かならずよんで ね!

神的暴力:スラ ヴォイ・ジジェクの暴力論 06

Divine Violence

池田光穂

神的暴力
パラグラフ番号(垂水源之介式)
ページ
原著ページ
ノート
1
218

《ベンヤミンをヒッチコックとともに》 サイコと神的暴力。神的暴力=法を超えた正義の、野蛮な侵入
2
218-219

ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」9。

3


●IX Mein Flügel ist zum Schwung bereit ich kehrte gern zurück denn blieb' ich auch lebendige Zeit ich hätte wenig Glück. Gerhard Schalem, Gruß vom Angelus Es gibt ein Bild von Klee, das Angelus Novus heißt. Ein Engel ist darauf dargestellt, der aussieht, als wäre er im Begriff, sich von etwas zu entfernen, worauf er starrt. Seine Augen sind aufgerissen, sein Mund steht offen und seine Flügel sind ausgespannt. Der Engel der Geschichte muß so aussehen. Er hat das Antlitz der Vergangenheit zugewendet. Wo eine Kette von Begebenheiten vor uns erscheint, da sieht er eine einzige Katastrophe, die unablässig Trümmer auf Trümmer häuft und sie ihm vor die Füße schleudert. Er möchte wohl verweilen, die Toten wecken und das Zerschlagene zusammenfügen. Aber ein Sturm weht vom Paradiese her, der sich in seinen Flügeln verfangen hat und so stark ist, daß der Engel sie nicht mehr schließen kann. Dieser Sturm treibt ihn unaufhaltsam in die Zukunft, der er den Rücken kehrt, während der Trümmerhaufen vor ihm zum Himmel wächst. Das, was wir den Fortschritt nennen, ist dieser Sturm.
●「ひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろ うとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。 歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たち の眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストローフ)だけを見るのだ。 その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。 きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ 集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはら まれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けて いる未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上 がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ」(219)。
4


神的暴力=この天使の野蛮な介入? 進 歩の破壊的な影響に復讐する。
・人間の歴史全体は、この不正を正す過程をとしてみる(=歴史化すること)。
・神的な領域における「記憶」
・神的な暴力が、報復的な破壊的怒りを爆発させる
5
220

・不正としての神的暴力、気まぐれな神 の暴力(ヨブ記
・自分の身にかかる不幸には意味がない(ヨブ)。
6
220

・フロイトのみた、イルマの注射の夢
・トラウマをみないように、3人の医師への会話が登場(=ヨブ記における三人の聖職者の友人の役割)
7
221

・あらゆるカタストロフの理由は無益。
・保護者としての神は死んでいる。深層の意味を拒絶せよ。
8
221-222

・911の図像学とヒッチコック
9
222

・映画『ユナイティッド93(United 93)』 『ワールドトレードセンター(World Trade Center)』
10
223

・ジェリー・ファルウェル(Jerry Falwell, 1933-2007)、パット・ファルウェル(Pat Robertson, 1930- ): アメリカの罪深い生活のために、神はアメリカを見捨てた。
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224

・ファルウェルやロバートソンと異な り。911のカタストロフを祝福として捉える。
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224

チェスタトン(Chesterton, G. K.)の原著「犬のお告げ」の前ふり
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224-225

《引用》チェスタトン (Chesterton, G. K.)の原著「犬のお告げ(The Oracle of the Dog)」:
”People readily swallow the untested claims of this, that, or the other. It's drowning all your old rationalism and scepticism, it's coming in like a sea; and the name of it is superstition." He stood up abruptly, his face heavy with a sort of frown, and went on talking almost as if he were alone. "It's the first effect of not believing in God that you lose your common sense, and can't see things as they are. Anything that anybody talks about, and says there's a good deal in it, extends itself indefinitely like a vista in a nightmare. And a dog is an omen and a cat is a mystery and a pig is a mascot and a beetle is a scarab, calling up all the menagerie of polytheism from Egypt and old India; Dog Anubis and great green-eyed Pasht and all the holy howling Bulls of Bashan; reeling back to the bestial gods of the beginning, escaping into elephants and snakes and crocodiles; and all because you are frightened of four words: `He was made Man.'" -The Oracle of the Dog.
「世間の人たちは、あれこれなんでも、実証されていない主張をたやすくうのみにしてしまう。これにかかったら、おなじみの合理主義も懐疑主義も沈没です。 まったく海の波のように押しよせてくる。その名は迷信という」ブラウン神父(224)
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225

「チェスタトンが超自然的な魔術に性急 にうったえることをせず、むしろ平凡な説明を好むのは、まさに彼のキリスト教によるのである。これが彼の探偵小説の出発点である」(225)
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226

・「われわれ人間がもちつづけるのは、 われわれを高いところから見守ってくれる権力者ではない。ただ、自由と、神の創造した世界の運命に対する——したがって、神そのものに対する——責任とい う、途方もない重荷だけである」(226)。
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226

《神的暴力:ではないものからはじめ て……》
・神的暴力の候補としてのルサンチマン
・ペーター・スローターダイク:Zorn und Zeit
・サイモス(承認願望)→妬み、競争、承認
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・1990年は、スローターダイクによ ると、メシア的論理が終焉した年だという。
・忿怒の歴史、
・イーリアスは憤怒(忿怒)から始まる
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228

・左翼政治運動は「憤怒の銀行」のよう なものだ。
19
229

・憤怒資本の枯渇
・ファシズムは、解放を生み出す忿怒の左翼のプロジェクトのパクリみたいなものらしい。
・ポルト・アレグレは忿怒・憤怒を貯めるグローバルな銀行になれなかった。
・グローバルな憤怒にはもはや可能性がない、とスローターダイクは主張。
・「アカデミズムの端っこでぶつぶついっている、再登場した〈左翼ファシスト〉」としてのジジェク(229)
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229-230

・まず必要なのは、ルサンチマンの概念 を再生することだ(230)
・スローターダイクの処方箋:1)ルサンチマンを超えよ、2)ルサンチマンと繋がる社会理論と決別すべし、3)新しいリベラリズムを享受せよ、4)エリー ト主義と平等主義のバランスをとれ、5)リベラル行動規範を確定せよ
21
230

W・G・ゼーバルトの引用
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231

同害報復(ius talionis)=Eye for an eye.
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・本物のルサンチマン
24
232

・ユダヤ的正義と、キリスト的慈悲は対 立す。
25
233

・カフカの父への手紙
・ブハーリンの即時処刑を止めるスター リンのパフォーマンスの意味
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・ラース・フォン・トリア監督の映画3 部作
・ドッグビル(Dogville 2003 DVDrip

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235

・住民を殺し、グレースはヘーゲル的な 意味での承認する(→ヘーゲルと親殺し
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236

・刑罰
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真正のルサンチマン——罰(復讐
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赦し—————————忘却
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・懐疑の解釈学
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・ラカンのアンティゴネー解釈
・「カントの倫理学上の厳格主義の真実は、法のサディズムである」 (237)
32
239

……最後に、これぞ神的暴力のという ものへ
33
239

引用、エンゲルスの、パリ・コミューン 解釈
「最近、社会民主主義者の俗物たちがふたたび〈プロレタリアート独裁〉という言葉に健全な恐れを抱いている。よろしい、だが紳士諸君、この独裁がいかなる ものかを知りたいか。パリ・コンミューンをみるがいい。あれこそは〈プロレタリアート独裁〉であったのだ」(239)
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・1792-1794年の革命(恐怖) 政治、これが神的暴力?
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・ベンヤミンの暴力批判論より、前口上
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ベンヤミンの暴力批判論引用(→ベンヤミンの暴力批判論
 "If mythic violence is lawmaking, divine violence is law-destroying; if the former sets boundaries, the latter boundlessly destroys them; if mythic violence brings at once guilt and retribution, divine power only expiates; if the former threatens, the latter strikes; if the former is bloody, the latter is lethal without spilling blood. The legend of Niobe may be contrasted with God's judgment on the company of Korah, as an example of such violence. God's judgment strikes privileged Levites, strikes them without warning, without threat, and does not stop short of annihilation. But in annihilating it also expiates, and a profound connection between the lack of bloodshed and the expiatory character of this violence is unmistakable. For blood is the symbol of mere life. The dissolution of legal violence stems (as cannot be shown in detail here) from the guilt of more natural life, which consigns the living, innocent and unhappy, to a retribution that "expiates" the guilt of mere life-and doubtless also purifies the guilty, not of guilt, however, but of law. For with mere life, the rule of law over the living ceases. Mythic violence is bloody power over mere life for its own sake; divine violence is pure power over all life for the sake of the living. The first demands sacrifice; the second accepts it." - パラグラフ17.

●「あらゆる領域において神が神話に対立するように、神的暴力は神話的暴力に対立する。しかも あらゆる点において対立する。神話的暴力が法を措定するとすれば、神的暴力は法を破壊する。 前者が境界を設けるとすれば、後者はどこまでも境界を破壊する。神話的暴力が罪と懲罰を同 時にもたらすとすれば、神的暴力はただ罪を消滅させる。前者が威嚇するとすれば、後者は衝 撃をあたえる。前者が血なまぐさいとすれば、後者は血を流さずともきわめて破壊的である。 [……]というのも、血はたんなる生命のシンボルだからである。法的暴力の解消は[……]たん なる自然的生命の罪から生ずる。この罪を通じて、無垢で不幸な生活者は、たんなる生命の罪 を「消滅させる」——そして、まちがいなく罪悪、ただし罪を犯したことの罪悪ではなく、法 の罪悪を浄化する——天罰にゆだねられる。というのも、たんなる生命の終わりとともに、生 活者に対する法の支配も終わるからである。神話的暴力は、それ自身のために、たんなる生命 を支配する血なまぐさい力であり、神的暴力は、生活者のために、あらゆる生命を支配する純 粋な力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる」(240)。
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"For the question "May I kill?" meets its irreducible answer in the commandment "Thou shalt not kill." This commandment precedes the deed, just as God was "preventing" the deed. But just as it may not be fear of punishment that enforces obedience, the injunction becomes inapplicable, incommensurable, once the deed is accomplished. No judgment of the deed can be derived from the commandment. And so neither the divine judgment nor the grounds for this judgment can be known in advance. Those who base a condemnation of all violent killing of one person by another on the commandment are therefore mistaken. It exists not as a criterion of judgment, but as a guideline for the actions of persons or communities who have to wrestle with it in solitude and, in exceptional cases, to take on themselves the responsibility of ignoring it. Thus it was understood by Judaism, which expressly rejected the condemnation of kill- ing in self-defense.-But those thinkers who take the opposite view refer to a more distant theorem, on which they possibly propose to base even the commandment itself. This is the doctrine of the sanctity of life, which they either apply to all animal and even vegetable life, or limit to human life. Their argument, exemplified in an extreme case by the revolutionary killing of the oppressor, runs as follows: "If I do not kill, I shall never establish the world dominion of justice ... that is the argument of the intelligent terrorist.... We, however, profess that higher even than the happiness and justice of existence stands existence itself."" - パラグラフ18.

●「[……]「わたしは殺してもよいのか」という開いに対する確たる答えは、「汝殺すなかれ」とい う戒律のなかにある。神が行為を「見越して」いるように、この戒律は行為に先だって存在す る。しかし、罰に対する恐れが、服従を強いる力にならないかもしれないように、この命令も いったん行為がなされれば、適用も通用もできなくなる。行為に対する判断を、この戒律から 導くことはできない。だから神の判断も、神の判断の基盤も、前もって知ることはできない。 したがって、あるひとがあるひとになした暴力的な殺害行為を、この戒律にもとづいて断罪す る者は、まちがっている。この戒律は、判断の基準として存在するのではない。そうではなく、 この戒律と孤独のなかで格闘しなければならない人々やコミュニティ、例外状況においてこの 戒律を無視する責任を引き受けねばならない人々やコミュニティの、行為の指針として存在す るのである」(240-241)。
37
241

・至高の領域としての神的暴力
38
242

神話的暴力は供儀を要求し、むき出しの 生を支配する。神的暴力は生贄を求めず、罪を消滅させる。
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ベンヤミンの引用
"For only mythic violence, not divine, will be recognizable as such with certainty, unless it be in incomparable effects, because the expiatory power of violence is invisible to men. Once again all the eternal forms are open to pure divine violence, which myth bastardized with law. Divine violence may manifest itself in a true war exactly as it does in the crowd's divine judgment on a criminal. But all mythic, lawmaking violence, which we may call "executive," is pernicious. Pernicious, too, is the law-preserving, "administrative" violence that serves it. Divine violence, which is the sign and seal but never the means of sacred dispatch, may be called "sovereign" violence."- パラグラフ19.
●「しかしながら、純粋な暴力がこれまで、いつ特定の事例として実現されたことがあるか決定す ることは、人間にとってほとんど不可能であり、また急を要することでもない。というのも、 それとしてはっきり認識できるのは、神話的暴力だけであってlli ただし、それが比類なき効 果を発揮する場合、話はべつだが——神的暴力ではないからだ。暴力のもつ、罪を消滅させる 力は、人間の眼にはみえないのである。[……]神的暴力は、一罪人に対する群集の神的な審判 おいて現れるが、それと同じように、真の戦争においですがたを現すかもしれない。(……) 神的暴力は、聖なる殺害のしるしであって、けっしてその手段ではないが、「摂理的」暴力と 呼べるかもしれない」(242-243)。
40
243

「神話的暴力と神的暴力の対立は、手段 としるしとの対立である」(243)
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244

・殺人の禁止
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・■「神的暴力は、人間の出過ぎた行為 を罰するために全能の神が直接介入すること、最後の審判のあ る種の予告あるいは前ぶれではない。神的暴力と、われわれの無力な/暴力的なアクティング・ アウト[行為への移行 passages a l'acte]との決定的なちがいは、神的暴力が、神の全能の表現ではなく、 むしろ神自身(大きな〈他者〉)の無力さのしるしである、ということだ。神的暴力と盲目的な アクテイング・アウトとのあいだでは、ただ無力さの場所だけが変わる」(244-245)。
・アクティング・アウト
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245


44
245

・民の声は神の声(vox populi, vox dei)の神は、神的暴力でいう神と同じ(あるいはそう理解すべき)
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246

・ロベスピエールのルイ16世の処刑を 求める演説。
"Peoples do not judge in the same way as courts of law; they do not hand down sentences, they throw thunderbolts; they do not condemn kings, they drop them back into the void; and this justice is worth just as much as that of the courts. " (171)
・「人民は裁判所のようには裁かない。人民は判決を下すのではない、雷電を放つのである。人民は王に刑を宣言するのではない、王を無に戻すのである。この 正義には裁判所の正義と同等の価値がある」
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246-247

ロベスピエールが自分自身が処刑される 前日の演説(1794年テルミドール8日)
 "But there do exist, I can assure you, souls that are feeling and pure; it exists, that tender, imperious and irresistible passion, the torment and delight of magnanimous hearts; that deep horror of tyranny, that compassionate zeal for the oppressed, that sacred love for the homeland, that even more sublime and holy love for humanity, without which a great revolution is just a noisy crime that destroys another crime; it does exist, that generous ambition to establish here on earth the world's first Republic. (172)
47
247


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チェ・ゲバラの2つの言説のひとつ
"At the risk of seeming ridiculous, let me say that the true revolutionary is guided by a great feeling oflove. It is impossible to think of a genuine revolutionary lacking this quality." (172)
49
247-248

チェ・ゲバラの2つの言説のひとつ(も ちろん評判の悪いものでゲバラのヒューマニスト的側面を持ち上げる人はしばしば忘却傾向にあるもの)
"Hatred is an element of struggle; relentless hatred of the enemy that impels us over and beyond the natural limitations of man and transforms us into effective, violent, selective, and cold killing machines. Our soldiers must be thus; a people without hatred cannot vanquish a brutal enemy." (172)
50
248


51


キルケゴールより
"the demand to hate the beloved out of love and in love ... So high - humanly speaking to a kind of madness - can Christianity press the demand oflove if love is to be the fulfilling of the law. Therefore it teaches that the Christian shall, if it is demanded, be capable of hating his father and mother and sister and beloved. " (173)

52
249

・「純粋な暴力の領域、法(法的権力) の外部の領域、法措定的でも法維持的でもない暴力の領域は、愛の領域である、というふうに」
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エピローグ
パラグラフ番号(垂水源之介式) ページ
原著ページ
ノート
◎「こうしてわれわれの探求は、円環を閉じるように完結する。われわれは、あやまった反暴力を退 けることからはじめ、政治的・社会的解放をもたらす暴力に到達したのである。主観的暴力と戦う 一方で、自分が忌み嫌うその現象自体を生み出す、システム的暴力の関与している者たち——われわ れは、そうした者たちの偽善から話をはじめた。そして、暴力の究極の原因を隣人に対する恐れの なかに位置づけ、その恐れが、暴力を克服する媒体そのものである言語自体に備わった暴力にもと づくことをあきらかにした。つづいてわれわれは、こんにちのメディアにとりついた3つのタイプ の暴力、2005年のパリ郊外における若者の暴動、最近のテロ攻撃、ハリケーン・カトリーナが もたらしたニューオーリンズのカオスを分析した。またわれわれは、デンマークの新聞に掲載され たムハンマドの風刺画に対する暴力的な抗議に関連して寛容的理性のアンチノミーを論証し、さら にこれをうけて、こんにちのイデオロギーを支える寛争という支配的観念の限界をめぐって議論を 展開した。最後にわれわれは、ヴァルター・ベンヤミンによって記述された、神的暴力というカテゴリー の解放的な側面に正面から取り組んだ。では、本書から得られる教訓はなにか」(252)。
1
252

・誤った反暴力を退けることから始め て、政治的解法をもたらす暴力に到達する。
・主観的暴力に反対し、システム的暴力に関与しているものたちの偽善を暴く
・暴力の究極の原因は、隣人に対する恐れ。その恐れは、言語に備わったものである。(言語自体に備わった暴力)
・メディアに取り付いた3つの暴力(2005年パリ郊外暴動、最近のテロ攻撃、ハリケーンカトリナのニューオーリンズのカオス)
・寛容的理性のアンチノミー(ムハンマドの風刺画に対する暴力的な抗議)
・寛容という支配的観念の限界
・神的暴力というカテゴリーの解法的な側面
2


・本書から得られる教訓:1)暴力を即 座に非難することのイデオロギー操作の問題
3


・2)本当の意味での暴力になること、 社会的生活の中に、暴力による揺さぶりをかけることは、難しい
・邪悪であり続けることは、努力しなければならない。
4


・アクティングアウトの、自壊的側面、 自殺的要素。
・攻撃性は、自分自身の鏡像に向けられるから
5
255

・アクティングアウトとしての文革
・文革における、資本主義の再生産に伴う、あらゆる生活の破壊に比べれば、紅衛兵の暴動と破壊など可愛いものだ。
6


・(物議をかもす)ヒトラーは資本主義 改革を避けるために、ユダヤ人を標的にするスペクタクルを打ち立てた。
7


・スターリンの集産主義も、大粛清 (1936-1937)を生み出す、無力なアクティングアウトだ
8


・アーチ・ゲッティらの引用
・スターリン主義の暴力の解説

9
258

・クリスティの作品の分析
10 259

・暴力的なアクティングアウトの扇動
11
259

・3)同じ行為が暴力的と見なされる か、非暴力なのかは、コンテクストによる
・それをヒッグス場で説明する。
12
260

・ジョゼ・サマラーゴの小説
13


・(承前)前節を受けた解説
14
261

・(承前)ガンディー的な非暴力が、暴 力的事態を招く?
15
262

・マイケル・ウッド
16


・引用文
17


・(承前)
18


・排除は抑圧よりもラディカル
19
263-264

・何もしないことが、もっとも暴力にな る(→「イデオロギーとテラー」)

●神的暴力と神話的暴力(→On Walter Benjamin's "Zur Kritik der Gewalt," 1920-1921.)

神話的暴力(mythic violence, mythische Gewalt )
法を措定する( mythic violence is lawmaking, rechtsetzend);たんなる生命に対する、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力;犠牲を要求する(野村訳 Pp.59-60)
神的暴力(divine violence, die göttliche) 法を破壊する(divine violence, rechtsvernichtend,);すべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力;犠牲を受け入れる


本文……

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