ぼうりょくからじぶんたちをまもろう!
ぼうりょくの漢字(かんじ)はつぎのように書きます
ぼうりょく = 暴力
みなさんは、がっこうで、せんせいから「とうこう、げこう、のとちゅうで、みしらぬ、おとなから、こえをかけられても、ついていってはいけません」と、いわれたことはありませんか?
こどもたちは、しらないひとから、からだをさわられたり、へんなことをいわれたり、とつぜんなぐられたり、おかねやもちものをとられる、ということがあります。
また、おとうさんや、おかあさんから、りゆうもなくおこられたり、なぐられたことはありませんか? あるいは、なぐられたところが、よくじつになっても、いたいとか、あざになって、のこったりしたことがありませんか?
こどもには、おとなにまもってもらう「けんり」があります。つまり、おとなはこどもをまもらなければなりません。(これを、おとなはこどもをまもる「ぎむ」があるといいます)。
しかし、こどもをまもらなければならない、おとなが、こどもをいじめたり、こどもがきらいなことを、むりやりおしつけてくることがあります。
それを、こどもにたいするぼうりょく、とよびます。
こどもにたいする、ぼうりょくをふせぐには、どのようにすればよいでしょうか?
それは、みんなが、じぶんにたいして、どんなぼうりょくがあったのかを、おたがいに、はなしあう。また、それをふせぐには、どのようにしたらよいのかをはなしあう。そして、じぶんたちで、じぶんをまもるには、どうしたらよいのかをかんがえる。さらに、じぶんたちで、まもりきれそうもないことは、みじかなおとなたちにいう。ということです。
はなしあうおとなは、ひとりだけではだめです。ちゃんときいてくれない、しんようのできない、おとながいるからです。すくなくとも、ふたりいじょうの、おとなにそうだんしましょう。
もし、そんなゆうきが、ひとりではもてない、こどもは、みんなで、いっしょに、おとなにそうだんすればよいのです。そうすれば、こわくありません。
これはゆうきのいることです。しかし、ゆうきをださないと、こどもは、じぶんで、じぶんたちをまもることはできません。がんばりましょう。
大人のかたへ
こどもに対してふるまわれる暴力とは、我々の想像以上のものがある。かつて、当たり前と思われていた体罰が、こどもに対する人権侵害とやがて認識されるようになるという例に代表されるように、こどもに対する暴力の強度の範囲は、時代や社会によってさまざまに変更を受けるようである。次のようなことを考えてみよう。
■ 自動車の車内に子供を放ってショッピングにかまける保護責任者
たとえエンジンをかけて空調を入れていたとしても、自動車が引き起こすリスク認識がない。そのような認識不足は、子供に対する保護意識の欠如である。したがって、この場合の保護責任者は、こどもに対して潜在的に暴力を振る舞っていることになる。
■ 閉鎖的空間において子供の前でタバコを吸う大人
子供が機会的喫煙者になっているという認識がない。喫煙可能車両に、我が子をつれてタバコをプカプカ吹かす大人がいる。このような大人は、こどもに対して潜在的に暴力を振る舞っていることになる。
■ 子供と無理心中をする保護者
保護者である自分が死ぬ際に、自分の子供を巻き添えにする保護者。子供じしんの生存権を認めないエゴイストである。死に至る理由が同情に値するものであっても、殺人者であることを免れ得ない。
以上のような例は、かつては、子供に対して暴力を振るっているものであると認識されるようなことは、程度の差であれ、さほどなかった。つまり、こどもに対して振る舞われる暴力の強度の範囲は、時代や社会によって変わりうるということである(「暴力の定義の文化的・社会的拘束性」と言います)。また、かって大人たちによって暴力とみなされなかったものが、やがてそのような認識が普及し、急速に社会の中で問題視されるようになることがあります(これは「社会問題の構築性」と言います)。
大人は子供に振る舞われる暴力から守ってあげねばならないというのは、人間社会の普遍のルールです(でないと次世代の人間社会をよい形で継承させてゆくことが不可能になるからです)。しかし、そのルールは、時代や社会よって変わる、また、時には変えていかなければならないこともあります。
このような認識にたって子供に対して振る舞われる暴力について考える、対照的な2冊の本を、参考文献としてあげておきます。
【文献とその解題】
上野加代子『児童虐待の社会学』京都:世界思想社、1996年
子供に加えられる暴力についての社会(=大人)のあり方を反省的にみるという点で評価される好著である。学説史的には社会問題の構築主義という系譜に位置づけることができようが、「児童虐待」論であって、児童虐待についての議論ではないという「お門違い」の批判を受けるかもしれないような本である。よくわからないのは、これほど鋭い社会問題の分析を行える人が、自分じしんが、その暴力の社会的構築性に、どのように関わろうとするのか、という論点がほとんどみられないことである。そのときの著者は、我々の側にいるのではなく、ブラウン管の向こう側で規範的倫理を自己反省なしにに垂れるテレビタレント学者と同じ様な違和感を得るのである。
中村攻『子どもはどこで犯罪にあっているか:犯罪空間の実情・要因・対策』東京:晶文社、2000年
子供が喝上げをされたり、猥褻犯に出会ったりした事例を建築家の立場からプロファイリング的な分析したものである。細かい議論は同書を参照していただきたいが、人びとの視線が及ばないようなところ、昼間は人通りがあるが夜間などでは著しく人気(ひとけ)がなくなるところで、子供が犯罪に出会っているという。そのための処方せんとして――ここが原因追及のプロファイリング的分析とマッチした――テクノクラート的解決策なのだがて、安全な公園の具体的な事例が紹介されている。しかし、社会科学者は、暴力を抽象的な問題として構成し、その理念的な問題を取り扱おうとする性向がつよいので、そのような弊害を防ぐためにも、<暴力とはつねに具体的な様相をもったものである>という明確な命題に裏打ちされた本書の意義が失われることはないだろう。
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