前デカルト的症候群
Pre-Cartesian Syndrome, PCS
初出:SOMAニュースレター第2号(97.10)
批判的視座を宣教しようとする時、しばしば我々は「現場のエートス」とも言うべき素朴で頑強な抵抗に会う。「人を見れば助けるのが道理という考え方が批判的視座の全てに優先する」という考え方がそれだ。これが屁理屈であることは冷静に考えれば明らかであるが、このような無知は全体主義者の宣伝のように繰り返される。なぜなのか?
しかし他方で、批判的意識は実践を眺めそれを分析する論理を実践の外側に想定し、実践することの社会的拘束性をくり返し反省することを求める。そのような外部がいったいどのような形で保証されるかということを不問にしたままで。どうしてだろう?
世に言う「バランス」のとれた議論とは結局そのどちらも中途半端に終わらせることである。世間を常識で渡り、社会の中で一定の役割を果たすためにはこのようなモラルが要求される。
今日的な「知識」の再生産システムは、科学的実践の裏側でこのようなモラルを日々再生産していることを我々は忘れてはいまいか。知のシステムはそのような事態自体を隠蔽するモラルの構築物(=エートス)を維持管理している。「歓喜して行うヒトラーの処刑人」と家庭生活における良き両親が両立することが可能になるのはこのことによる。
おお!有り難きはこの冷酷な近代の感情と理性の分離のシステムではないか!
だが、この快適な理性と感情の管理制度に違和感を覚え反発した瞬間、世界はなんと異様に見えてくることだろう!世間のあらゆることに首を突っ込みたくなり、認識論における分割統治に嫌悪し、不正義に異議を唱えたくなる。世界の不完全さを予感し悲観しながらも楽観的な夢を見ることを忘れない。このような全身症状は典型的なプレカルテジアン的症候群(pre-Cartesian syndrome)に我々が罹患したことの証左である。
この症候群に罹患すれば、人間が学問を創るというビジョンは全くの虚構であり、じつは学問が人間を成型しているということが容易に理解できるようになる。理性的であることが、じつは道徳的であれという定言の同語反復であったことが手に取るようにわかる。価値自由という感覚が欺瞞であることに気づき、常に学問のもつ不快感から逃れられなくなる。欺瞞という感情の構造的な理解に到達しても、決してそれは克服されない。
この病気の原因は現在まで特定されていない。ポストモダン社会だという環境原因説もあるし、ニーチェやドゥルーズが罹患していた微小病原物質だという仮説もまた捨てがたい。私はこの病気は医療人類学を社会的行為として位置づけたときに必ず発生することを発見した。もっとも病気の記載はR・ウィルヒョウに遡り、F・ボアズを経由して人類学者に拡散したという文献的根拠もある。
私は世界のどの防疫センターの報告よりも先立ち、この症候群で亡くなった症例を知っている。その名誉ある第1号は私の恩師の中川米造先生であった。そして彼よりも以後、医療の社会科学に携わる人たちは多かれ少なかれ、この症候群に罹患し、死すべき運命にあることを自覚しなければならない。非科学的にも、私はこれが運命であるということを確信している。
Copyright Mitzu Ikeda, 2001