリミングしたものである。

明石海人歌碑「恵の日に 明石海人 美めぐみは言はまくかしこ日ひの本もとの癩者に生[あ]れて我悔ゆるなし 昭和辛巳 六郎書」出典:明石海人歌碑.(昭和辛巳は昭和16年=1941年である書の「六郎」は不詳)——長島愛生園

ツィッターのハッシュタグ「#明石海人」思い出したように投稿がある


沼津にある野田家の墓、側面に「野田勝太郎」の文字が見える。この墓地は、一度墓地改装されて整備後、現在の場所にある可能性がある。


伊東市にある、木下杢太郎記念館。木下の本名は太田正雄(1885-1945)詩人、芸術家、東北帝国大学ならびに東京帝国大学医学部教授(皮膚科学)。


白描、初版本の表紙。文字は金(あるいは白金)色で押込印字である
+++
癩は天刑である
 加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない ―

   そう感じ得たのは病がすでに膏盲(こうこう)に入ってからであった。
 齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。
 人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
 癩はまた天啓でもあった


現在の長島愛生園の地図(「長島愛生園『歴史回廊』」より:2017年夏訪問時にいただいたもの)

医師の眼の穏(おだ)しきを追ふ窓の空消え光りつつ花の散り交ふ


そむけたる医師の眼をにくみつつうべなひ難きこころ昂ぶる


言(こと)もなく昇汞水に手を洗ふ医師のけはひに眼をあげがたし


看護婦のなぐさめ言も聞きあへぬ忿(いかり)にも似るこの侘しさを


診断をうべなひがたくまかりつつ扉に白き把子(ノッブ)をば忌む
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたゐ)に堕(お)ちし身の影をぞ踏む

春ならば襖ひらきて通夜の座に白木蓮(はくれん)しづく闇を添ふべし


髯を剃りシャボンをつかひ背を流すなべて他界の記憶のごとし


かたはらに白きけものの睡る夜のゆめに入り来てしら萩みだる


涯もなき青空をおほふはてもなき闇がりを彫(ゑ)りて星々の棲む


飛び込めば青き斜面は消え失せてま下にひろがる屋根のなき街


圓心の一點しろく盲(めし)ひつつ狂はむとするいのちたもてり


今日も暮れて五臓六腑はとりどりに音なき夢を積みくづしする


大空の蒼ひとしきり澄みまさりわれは愚かしき異變をおもふ


蒼空の澄みきはまれる晝日なか光れ光れと玻璃戸をみがく


蒼空のこんなにあをい倖をみんな跣足で跳びだせ跳びだせ


掻き剥がしかきはがすなるわが空のつひにひるまぬ蒼を悲しむ


涯もなき靑空をおほふはてもなき闇がりを彫(ゑ)りて星々の棲む


ひとしきり物音絶ゆる簷(のき)をめぐり向日葵を驕らす空の黝(くろず)む  


ひたぶるに若き果肉をかがやかす赤茄子畠にやすらひがたし 


飛びこめば靑き斜面は消え失せてま下にひろがる屋根のなき街 


無花果(いちじく)の饐(す)えて落ちたる夕まぐれかのときを我なにと言ひけむ 


まのあたり向ひの坂を這ひあがる日あしの赤さのがれられはせぬ


かたくなに忿りを孕むけだものの赤みだつ眼を刎ねかへしをり


晝も夜も慧(さか)しくひらく耳の孔ふたつ完き不運にゐるも


身がはりの石くれ一つ投げおとし眞晝のうつつきりぎしを離る


いつの世のねむりにかよふたまゆらかまひるしづかに雷雲崩る


あらぬ世に生れあはせて今日をみる砌(みぎり)の石は雨にそぼてり


天國も地獄も見えぬ日のひかり顱頂をぬらして水よりも蒼し


われの眼のつひに見るなき世はありて晝のもなかを白萩の散る


かぎりなき命と聞けばあなかしこ靈魂てふに化けむはいつぞ


失せし眼にひらく夜明の夢を刷き千草の文(あや)を雨あしの往く


シルレア紀の地層は杳(とほ)きそのかみを海の蠍(さそり)の我も棲みけむ 


コロンブスがアメリカを見たのはこんな日か掌をうつ蒼い太陽


引力にゆがむ光の理論など眞赤なうそなる地の上に住めり


この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ


不運にも置去られつつ眼のたまに鍼(はり)などたてて明し暮すか 


かたつむりあとを絶ちたり篁の午前十時のひかりは縞に


わが指の頂にきて金花蟲(たまむし)のけはひはやがて羽根ひらきたり


昨夜の雨の土のゆるみを萌えいでて犯すなき靑芽の貪婪は光る


心音のしましおこたる日のまひるうつつに花は散りまがひつつ


みなそこに小魚は疾し全身の棘ことごとく拔け去る暫し


水底(みなそこ)に木洩れ日とほるしづけさを何の邪心かとめどもあらぬ


まのあたり山蚕(やまこ)の腹を透かしつつあるひは古き謀叛(むほん)をおもふ


雲母(きらら)ひかる大学病院の門を出でて癩(かたゐ)の我の何処(いづく)に行けとか


さらばとてむづかる吾子をあやしつつつくる笑顔に妻を泣かしむ


鉄橋へかかる車室のとどろきに憚らず呼ぶ妻子がその名は


拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひさして声を呑みたり


眼帯にやがてをぬるむあぶら薬かくてぞ我の盲(し)ひはてぬらむ


昼も夜も疼きつくしてうつそ身のまなこ二つは盲ひ果てにけり


眼も鼻も潰(つひ)え失せたる身の果にしみつきて鳴くはなにの虫ぞも


病む我に逢ひたき吾子を詮ながる母が便りは老い給ひけり


目にのこる影はをさなし離(さか)り住む十年の伸びは思ひみがたし


父我の癩を病むとは言ひがてぬこの偽りの久しくもあるか


降りたちてなじまぬ下駄のおもみにも籠れる冬は久しかりにし


鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ


日あたりの暖かからし雀一羽窓さきに居ていつまでも鳴く


泥濘(ぬかるみ)に吸はれし沓をかきさぐる盲(めしひ)にこそはなり果てにけり


杖さきにかかぐりあゆむ我姿見すまじきかも母にも妻にも


さぐり行く裏山路の暁(あけ)の空晴れたるらしもさへづりの澄む


また更に生きつがむとす盲我くづれし喉を今は穿ちて


まともなる息はかよはぬ明暮を命は悲し死にたくもなし


空の青に眼を凝らすならひにも見放されつつ夜ごと眠りぬ


かたゐ我三十七年をながらへぬ三十七年の久しくもありし
末尾の歌

癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし


父母のえらび給ひし名をすててこの島の院に棲むべくは来ぬ


人の世の涯(はたて)とおもふ昼ふかき癩者の島にもの音絶えぬ


死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし

























●2019年度の池田の成果

挑戦的研究(萌芽)「終戦までのハンセン病患者の「臣民」化における短歌と医療の関係をめぐって」2019年度実績(池田光穂)

旧年度2018年度からはじめた、ハンセン病歌人明 石海人(1901-1939)の伝記的「事実」の構成について、関連する文献を読みつつ論評ノートを作成を行った。『病む』山中浩司・石蔵文信編、大阪大 学出版会(2020年3月)に、担当箇所「第3章病むことの多様性と治ることの斉一性」(Pp.47-62)を寄稿した。

ハンセン病=不知の病ないしは天刑病という、ステレ オタイプは、当事者ならびに周囲の人たちに「神話化」(ロラン・バルト)という固定化したイメージ(偏見)として歴史的に社会に定着したことは、よく知ら れているところである。これが、ハンセン病の芸術家の間でおこると、異人あるいは異能の人として評価され一種の「英雄崇拝」(トーマス・カーライル)とし て世にもてはやされることになる。ここでの重要なことは、ハンセン病歌人を含めて病者の身体的な醜悪さが(療養所に空間に閉鎖されることで)脱色され無害 化され、芸術の領域にまで高められることである(cf. 殉教者の残酷図像)。しかし、ハンセン病者の身体を生きる明石海人は、醜悪で悪臭に満ちた自分の身体に医師が顔を背けることを歌に読む:「そむけたる医師 の眼をにくみつつうべなひ難きこころ昂ぶる」「癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし」(『白描』)。海人の歌集『白描』がベストセラーになったことは、内田守や前川佐美雄らのプロモー ションというせいもあるが、常人には成し遂げられない、その歌と歌人の「内的経験」が、近代の出版文化と結びついたことにある。医療の通常の機能は、病人 を病から解放することがその目的であるが、ハンセン病の場合、その「不知の病」神話が、療養所の中の治療空間にまで浸透し、固定化した。明石海人の芸術の 粋は、医療と芸術が交錯するところに不幸に結実したところにある。

著作

・池田光穂、『病む』山中浩司・石蔵文信編、大阪大学出版会(担当箇所「第3章病むことの多様性と治ることの斉一性」Pp.47-62)ISBN 978-4872596229、270pp., 2020年3月

論文

・池田光穂、本多勝ーと山口昌男の噛み合わない論争:1970年の文化人類学と報道ジャーナリズム(共著:岡崎洋三・池田光穂)、CO*Design, 6:13-32, 2019年8月 doi.org/10.18910/73010

・Ikeda, Mistuho. Repatriation of human remains and burial materials of Indigenous peoples: Who owns cultural heritage and dignity ? CO*Design 7:1-20, 2020年3月 info:doi/10.18910/75574

学会研究会発表

・Ikeda, Mitsuho, Repatriation of human remains and burial materials: Who owns cultural heritage and dignity? The Spring meeting of the Korean Society of Cultural Anthropology, Seoul National University, Seoul, South Korea, April 26, 2019.

・「病いの語り」としての短歌と「植民地的想像力」:第二次世界大戦の終戦までのその政治性をめぐって、[ポスター発表](松岡秀明、池田光穂)、第45回日本保健医療社会学会学術大会、東京慈恵会医科大学国領キャンパス(調布市)、2019年5月18日

・"Spirituality and Materiality among Human Remains--Reflection from repatriation activism of the Ainu and the Ryukyu" Mitsuho IKEDA, テーマセッション「再帰的近代における宗教と社会・個人」(座長:安達智史)、第92回日本社会学会大会(東京都杉並区)、2019年10月5日

・“Stealing remains is criminal”: Ethical, Legal, and Social Issues of the Repatriation of Remains to Ryukyu Islands, southern Japan. Mitsuho Ikeda (Osaka University)  in "HARKENING VOICES OF THE OTHER: ETHICS AND STRUGGLES FOR REPATRIATION OF HUMAN REMAINS ON THE MARGINS OF JAPAN"(5-1140) Annual Meeting of American Anthropological Association, November 24, 2019. Vancouver, Canada.

・霊性と物質性:アイヌと琉球の遺骨副葬品返還運動から、第三回豊中地区研究交流会(大阪大学基礎工学部シグマホール)2019年12月17日


■クレジット:池田光穂作成「明石海人(1901- 1939)」※引用文は、「ハンセン病の理解」など公益性のある、万人の研究教育のために寄するものについては、印刷等は(このページの作者に照会する必 要などなく)ご自由に使ってかまいません。ただし、それぞれの原画の著作権等は、その著作権者に属します。

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

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