医療人類学入門1997
What is the field for Medical Anthropologists ? : Past and
Present.
1. 問題の所在
医療人類学とは、人間の諸活動における「医療」を文化人類学的な立場から研究調査する学問的実践のことである。しかし、これではあまりにも抽象的で具体的に何を実践するかが不明瞭だ。また「医療」とは何かをめぐっても一書をなすほどの説明もいるだろう。そして人類学にもさまざまな学派や立場があることは、本をひもとけば誰でもわかることだ。日本で医療人類学の名は、波平恵美子先生の一連の著作やフォスターとアンダーソンの教科書『医療人類学』の翻訳のおかげで、人類学者のみならず社会問題に関心のある医療関係者のあいだでは広く知られ、また多くの人に興味を持たれるところとなった。にもかかわらず、医療人類学というものが一般によく理解されているとは言いがたい。もちろんこれは日本だけの状況だけではないらしい。医療人類学の会長を歴任され日本を主要なフィールドとされているカナダの人類学者であるM・ロック先生によると、英米圏でも事情は同じとのことである。
◆1990年代の医療人類学の標準的なテキスト(3冊)
Foster, G.M. and B.G. Anderson. 1978. Medical Anthropology. New York.
フォスターとアンダーソン『医療人類学』中川米造監訳、リブロポート、1987年[この出版社は消滅し、本は絶版です。英語版も入手困難です。現在改訳版の出版を検討中]。原著は下記です。
McElroy, A. and P.K. Townsend. 1985. Medical Anthropology in Ecological Perspective. New York.
大修館書店から翻訳があります。邦題は『医療人類学』ですが、正しくは『生態学的アプローチにおける医療人類学』で、まさに、生態学アプローチから医療人類学に入門する人にうってつけの本です。マックロイとタウンゼンドは、生態学中心主義のドグマを繰り返しているのではなく、生態学から保健の政治経済学にいたる道筋を事例を通してきちんと検証しています。
Helman, C.G. 1994. Culture, Health and Illness. 3rd edition. London
英国の臨床家で医療人類学のヘルマンの名著。北米流の病院中心の臨床人類学というよりも、よりプライマリヘルスケア指向をした認知的傾向を強く押し出した書です。何度も翻訳の噂が流れてきましたが、未だ邦訳が出ていません。
私は、経験的事実よりも理念を先行させる類の学問の定義に組みするつもりはない。したがって、医療人類学を説明する際に、この学問がどのようなジャンルとして把握され研究されてきたのか、という事実に即した解説をおこないたい。
今日、我々が「医療人類学」(medical anthropology)と呼んでいる学問的パラダイムは、1960年代の終わりにアメリカ合衆国のおもに文化人類学者と医学研究者を中心とする人たちによって確立された。この医療人類学という用語をどのように定義し、どのような具体的方法をもって研究していこうかという議論は、1960年代末の発足当時から今日にいたるまで続いている。明確な目的と方法論に裏づけられた医療人類学者たちの具体的な著作や論文が、社会的な評価を得て、それ以降の研究領域を方向づけることは決して珍しくない。だがこれらの学問領域の潮流を決定する研究には、つねに「医療」とはなんだろうか?、という問いが陰に陽に投げかけられているのである。あるいはそのように読まれる必要があるということだ。
私の年来の関心は「医療援助」を文化人類学的に考察することにあるが、その際に意識してきたことは、研究対象にすることは間接的であれ直接的であれ「医療援助」に関与しているのだという感覚である。文化人類学は、他者という回路を通して自己省察に導く学問的実践である。この短い論文は、医療人類学の学問的伝統を批判的に回顧する。その際に着目したい出来事とは、1960年代に近代医療が批判を受けたとき、治療儀礼のメタ言語的解釈が動員されて「未開」医療や民族医学の全体性が要求されたあるいは「復権」が叫ばれたという点である。私見によると、過去30年間にわたる医療人類学の発展の原点はここにある。つまり医療人類学は、一方で学問的にメタ解釈をもって合理的な非西洋医療の理解を要求する一種の機能主義理論であったのであり、他方では実践的にメタ解釈をもって近代医療を克服するという野心をもった思想運動であったと考えている(武井 1985 参照)。人びとの医療の全体性への要求を満たすために医療人類学という文化人類学の特殊な一ジャンルに脚光が浴びたこと、医療の全体的な解明をめざす医療人類学はまた同時にそのパラダイムの中で細分化かつ専門化を遂げるという皮肉を実現しつつあること、私はそのような学問の成長にまつわる逆説という現象に強く興味をもつ。したがって以下で触れられる医療人類学領域の瑣末な分類は、教科書的な事実よりも、ここで紹介された分類が考えるのに適しているという人類学上の格言に倣っていることを確認しておきたい。
2. 折衷主義の遺産
1977年にガーバリーノは次のように言っている。
たとえば、医療人類学は、機能主義の方法でも、構造主義でも、生態学でも、あるいは認識科学、といったアプローチでも研究することが可能である。‥‥[このような分野は]学説上の新生面を切り開いたものだとは思わない。それらはむしろ、既存の分野を、大きく拡大したものというべきであろう(ガーバリーノ 1987:4)。
これは現在でもみられる代表的な見解である。しかしこのコメントは、医療人類学が「医療」を対象にした人類学的研究であること以上のことを物語っている。つまり、医療人類学はきわめてハイブリッド(異種混淆的)な学問であるということだ。
Mutatis mutandis つまりしかるべき点に手を加える、ことで医療人類学の方法論は発展してきたということができる。
このハイブリッドには、むろん肯定的と否定的の両方の意味がある。肯定的な意味においては、人類学研究と医学や生物科学などの研究の交流の場であり、両分野の意見交換によってより生産的な学問の成果が期待できるという含みがある。いわゆる学際領域がもつ双方の研究者に対する生産性という意味である。他方、否定的な意味では、どっちつかずの学問であり、その多角的な視野は中途半端な分析に終わり、総花的な研究は結局は人類学にも医学研究にもその成果をもたらさないだろうという見解がある。C・ギアーツはその著名な論文「厚い記述」のなかで、この種の折衷主義は失敗に終わることを指摘している。学問上の隘路とは方向がひとつしかないということではなく、進むべき方法がたくさんありすぎるということからくるらしい。
学問における折衷主義が成果を生むか否かという議論にはたぶんに水掛け論的なところがあるので、それらの主張の議論の結論だけを追っても、医療人類学の有効性の可否を定めることはできない。医療人類学が近代医学と人類学の相互の交流によって新しい領域を開拓したことは事実であるし、そこに折衷という側面がみられることもあった。その意味では折衷には生産的な効果もあったのだろう。しかし「医療人類学は折衷主義的な学問である」という非難は医療人類学という独自の領域が形成されることによって、次第に聞かれなくなった。もっとも自称「医療人類学」と称する論文のなかには、確かに人類学と医学のそれぞれの分野から、その概念や方法を批判的に吟味することなしに接ぎ木しているものも少なくない。そのような論文は確かに「既存の分野を拡大した」と言えなくはないが、論理的な跳躍があって読んでいて退屈なばかりだけでなく、誤解を生む点では有害なものである。学際研究にはこのようなものがしばしば見受けられる。
3. さまざまな下位領域
できあがってから30年も満たない学問領域ではあるが、医療人類学を4つの領域に下位分類することは、もっとも一般的で古典的なものとなった。これは医療人類学領域を形成した学問領域を次の4つの起源にもとめる立場である。フォスターとアンダーソンの教科書(1977:4-8)では、自然人類学、民族医学、文化とパーソナリティ研究、国際公衆衛生に分けられているが、それは最も有名なものである。以下の分類には、さらに幾つかの下位に属する学問分野が位置づけられるが、これは私が書き加えたものである。
1.自然人類学(Physical anthropology)
古病理学[paleopathology/医学史的病理解剖学]
疾病地理学・歴史学
栄養生態学
人類生態学[human ecology]
2.民族医学(Ethnomedicine)
呪術研究
シャーマニズム研究
民族植物・動物学研究
民俗医学
民俗病因論
民族病理学
身体論研究
3.文化とパーソナリティ研究(Culture and personality studies)
精神分析(諸流派)
心理人類学
トランスカルチュラル精神医学
比較精神医学
民族精神医学
4.国際的な公衆衛生学(International public health)
寄生虫病学(公衆衛生・疫学や行動生態学を含む)
近代医療導入後の文化変容
開発人類学
この下位領域の位置づけがすべての医療人類学者に満足のいくものではないかもしれない。しかし、この分類を、その領域がおもにどのような方法論をとるかということに着目して、おもに自然科学なのかあるいは人文社会科学なのかという方向に広がる横軸と、研究対象をおもに「個体」や「個別」に焦点を当てるか、あるいは「社会」や「全体」に焦点をあてるかで広がる縦軸とで区切られる四象限に振り分けてみると、その傾向が類別できて先の分類があながち的外れではないことに気づくだろう。この四象限分類は図1.で描いたとおりである。ただし、当時の学問領域をそれぞれ不可侵のカテゴリーとしてお互いに尊重する点で、全く問題がないとは言えない。つまり医療人類学をとらえる際に、それぞれの下位領域が独自のテリトリーとして他からの批判を寄せつけず、批判的というというよりは「敬して遠ざける」ような態度を相互の研究者のなかに意識づけるような働きをもってきたのではないのか、という危惧である。
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事実、このような分類そのものに疑問を投げかけるような研究もある。たとえば、近代医学の認識論そのものが、それを担ってきた男性中心のイデオロギーの反映であり、医学研究の最先端でありきわめて客観的であるとみなされている免疫学においてさえも科学的に表現される際には、その社会の価値観が投影されるといったダナ・ハラウエイのような指摘などがある。そのような立場にたてば、人文社会科学と自然科学は対局の位置にあるのではなく、自然科学そのものも人文社会科学的な研究の対象になるべきであることが理解されるだろう。あるいは、いかなる「医療」もその社会のなかで「文化的に構築された」(culturally constructed)ものであるので、医療人類学は自然科学にもとづく近代医学そのものも人類学的な分析の対象として批判的に論じられる必要がある。四分類が下位領域のテリトリーを守る傾向があると言ったのはこのような意味からである。
いづれにせよ、医療人類学をこのような広がりの中で発展したと考える見方があることを確認できればよい。問題は、むしろその内部の絶えることのない細分化である。1979年にアメリカ人類学会に所属する医療人類学会の最初の特別刊行物である『医療人類学教本』Teaching Medical Anthropology と呼ばれるマニュアルには、最初の二章での医療人類学の解説に続いて、次の7つの研究分野が列挙されている。
1 民族医学ないしは比較医療システム
2 栄養人類学
3 看護実践の文化的多様性
4 文化と出生
5 民族精神医学、あるいは通文化的精神医学
6 生物医学的人類学
7 家族構造と保健
このマニュアルには当時の各分野の専門家が、学部や大学院などで実際に行っている様式に従って、その領域の概況や、学生や院生に対する必読文献が提示され、その文献が選択された理由などが述べられている。また分担で読んだり、さらに深く学ぶための文献や記録映画など挙げられている。これは先の理念的な分類よりも、実践にもとづく当時アメリカの医療人類学の発展の方向を示唆している点で興味深い。つまり、ひとつは栄養や看護研究などの、すでに先行してあった医療に深く関わる専門領域が新たに医療人類学の下位領域として名乗りを上げてきたことである。そして他のひとつは、出生や家族保健など、開発途上国の医療援助の際に必要とされる領域の研究が、独立した研究ジャンルとして登場していることである。医療人類学は社会的な要請のもとで発展し、また医療人類学を担う人たちもそのことを明確に意識していたのである。
では、最近の状況はどうであろう。我々は医療人類学の下位領域を論じるさいに30年前の分類を古典的と形容してきたので、1980年代末に公刊された医療人類学の読本を、現在の状況とするにはためらいがあるが、紹介してみよう。例えば、88年の「理論と方法のハンドブック」と副題のついた『医療人類学』は、ともに1947年生まれのジョンソンとサージェントによる大部の編集本である。この本は5部構成で19の論文が収載され、引用された総文献数は二千弱にもなる。もはや医療人類学の全体の文献を読み尽くそうという野心が揺らぐほどの量である。このハンドブックは、(1)理論的パースペクティブ、(2)医療諸体系、(3)人間集団の保健問題、(4)医療人類学における諸方法、(5)政策と唱道、から構成されている。その下位領域を紹介するそれぞれの論文のタイトルは、次のとおりである。
(1)治療過程、医療人類学における政治経済学、医療人類学における批判的−解釈的アプローチ、精神分析的パースペクティブ、応用医療人類学、の5論文
(2)民族医療、民族精神医学、民族薬学、文化システムとしてのバイオメディスンの研究、看護と人類学、の5論文
(3)疾病と生態学と人間行動、人類学と人間の生殖、ドラッグ研究、文化とストレスと疾病、の4論文。
(4)医療人類学におけるフィールド調査、疫学と医療人類学、人口学、の調査法に関する3論文。
(5)土着治療者の専門職化、国際保健と開発、の2論文。
ここから読みとられることは明らかである。つまり、医療人類学者にとって共有される「独特の」理論領域があるということ、医療人類学者にとって研究対象となるような「医療」のカテゴリーに一定の合意が認められること、人間の保健問題や開発に積極的に関与する「応用」領域が確立したこと、そして、医療人類学という領域に不可欠の方法論があるという合意があるということだ。
4. リヴァースの独自性
これまでは医療人類学の下位領域とその推移について述べてきた。しかし、どちらかと言えば学会内部での細分化や専門領域の確立をめぐる問題ばかりに眼をむけすぎたかも知れない。我々にとって大切なことは、医療人類学という学問領域の成立によって、どのような成果が明らかにされたのか、そして、それは他の分野が主張してきたこととどのように異なるのか、ということを明確にすることだろう。
このことは医療人類学という学問領域が確立する1960年代末のアメリカよりもさらに40年ほど遡る前にすでに主張されていた。イギリスの社会人類学者W・H・R・リヴァース(1864-1922)のものがそれである。彼は、社会人類学における系譜的方法を確立したことで著名であるが、人類学者になる前はケンブリッジで実験心理学を専攻する研究者だった。リヴァースは自らも医師であり、1898年に始まるケンブリッジ・トーレス海峡調査隊に参加し、医療研究の分野に人類学的なアイディアを持ち込んだ最初の一人である。彼は1915年と16年にロンドンの医学校で未開医療に関する講演をおこなった。死後その講演は『医学、魔術、宗教』というタイトルで出版されたが、今日の医療人類学者の見解と共有する重要な指摘をおこなっている。私は、リヴァースの主張の今日的意義をここで三点にわけて紹介したい。
まず最初にリヴァースは、「野蛮人」――当時の人類学では異文化の他者である未開人をこう呼んでいたのだが――は非合理的ではない、と主張した(Rivers 1924:51)。今日では、一見非合理的な観念や行動の背景には何かの理由がある、という見方は多くの人に受け入れられるようになっている。しかしながら最も初期の組織的なフィールドワークに参加した医者であり人類学者である彼がそのような主張をしたことはまさに画期的であり、記憶されてよい。彼は人類学に転向してからは進化主義的な見方をとりつづけていたが、医学校での講演をおこなう頃には文化の伝播説を支持するようになる。このことが、進化主義に見られるような、未開から文明への知識と認識の進歩という一種の知的発達の図式を放棄させたのではないかと私には思える。彼は、現地の人たちの病因論と治療には論理的な関係があることを発見して、環境に対する人間の反応の均質性を説き、同時に、違った地域にこの事実が分布していることを伝播の証としたのである。
この指摘の延長上にさらに彼は、人びとがおこなう病気の分類はきわめて体系的におこなわれるということも指摘した。これは後に、文化というものが人間に対して、たんなる「役にたつ・役に立たない」というレベル以上の認識能力を付与することは、認識人類学やその研究成果を踏まえて発展させたC・レヴィ=ストロース『野生の思考』などで人びとに知られることになる。ミンダナオ島のスバヌンの人たちの皮膚病に関する細かな観察と描写について報告したC・フレイクの論文では、今日ではその病気の分類体系を提示したものと読まれることもあるが、彼の論文の本来の目的はスバヌンの人たちの認知のプロセスを明らかにすることにあった。素人の病気の知識は専門家に比べて無知蒙昧であるとは言えない、という指摘をおこなったとも理解できるのだ。
リヴァースの第二の主張は、メラネシアとニューギニアで観察された大半の病気というものはマイナーなものであり、ほとんどは家庭内で処理されるというものである(Rives 1924:41,81)。これは後に登場する医療人類学者の間の合意というよりも、むしろ今日において強調されるべき指摘である。というのは、医療人類学者おいてすら、あるいは医療人類学だからこそ、その研究の対象を制度的な医療や人間の生き方に大きな影響をあたえる重い病気に求めがちだからである。また、近代社会においては医療制度が人びとの生活の中に深く浸透するようになって以降、「医療」をひたすら深刻で重要なものとみなし、医療にかかる前の自己治療や家庭内での処方を軽視する傾向があったからである。しかし、医療を人間の病気に対する対処行動の全体系であるとみたときに、リヴァースのこの第二の主張が意外な盲点であると同時に、マイナーな病気やそれに対処する個人や社会の様態に着目することの重要性を再確認せざるを得ない。そして、これは彼自身が指摘した人びとの病気の分類は体系的におこなわれるという事実について、それを裏付ける根拠にもなる。
彼の三番目の重要な指摘とは、その社会における諸関係――とくに権力関係――が、病気と治療の形態と深い関わりをもっているということである(Rivers 1924:94)。彼は、宗教性の強いポリネシアでは、病気の原因は神々や他の霊的存在に帰され、治療もまたそれらの超自然的な存在の力を必要とする。それに対して、メラネシアでは病気は人間あるいは人間によって導かれたりコントロールされている霊的存在によって引き起こされるので、治療においても、その霊的な知識や操作に長けている人間が介入する、とリヴァースは指摘する。とくに後者のような呪術を主とするような土着的医療においては、呪医と病人の関係は権力関係にもとづくという指摘もおこなっている。病気の治療は、病理学的過程にもとづく生理的な変化と、免疫などの治癒力および身体の外部からもたらされる薬や施術などによって、きわめて自然科学的な過程であると認識されている。そのために治療の際には、施術者は患者に対してこのような自然科学的な過程をほどこすことだと、我々は信じるようになった。事実、近代医療ではアメリカの社会学者T・パーソンズに代表されるきわめて合理的な「医者−患者」関係が、その社会関係を分析するためのモデルとされてきた。しかし、医師も患者もその背景にある社会関係の編み目の中に取り込まれているために、その社会の権力関係とも深く結びついている。それはたんに治療することができる能力にもとづく権威や社会的名誉だけにとどまらず、情報の管理や治療行為それじたいが医師の権威を確認すると同時に権力を再生産する過程になっているのである。したがって、病気は科学的あるいは呪術的な根拠にもとづいて治療されようがされまいが、治療の空間は権力関係の場であることを忘れるわけにはいかない。
医療を権力という観点からみる立場は、医学者としての彼の人生における次のようなエピソードと絡み合わせて考えると、より感慨深いものがある。今世紀初頭からメラネシア研究者として華々しい業績をあげた彼は、後にイギリスが第一次大戦に参戦したときに軍医として戦争神経症研究に携わる。イギリスのネオ・フロイト学派の第一人者として、晩年は心理学研究にふたたび戻ってゆくのである。
以上、リヴァースの指摘した三つの独自性について紹介した。医療人類学の神話的な始祖としての彼をこれ以上持ち上げる必要はないだろう。しかし現代社会の文脈に即して、彼から受け継ぐものがあるとすれば、およそ次のようにまとめることができる。
1.人びとの病気理解は、不可知なものでなく外部から理解することが可能であること。これは近代になって以降、医学が「病気」そのものを研究することになった傾向に対抗して、彼の学問が「病人」あるいは「病人を支える社会」の理解への指針を確立したことを意味する。
2.病気の発生とその処方の場とは「家庭内」という身近な場所であること。これは「病人」を理解するためには、病気そのものよりも病人の身の回りの日常の空間を把握することが重要であることを再確認させた。
3.病気とは治療と社会との深い関係を表現するものであり、治療とは何らかの権力の行使であること。したがって医療は、日常の世俗権力から超越した独自の社会空間ではなく、政治や社会を分析するのと同じ方法で理解することができるという可能性を提示した。
5. 1990年代の動向
先にも述べたように現在、北米を中心とする医療人類学は広い領域にまたがり、またそれぞれの下位領域も深みが増してきたので、すべての研究動向を把握することは至難である。一般的に言って、アメリカでは1970年代までの臨床医学指向から80年代以降、人類学理論への回帰現象がおこりつつある。また研究者の多くも医療人類学が文化人類学の領域と深く結びついており、自らは人類学者であるというアイデンティティをもっているので、主流の文化人類学理論の動向には敏感に反応する傾向がある。医療人類学のセントラル・ドグマは文化人類学であると言っても過言ではない。
このような状況認識を前提にして、比較的影響力の大きい最近の医療人類学関連の仕事を私は三つの動向として整理したい。今それを、仮に「モノグラフ志向」「体制順応志向」「批判的医療人類学」の3つのグループに名づけて概説したい。それぞれのグループには、いくつかの流れがあるので実際には(a)から(g)まで7つのジャンルにさらに細分化してある。この分野を図1.の古典的四象限に分けて配置したものが図2.である。
5.1 モノグラフ志向――民族誌としての医療人類学
最初は「モノグラフ志向」の流れである。これは文化人類学者が実地調査にもとづいて報告する民族誌の制作を通して、世界のさまざまな医療のあり方や患者の実態について報告、分析、解釈したものである。研究対象を広く当該の社会に求めようとするものと、患者や個人にもとめるものでは、自ずから描き方が異なる。
(a)医療民族誌
まず、社会の全体的な現象として医療を取り扱うの民族誌的研究がある。ニッチャー、グッド、クラインマンなどがその代表である。対象地域も伝統社会から近代工業国まで多様である。これらの著者たちは具体的な民族誌記述の実践を通して、より抽象度のある理論的な枠組を提示していることに特徴がある。たとえばニッチャーは南インドをフィールド経験を中心として、人びとが病気を通して彼らがおかれた苦境を表現することを「苦悩のイディオム」と呼んだ(Nicher 1981)。グッドはイランの人たちが心=心臓の不調を訴えるのだが、それは現地語以外には翻訳不能な用語で表現されるものであり、その意味することは老齢、悲哀、貧困、出血、対人関係の不調などきわめて多義的である。彼は、このような不調が、一種の社会的な自由連想法であることを指摘して、それを「意味論的な病気のネットワーク」(semantic illness network)と呼んだ(Good 1977)。
(b)患者指向民族誌
他方、焦点をより絞って患者指向の民族誌とも言える流れがある。オベーセーカラやクラパンザーノなどの民族誌がこの代表である。精神分析理論の各派の影響を受けながら特定の個人に焦点をあてて分析的な叙述を試みているものと言えよう。オベーセーカラ(1981)はアメリカ合衆国で教鞭をとるスリランカ人であり、スリランカの宗教的職能者に焦点をあてた民族誌において、ウエーバーの文化理論とフロイトの深層心理解釈を駆使して、職能者の個人史における語り、夢や幻想などに現れる個人的な象徴が、どのようにして社会的な象徴と統合されているのかについて、現地の社会的歴史的文脈に即してきわめて特異的に語っている。クラパンザーノ(1991)の民族誌は、精霊にとり憑かれたと主張するモロッコの煉瓦づくり職人の男との出会いを通して、病いを含めた人の語りを理解することに焦点がおかれている。クラパンザーノは、研究者と研究対象であるインフォーマントとの関係を、「人類学者」と「治療者」という隠喩的表現で語っているが、これはオベーセーカラと同様、主体と客体の問題について独自の議論が展開されてきた精神分析理論に負っている。
5.2 体制順応志向――制度的医療人類学
次のグループは「体制順応志向」とも言うべき研究の流れである。これらは現状の医療に対する批判よりも、現在の医療を運営するなかでよりよい視座を文化人類学から得ようとする態度を共有している。この体制順応という言葉には彼らの理念を損なう意味で使っているのではなく、現状に対する不満のエネルギーを理論のより生産的な利用に転化させようとしている彼らの立場や方向性を示すために使っている。
(C)臨床人類学
クリスマンやメレツキに代表される臨床人類学あるいは「臨床的に応用された人類学」であり、人類学の理論成果を実際の近代医学の治療という実践の場において試みるきわめて功利主義的な立場である。そのために調査研究の場も、病院の病棟や診察室、さらには研究室など、近代医療の実践家にとっての現場にねざした空間である。したがって調査研究する者も、専門の人類学者だけでなく、医師、看護者、カウンセラー、作業療法士、臨床検査技師などの業務に携わる人びとにわたっている(池田 1991)。臨床の概念をより拡張すると、地域精神保健や薬物濫用の問題にとり組んでいる人類学者もそのカテゴリーに含めることもできる。
(d)開発医療人類学
低開発国(地域)において、保健衛生計画に関わる領域である。人びとの健康の「開発」に組することを前提に、医療人類学的知識の応用を強調する立場である。このような領域が成長してきた背景には、保健医療計画の実施責任者たちが文化人類学的手法に関心を寄せてきたという事情がある。この分野の歴史的展開については、すでに述べたために(池田 1996)、現在この分野が抱えている問題点を指摘するにとどめておく。それは開発医療人類学の概念や方法の確立され、情報収集がいよいよ体系化されてゆくなかで、調査研究そのものがオートメーション化されているという問題がある。例えば、最初、医療の民族誌のなかで提唱されたクラインマン(1992)の説明モデル(Explanatory Model,EM)は、個々の病気が周囲の人たちにどのように理解されるのかについての概念モデルであったが、臨床の現場で、あるいは地域保健計画の現場で使われるにようになるにつれて、病気の背景にある文化的社会的認識論が問題になるのではなく、即席にその社会の病気認識をしるための方法として理解されるようになった。説明モデルと同様、世帯レベルでの健康状態を把握するために即席の疫学調査手法の規格化がされるようになったが、そのことは訓練を受けた調査者には容易に利用可能することができ、かつ容易にデータを出すことができる手順になってしまった。ある社会の状況を把握するために文化人類学の方法論が、データを得るための作業になってしまったのである。
5.3 批判的医療人類学
最近の動向の三番目の流れは、批判的医療人類学ともいえるものである。これには少なくとも三つの領域がある。それは「保健の政治経済学」「批判的−解釈的アプローチ」あるいは「ジェンダー研究」である。
(e)保健の政治経済学
保健の政治経済学は、シンガー、モーガン、ドナウ、タウシグなど、政治経済に組み込まれた医療状況を批判的に論じる立場である。例えば、低開発国の医療援助について考えてみよう。たしかに、低開発地域では感染症の罹患率が高く、また乳幼児死亡も高い。ただ、そのことをもって開発諸国から医療援助か必要になったのだと結論づけることは性急で思慮深いとは言えないだろう。現実に眼をむければ、医療援助物資が届く前に、低開発国では多国籍製薬企業の売薬が現地の伝統的な薬草を駆逐してすでに浸透していることをみるだろう。また現地で適切に使われるかどうかも分からないような粉ミルクの成分だけをみて、乳児の栄養を改善できると信じることもばかげている。もっと重要なことは母子保健の改善だからである。この種の最大の矛盾は、人口政策にもっとも典型的にあらわれている。低開発国の人びとの保健は開発国である先進諸国の人びとの保健とは切り離して考えることができないのである。
保健の政治経済学の立場を明確に打ち出す研究者たちが、マルクス主義や従属論、あるいは世界システム論に理論的根拠を負うことが多いのは、局所的な現象をより広い文脈の中で理解しようとする際にこれらの理論がそのようなインスピレーションを与えるからに他ならない。
(f)批判的−解釈的アプローチと(g)ジェンダー研究
この保健の政治経済学と深い関係をもつのが、医療人類学における批判的−解釈的アプローチである。これは、医療が文化的に構成されたものであるという見解に立って文化批判の観点から考察する分野である。先に医療人類学の始祖としてのリヴァースの三つの重要な指摘をおこなったが、その最後の主張である「医療は権力関係である」という見解をもっとも色濃く受け継いだ領域といえる。この領域の研究者たちがルカーチ、グラムシ、トムソンなどのマルクス主義的な概念装置を好んで使って医療を批判的にとらえていることが、このことを裏づけている。この文化批判のなかで、もっとも成果をあげているのが、近代医療が人間の身体をどのようなかたちで文化的に構築してきたかというであり、最初はフーコーの精神病やホモセクシュアリティに関する文献、アリエスの幼児や子どもの社会的カテゴリーにかんする思想史や社会史的の研究が、後にはフェミニズム諸理論がそれらの研究に刺激を与えつづけている。フェミニズム研究でもっとも活発におこなわれているものは、女性の医療化に関する現象に焦点をあてたものであろう。生殖技術、出産、月経、更年期=閉経期、身体化、セクシュアリティと医学など枚挙にいとまがない。
6. 医療人類学の挑戦
この論文では、まず医療人類学という学問領域が具体的にどのような内容の研究を包含してきたのかということを、いくつかの分類や論集による指摘によって例示してきた。そして、この分野が誕生するはるか以前にイギリスの社会人類学者リヴァースが「医療」について指摘したことを、医療人類学が受け継ぐべき重要な指摘としてとらえた。次に、最近の動向としての大きくわけて三つの潮流があることを指摘した。しかし、この三つの潮流には、初期の医療人類学が包摂していたいくつかのジャンルが抜け落ちている。最後に、どうして最初にあったジャンルが抜け落ちているか、について説明を加えたい。言うまでもないが、この脱落は不注意に落としたのでなく、意図的に排除したのである。その意図を説明すれば、私が医療人類学という領域をどのように理解しているかということを明確に輪郭づけることができるだろう。私が指摘したいことは、次の四点である。
6.1 自然人類学の影響力の後退
医療人類学は当初、その有力なフィールドとして自然人類学的研究を多く包含していた。現に、自然人類学的な知識は医療人類学を学ぶ上でも不可欠である。にもかかわらず、純粋に自然人類学的な成果のもつ影響力が大きく後退したといえる。どうしてだろうか、それはこれまでに触れてきたように自然科学的な研究そのものが人文社会科学的な医療人類学の研究対象にされることによって、自然人類学が提示するデーターを必ずしも「普遍的」なものと扱うことが困難になってきたからである。これは、医学と文化人類学の混成領域から、より文化人類学的傾向に回帰してきた北米の医療人類学――研究の質量ともにこの学問そのものである――に言えることである。自然人類学的な成果は、もし援用されるにしても、それは折衷されたり、傍証のために使われる傾向がある。もちろん、これはこのジャンルの衰退を意味するものではない。むしろ栄養、疫学、人口に関する人類学的研究は、それぞれ独立の分野をなすほどの学問的基礎ができあがり、今後さらにその傾向を強める方向にあることを示唆する。これは例えばマックエロイとタウンゼントの教科書『生態学的視野かたみた医療人類学』(第2版)を見れば用意に理解できることがらである(McElroy and Townsend 1989)。
※自然人類学および生態学とのつきあい方は21世紀に入って以降、根本的に変化する(2008年後書き)。このため、この部分の見解については変更される予定である。
6.2 歴史研究の位置づけの変化
医療人類学の創生期には、古代医学を研究する医学史家が加わり、その理論的発展に寄与してきた。だが現在では最近まで影響を持ち続けていた進化主義的な思考は現在においては完全に排斥されている。しかし、これはある意味で医療人類学からある種の知識が失われたことも意味する。例えば、現在では古病理学などについて議論されることはめったにない。もちろん、古代人の病態について、現在の「未開人の病態」から比較法をもちいてアプローチする研究は未だに後を絶たないし、これからも完全にはなくならないだろう。しかし、それに批判的な我々は、これらのアプローチが進化の中で登場した人々と現在に生きる人々を混同するという誤謬に同意することはないだろう。古代人が「文化変容」をうける以前の未開人であるという学問的保証はどこにもないからである。 しかし、他方で歴史主義的なアプローチはつねに医療人類学者にインスピレーションを与えていることも事実だ。シゲリスト、マッケオン、マクニールなどの疾病の歴史的な変遷を大きなスケールでみる議論には相変わらず刺激を受けている。またエスノヒストリーや植民地史研究における流行病などの統計・政治・民族誌などの論文はむしろ量産されつつあるといってよい。
6.3 病気の認識論に対する功利主義的理解
医療人類学の創生期には、未開社会での報告にもとづいて、その文脈から遊離した思弁的な病因論が多く論じられたことがある。しかし、現在ではそのような純理論化の傾向の後退は著しい。思弁的な理論の構築よりも、むしろそれを解釈の道具として利用する傾向がより強い。この背景には、病気の分析についての細かい民族誌的な報告、臨床現場での臨床的インタビューの会話分析など、よりそれが生起する社会的文脈に即した研究が出てきて、思弁的な議論を色あせたものにしたという事情がある。また、哲学的には興味深い民俗病因論のモデルを提出するよりも、従来のそれらを利用して、近代医療や現代社会を解釈したり、現実にフィードバックさせようとする応用的な観点に立つ臨床人類学や開発医療人類学が登場したこともこの傾向に拍車をかけた。社会と病気に関するすべての知識は社会的に決定されるという ヤングの論文は、この傾向に対して理論的な保証をしたといえる(Young 1982)。
6.4 マクロとミクロの分析視角をどう扱うかという問題
実証主義的な社会科学には、ミクロとマクロの分析視角をどのように調和させるかという問題がつきまとう。人間の保健を文化人類学的に分析する医療人類学もまた、この問題を抱えている。例えば、健康問題が世界的な視野の広がりのなかでとらえられなければいけない一方で、臨床の現場における診断や治療の決定においてさまざまな文化的社会的影響について議論する必要も他方ではある。現代社会における医療問題を臨床という実践の場から具体的に解決していこうとする臨床人類学の実践と、開発や医療援助、あるいは近代医療におけるへゲモニー問題を通して政治経済的批判を展開し、その国の政策決定に対して注文をつけていこうとする実践が、どのようなところで接点を持ちうるのだろうか。医療現場においてミクロな観点から分析を加える際に過度に功利性を追求すると保健の行動科学研究のように数量化や演繹にもとづくマニュアル化の傾向に拍車がかかり、健康の政治経済学が指摘するように、現実の制度の背景に潜む不正を黙認するだけでなく、科学という名のもとでそれを補完し続けるという弊害すら生む危険性がある。他方、マクロな観点から社会の大きなシステムを批判的に論じても、それがミクロな個々人の保健の実践の場でのやりとりとどのような関係をもつのか明確でないし、また多様な広がりをもつ人間の病気の文化的構築の様子を理解する糸口のところでとどまったままになる。
この冒頭であげた医療人類学の折衷主義的な伝統は際だって異なったアプローチをお互いにとることで人間と「医療」をめぐる現象にさまざまな回答を与えた。折衷主義の生産的な活用とはこのような医療人類学の技法にあるように思われる。
7. 結論 [→はじめにもどる]
1990年代に個人で医療人類学全体の総説あるいは完璧な教科書を書くことは不可能であろう。あるいはもし存在しても、それはきわめて中途半端なものに終わっていることだろう。医療人類学は過去30年以上の学問的な発展の全貌を把握するにはほとんど個人の能力でカバーできる範囲をはるかに越えたところにある。私が個別の論文を読むときに、いまそれが医療人類学であるかどうかと見なす私自身の判断基準は、医療を分析する際にちょうどリヴァースが指摘したような発想との距離の近さによってである。
アメリカ合衆国における医療人類学の誕生において、当時の社会状況が近代医療批判をおこなったことは、その学問のその後の発展の方向性において重大な影響を与えた。近代医療における全体性の回復が、学問の方法・スタイル・理念の中に要求されかつ実際に反映されたのである。アメリカ人類学連合に参加する医療人類学会は毎年若手の意欲的な研究論文を表彰しているがそれはW・H・R・リヴァースの名を冠している。このことの理由は彼がこの学問的領域の先駆的な研究をおこなった以上に、彼の民族医学研究のなかに医療を社会総体の営為として見ようとするモーメントがあり、この領域の学問をおこなうエートスとも言うべきものを形づくっているからではないかと思われる。学問を知ろうとする人は、その学者たちが何をやっているか知るべきであるというC・ギアツの指摘は、すくなくともこの領域の研究にはうってつけの言葉だと我々に思えるのは、この理由からである。
謝辞 この論文の草稿は過去2年間の間に医療人類学研究会(MAO)で断片的に口頭発表されたものである。リヴァースの業績に関しては、パソコン通信以外では公刊されていない中川米造先生古希記念シンポジウムの発表原稿(「人はどのようにして医療の思索者になるのか?――中川米造と医療人類学」1996年7月27日)と一部重複するものである。中川米造先生ならびに佐藤純一氏をはじめとする医療人類学研究会のメンバーとの討論抜きではこの原稿は完成しなかっただろう。ここに記して謝する。
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