かならずよんで ね!

ペーパークリップ作戦

Operation Paperclip

池田光穂

「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。/傭兵のように日々をおくらなければならない。/奴隷のように日を暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む」(ヨブ記 7:1-3)

Is there not an appointed time to man upon earth? are not his days also like the days of an hireling?/ As a servant earnestly desireth the shadow, and as an hireling looketh for the reward of his work:. The Book of Job, 7:1-2.

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第二次大戦中からアメリカは、ナチスドイツの科学技術に関心をもち、ドイツの科学者を占領と共に米国に連れてきて、研究や技術開発に従事させる計画で ある。アニー・ジェイコブセンの表現だと、「ペーパークリップ作戦と は、第二次世界大戦後、ドイツ人科学者たちを極秘の軍事契約のもとにアメリカに連れてきた政府の諜報計画(intelligence program)」と定義される(ジェイコブセン)。

ペーパークリップ作戦JIOA:統合諜報対象局(JIOA, Joint Intelligence Objective Agency)[1945-1962]の承認のもとに、米国陸軍防諜部隊(Counterintelligence Corps, Army CIC)によって実施された秘密作戦である。ただし、これには大きな問題があった。ひとつは、ナチスドイツに忠誠を誓った「体制派」の科学者は、潤沢の研 究費の給付とともにナチスドイツに忠誠 を誓っていた。また、Vロケット開発(V1, V2)のように(空襲に耐え ることができる)地下工場で、ユダヤ人をつかった奴隷労働に従事させていた工員がいた。また、目 覚ましい軍陣医学の進歩は、強制収容所の囚人を使って、非人道的な実験をおこなった末の「成果」であった。実際、医学研究における人体実験を禁止したニュ ルンベルグ・コードは、ニュルンベルク裁判後におこなわれた、通常「ニュルンベルク医学裁判」にもとづいて策定されたものであった。

このため、戦争犯罪を問われた被告たちを、米国に本 国に召喚するのは困難を極めた。しかし、軍部ならびに情報部は、たくみに戦争犯罪者である科 学者たちを、結果的に1,600名以上を招聘し、ビザを与え、医学や化学、あるいは破壊技術に関する兵器開発に従事させることに成功した。その背景には、 戦後に激化する冷戦構造があり、科学者をソビエトに奪うことは、米国の軍事的優位を損なうことになるという「大義」を優先させたようなのである。

"Operation Paperclip was a secret program of the Joint Intelligence Objectives Agency (JIOA) largely carried out by Special Agents of Army CIC, in which more than 1,600 German scientists, engineers, and technicians, such as Wernher von Braun and his V-2 rocket team, were recruited, after the end of World War II, in Germany and taken to the U.S. for government employment, primarily between 1945 and 1959. Many were former members, and some were former leaders, of the Nazi Party." - Operation Paperclip.

第二次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍 が、ドイツ人の優秀な科学者をドイツからアメリカに連行した一連の作戦のコード名で、主に統合諜報対象局 (Joint Intelligence Objectives Agency, 1945-1962) が主導する。

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■オーゼンベルグ・リスト:1943年ゲーリング[辞令は1942年6月9日]の命令により全独の科学者を戦争協力に動員するためにヴェルナー・オゼンベルグにより作られたリスト(pp.47-48)。

15,000名の研究者、14,000の研究施設からなる、ナチの戦争協力の科学者 のリスト。皮肉なことに、戦後のポーランドで偶然発見されてナチの米国への「組織的頭脳流出作戦」ともいえるペーパクリップ作戦のための、強力な追加のリストになる。

"In the later part of World War II, Nazi Germany found itself at a logistical disadvantage, having failed to conquer the USSR with Operation Barbarossa (June–December 1941), the Siege of Leningrad (September 1941 – January 1944), Operation Nordlicht ("Northern Light", August–October 1942), and the Battle of Stalingrad (July 1942 – February 1943). The failed conquest had depleted German resources, and its military-industrial complex was unprepared to defend the Großdeutsches Reich (Greater German Reich) against the Red Army's westward counterattack. By early 1943, the German government began recalling from combat a number of scientists, engineers, and technicians; they returned to work in research and development to bolster German defense for a protracted war with the USSR. The recall from frontline combat included 4,000 rocketeers returned to Peenemünde, in northeast coastal Germany.[11][12]./ The Nazi government's recall of their now-useful intellectuals for scientific work first required identifying and locating the scientists, engineers, and technicians, then ascertaining their political and ideological reliability. Werner Osenberg, the engineer-scientist heading the Wehrforschungsgemeinschaft (Defense Research Association), recorded the names of the politically cleared men to the Osenberg List, thus reinstating them to scientific work.[13]/ In March 1945, at Bonn University, a Polish laboratory technician found pieces of the Osenberg List stuffed in a toilet; the list subsequently reached MI6, who transmitted it to U.S. Intelligence.[14][15] Then U.S. Army Major Robert B. Staver, Chief of the Jet Propulsion Section of the Research and Intelligence Branch of the U.S. Army Ordnance Corps, used the Osenberg List to compile his list of German scientists to be captured and interrogated; Wernher von Braun, Germany's premier rocket scientist, headed Major Staver's list.[16]" - Osenberg List.

ジャーナリズムを含むこの種の研究の存在がより明確 に明らかになるのは、1998年のアメリカの「ナチ戦争犯罪情報公開法(Nazi War Crimes Disclosure Act, (5 U.S.C. § 552 note), 1998)」の制定後のことらしい。

■医学研究に関わったナチの科学者のリストとしては 「生物兵器(biological weapons)・化学兵器(chemical weapons)・ 航空医学ないしは宇宙医学(space medicine)」のものがある。

ペーパークリップ作戦名簿(リスト)

人名に関するものは英語版OPの重要なリクルートされた人名リストである「Operation Paperclip - Key recruits 」の他に、それを再掲したものを含む「ペーパークリップ作戦名簿」を参照されたし。

■ペーパークリップ年表(The chronology of the Operation Paperclip)


1929 年末。ベッカー博士(Lieutenant Colonel Karl Becker of the GermanArmy Ordnance Office)管理のもとでの陸軍兵器局・弾道弾薬部が、陸軍省よりロケット推進の研究・開発について指令をうける。

1930 ドルンベルガー、陸軍兵器局・弾道弾薬部の検査官に任命され、個々の研究団体と契約。

1931 アルベルト・シュペーア、26歳でナチに入党する (33)/この年はハーバー=ボッシュ法を生み出したカール・ボッシュがノーベル化学賞を受賞した年。

1932 

オイゲン・ハーゲン、ロック フェラー財団(NY)の特別研究員に採用される。(ハーゲンは黄熱病ワクチンの開発に従事、1937年にはノーベル賞候補になる。戦後はドイツのソ連占領 地区に逃れる)

グムメルスドルフ西部研究所設立

10月1日 ドルンベルガーの推薦により、ヴェルナー・フォン・ブラウンが陸軍液体ロケット研究所に入所。

12月21日 最初のロケットエンジンの静的実験がクムメルスドルフで行われるが爆発して失敗する。

1933 

3月全権委任法可決。フランクリン・ルーズベルト大統領就任 (1933年3月4日〜1945年4月12日)

ロケットエンジンの成功と、集合体(ロケット)の完成

1934

1935 9月15日 ニュルンベルグ法の発布

アーネンエアベ(ドイツ先史待代研究のためのドイツ人遺産協会)協会が設置された(リヒャルト・ ヴァルター・ダレの農業省)。

A3の開発スタート。

1936 

ティール博士の参加、25トンロケットエンジンの開発はじまる。A4計画の最初の計画案が決定。

8月 ベーネミュンデ研究所建設開始。

"In late 1936, while employed by the Argus Motoren company, Fritz Gosslau began work on the further development of remote-controlled aircraft; Argus had already developed a remote-controlled surveillance aircraft, the AS 292 (military designation FZG 43)." - V-1 flying bomb.

1937 

夏 ワルズィッツ大尉、クムメルスドルフで開発されたロケットエンジンを装着したハインケル(Heinkel)-111の飛行に成功。

V-1V-1

V-1カットモデル模式図と運搬風景(1944-1945年頃撮影か)

++

11月日独伊三国防共協定成立

12月4日 最初のA3試験打ち上げ実験がオイエ島で実施。

1938 

3月オーストリア侵攻(ドイツ・オーストリア併合)

夏、A5ロケット実験(オイエ島)

11月水晶の夜

1939 

この年、プラハ進撃

親衛隊業務管理本部(SSBAMO)が、国内的な 奴隷労働ネットークを整備(40)。

夏 ロケット推進エンジン搭載のハインケル176(Heinkel He 176)がペーネミュンデで飛行に成功。

9月「T4行動」がはじまる。/9月1日ドイツの ポーランド侵攻、英仏の宣戦布告により、ヨーロッパでの大戦がはじまる。11月30日ソ連、フィンランドへの侵攻(国際連盟除名)

1940 

3月21日 ペーネミュンデで、25トン(payload)ロケットエンジンの最初の実験。

5月-6月 オランダ降伏。デンマーク、ノルウェー、ベルギー、フランスがドイツ占領下に入る(→ Nazi Mode Collection in 28 June, 1940.)。

7月16日 最初の大陸間ロケットの草案。

9月日独伊三国同盟成立。アインシュタイ ンはアメリカ国籍の証明書を受ける(374)

1941

3月1日 のちにアウシュビッツ収容所となる場所に、ヒムラーが視察。収容所の拡大と工場建設のために囚人1万人をIGファルベンに派遣するように命じる(→「アウシュヴィッツ年表」)。

8月20日 ヒトラー、V2の実戦準備を命令。

10月29日 地対空ロケット計画(ゲーリングが命令するのは約1年後の9月1日)

1942

    1月 ヴァンゼー会議開催

    2月 軍需大臣フリッツ・トート飛行機事故で死亡。シュ ペーアが後任に指名。

    夏 海中潜水艦よりロケットの水中発射の成功

    7月8日 A4を地球の高層研究に利用する計画案を検討。

    9月1日 ゲーリング、地対空ロケット開発計画を命令

    10月3日 A4つまりAggregat 4 (A4)[V-2ロケット]打ち上げ成功。

1943

    6月7日収容所は、クルップ社のドイツ人従業員用に収容所内の工作室を貸し与える。IGファルベン(国策トラスト)やシーメンス社のほかに数百社のドイツ企業が参加し、ユダヤ人奴隷労働者を酷使する(→「アウシュヴィッツ年表」)。

    7月7日 ヒトラー、V-2ロケット計画[Aggregat 4 (A4)]を最優先するように指導。

    8月 ヒムラー、シュペーアとともにヒトラーに謁見。強制収用所の囚人を奴隷労働に使うことを提案。107名がブーヘンヴァルト収容所から ミッテルヴェルクに移送(38)。

    8月17-18日 ベーネミュンデへの最初の連合軍空襲

    8月末 Aggregat 4 (A4)[V-2ロケット]のユダヤ人奴隷労働を使った大量生産の開始。

    9月5日 ブリツナの444砲兵隊によりV-2の最初の実戦訓練。

1944 

    2月5日 「ワッサーファル」の打ち上げ成功

    6月6日 ノルマンディー上陸作戦

    6月13日 ロンドンにV-1ミサイルによる最初の攻撃(29)。

He-111 and He 111V-1

He 111H-16 with a V-1 flying bomb, 8 August 1944 とV-1カットモデル模式図

(left: A German Luftwaffe Heinkel He 111 H-22. This version could carry FZG 76 (V1) flying bombs, but only a few aircraft were produced in 1944. Some were used by bomb wing KG 3)

9月 イギリス統治下のパレスチナのユダヤ庁は、イギリス軍の傘下でナチと戦うことを決定し、チャーチルの承認のもとでユダヤ人戦闘部隊(Jewish insurgency in Mandatory Palestine)が編成される。

    9月5-6日 V-2、初めての実戦打ち上げ。

    12月27日 V-2改良版?(A9, A4b)の打ち上げ失敗。

    Aggregat rockets compared

    Aggregat rockets compared (rocket family)

    11月23日 ストラスブール解放。26日ゴー ズミットは〈アルソス作戦 Alsos Mission〉の極秘任務を遂行(24)

    12月9日 ファーラール城のパーティでV-2ロケットの披露目(29, 33-34)。それに遡る午後3時20分、アントワープのレックスシネマにV-2が命中、死者567人(35)

1945 

    1月17日 アウシュビッツ=ビルケナウ収容所(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)では、ドイツの敗北を予想して脱出の準備がはじまる(撤収は1月23日)。

    1月18日 死の行進はじまる(ブナ収容の9000名の収容者の6割=5,400名が死亡)

    1月21日 最後の撤収命令(55)

    1月24日 A9打ち上げ成功

    1月27日 アウシュビッツ解放

    2月14日 A4、ベーネミュンデから最後の発射。

    2月17日 ベーネミュンデから撤退。(3月ソ連軍占領)

    4月12日 ルーズベルト急死、トルーマン大統領就任。

    4月29日 SS指導者ヒムラーが無断で連合国に降伏を通告。

    4月30日 ヒトラー総統地下壕で自殺。

    4月:FIAT (〜1947): "Early in 1945, foreseeing a vastly increased military and civilian interest after hostilities ended in Germany, Secretary of War Stimson had sent his scientific consultant, E. L. Bowles, to Europe to help set up a single high-level scientific and technological intelligence organization. Later, in April, among his other assignments, General Clay had acquired the job of working with Bowles in carrying out the mission from the Secretary of War." - FIAT.

    5月2日 ドルンベルガー、ヴェルナー・フォン・ブラウン、米軍に投降。

    5月8日 ドイツの降伏(ナチスドイツの消滅)

    6月20日 OSSArmy CIC [Counterintelligence Corps]は、ペーパークリップ作戦の前身の「オーバーキャスト作戦(Operation Overcast)」発動する("In March 1945, at Bonn University, a Polish laboratory technician found pieces of the Osenberg List stuffed in a toilet; the list subsequently reached MI6, who transmitted it to U.S. Intelligence"- Osenberg List

    11月 「オーバーキャスト作戦(Operation Overcast)」は、ペーパークリップ作戦に改名。

    11月20日〜1946年10月1日 ニュールンベルク裁判Nuremberg trials

1946

4 月26日 On April 26, 1946, the Joint Chiefs of Staff issued JCS Directive 1067/14 to General Eisenhower instructing that he "preserve from destruction and take under your control records, plans, books, documents, papers, files and scientific, industrial and other information and data belonging to ... German organizations engaged in military research";[15]:185 and that, excepting war-criminals, German scientists be detained for intelligence purposes as required.[44] - OP.

9月3日 Operation Paperclipは、トルーマン大統領に承認されるのみならず、適応される要員の範囲を拡大。

10月1日 ニュールンベルク裁判Nuremberg trials) 閉廷

12月9日(〜1947年8月20日)ニュルンベルク医師裁判(Nürnberger Ärzteprozess)医師裁判を含む12の継続裁判は1949年4月13日[大臣裁判]に結審

1947

2月1日アメリカ科学者連盟(FAS)はニュー ヨークでトルーマン大統領に公開書簡を認めOP(ペーパークリップ作戦)の中止をもとめる声明(373-374)。FIAT ended in 1947, when Operation Paperclip began functioning.

8月22日 クネーマイヤー渡米(371)

この年の冬:陸軍省は、OPに関する情報公開を禁 止する(376)。

マハトハウゼン-グーゼン強制収容所(Mauthausen-Gusen concentration camp complex)の生存者サイモン・ウィーゼンタール(Simon Wiesenthal, 1908-2005)はナチ敗戦後から米軍の戦争犯罪セクションと協力しナチ戦争犯罪者の調査と捜索活動に従事していたいた。ウィーゼンタールは、この年、30名のボランティアとともに、リンツに「ユダヤ人歴史資料センター(Jewish Historical Documentation Centre)」を開設し、ひきつづきナチの捜索(ナチ・ハンティング[Nazi hunter])続ける。この活動は(アイヒマン捜索活動を除いて)1954年にイスラエルのヤド・ヴァシェム・アーカイブ(Yad Vashem)[国立ホロコースト博物館]に寄託されるまで続いた。

1949 

1949年4月13日[大臣裁判]に結審

5月23日連邦共和国臨時政府(西ドイツ)が誕生

ゲーレン機関は、CIAに吸収される。

1952 

西ドイツの方針をめぐりJIOA(統合諜報対象局)とCIAの足並みが崩れ、ペーパークリップ作戦に陰りがでる(519)。

同年冬、トルーマン・リスト1,000名のみの米国へのリクルートは継続して承認(OPで渡米は600名の科学者、ドイツ領内には400名が残っていた)(520)。JIOAとCIAは、新たな科学者のリクルートをやめることを決定

1954 ウィーゼンタール、ナチハンティング情報を、イスラエルのヤド・ヴァシェム・アーカイブ(Yad Vashem)[国立ホロコースト博物館]に寄託する。

1955 

5月5日ドイツ連邦共和国主権を回復、同時にNATOに加盟。

1955-1958 フォン・ブラウンが、イタリアで研究していたロケット科学者ヘルマン・オーベルト(Hermann Julius Oberth, 1894-1989)を米国に招聘する。

1956 ゲーレン機関がBND(連邦情報局」Bundesnachrichtendienst)になる。元ナチの諜報員はドイツ連邦共和国大統領の指揮下に入る。

1957 JIOAに、ヘンリー・ウェーレン中佐が配属される(521)。10月8日ソ連、スプートニク1号(Sputnik 1)の打ち上げ成功。

1958 2月7日高等研究計画局, ARPA(Advanced Research Projects Agency, 1958-1972)が設置。同時に国防総省研究技術局が開かれる(522)。

1959 ウェーレン中佐は、JIOAの副局長に就任。

1962 JIOAの解散(実質的なOPの終了)。残務処理は、国防総省の研究技術局に引き継がれる。

1963 元JIOA副部長ウェーレン中佐はGRU(ソ連参謀本部情報機関)に機密情報を提供していたことが発覚(FBI)

1972 ARPA(Advanced Research Projects Agency)がDARPA(Defense Advanced Research Projects Agency)に改名される。

1990 10月2日ドイツ統合

1996 シュペーア、回顧録出版、その中で1944年末での視察 によりドイツの敗北を予想(44)

1998 10月8日米議会「ナチ戦争犯罪情報公開 法(Nazi War Crimes Disclosure Act, P.L. 105-246)」を可決

2000 12月27日米議会「日本帝国政府情報公開法(Japanese Government Disclosure Act, P.L. 106-567)」を可決



ニュールンベルク裁判Nuremberg trials) と、ニュールンベルク継続裁判Subsequent Nuremberg trials

■占領軍側の用語

■ナチ用語

■類似の作戦(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Paperclip#Similar_operations

■さて、同名の広闊な文献と現地調査にもとづく同名 の書籍を公刊したアニー・ジェイコブセンさんの『ナチ科学者を獲得せよ』太田出版(2015)/Jacobsen, Annie, Operation paperclip : the secret intelligence program that brought nazi scientists to America. NY: Little, Brown and Company. 2014.(Google books)(CIA による紹介)(Operation paperclip に関するジェイコブセンさんの講演

■図像


https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/map/major-nazi-camps-in-europe-january-1944
田村光彰『ナチス・ドイツの強制労働と戦後処理』社会評論社、 p.42、2006年

アウシュビッツの3つの収容所のうちの、第3収容所IG(イー・ゲー)ファルベン。囚人のいたバラックはモノヴィッツと言うが、彼らは「ブナ(人造 ゴム)」と呼んでいた。

■SSの組織図(Organogram of the SS, )

+Source: Other Military and Auxiliary Organizations, from Tchnical Manual: "Handbook on German Military Forces" (TM-E 30-451) War Department, 15 March 1945.

■V-2ロケットの構造(出典:https://goo.gl/dZUbrU)とHermann Oberth, Wege zur Raumschiffahrt (1929)

+

「1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、 宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、 1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマ チュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。/フォン・ブラウン らはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量 500 kg)の飛行実験を成功」(出典:https://goo.gl/dZUbrU

■OPが戦後の軍事技術に果たした「貢献」

■Annie Jacobsen の依拠した資料

■学者たちのキャリア・デザインからみた「帝国科学評議会」と「ペーパークリップ作戦」(→詳しくは「ナチス医学関係者との戦争犯罪と戦後の科学研究の継続性と断続性」を参照)


■諜報=インテリジェンス概念のおさらい(出典:「インテリジェンス(intelligence)」)

インテリジェンス(intelligence)とは かつて諜報(ちょ うほう)と翻訳されていたことばを外来語として読み直したものである。Google - Dictionary によると二番目の意味に、2. the collection of information of military or political value(=軍事的または政治的価値のある情報収集)とあり、その同義語(synonyms)として「 information gathering(情報の収集), surveillance(監視), observation(観察), reconnaissance(偵察), spying(スパイ行為), espionage(スパイ活動), undercover work(諜報), infiltration(潜入[調査]), ELINT(電子偵察:electronic intelligenceの略号), HUMINT(人間諜報活動:Human intelligence), cyberespionage(サイバースパイ活動), humint(情報分析)」からなる。

それらをまとめると、軍事あるいは現実政治(リアル ポリティーク)の世界で、秘密裏にすすめられる、人または通信や機械(コンピュータ)を使っておこなわれる、(1)情報の収集、(2)蓄積、(3)分析、 (4)報告、そしてそれに基づく(5)作戦遂行、の5要素が諜報=インテリジェンス[intelligence](あるいは軍事的インテリジェンス: military intelligence)である。

デザイン思考の図式を使って表現すると以下のようになる。


ナチス・ハンティングとインテリジェンス

軍事的インテリジェンスの人類学序説

リンク(動画)

リンク

文献

その他の情報

Maya_Abeja

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2019

池田蛙  授業蛙 電脳蛙 医人蛙 子供蛙


JN Special Naval Landing Forces troops in gas masks prepare for an advance in the rubble of Shanghai. Chemical weapons were utilized against the Chinese during the battle.
-Imperial Japanese Navy photo from Brent Jones collection

 Jedem das Seine, "Everyone gets what he deserves," - 誰もが自分に足るものを受ける(Annie Jacobsen, "Operation Paperclip" のビデオより)