逐電の記
(ちくでんのき)

弁士:池田光穂
「あんさん(=あなた)のページは、時々わからへん(=わかりにくい)」というご指摘をいただきました。たとえば、このページですが、以前は、逐電の記(ちくでんのき)と書いてあるだけで、赤と黒の2つの年表が並記してありました。この二人はフランソア・ラブレー(Fancois Rabelais 1483--1553)とミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin,1895−1975)の年表です。2人が生きた時代と、場所は全く異なるものですので、解説は不用とは思いましたが、やはり後から考えると不親切の極みです。反省しております。
では、どうしてラブレーとバフチンなのかというと、前者は、後者がカーニバル論(ないしはカーニバル文学)として取り上げた著名な研究に由来します。バフチンにとって重要な作家は、セルバンテスやドストエフスキーなどがあげられますが、カーニバルのバフチンというと、ラブレーの存在は無視することができません。また、クラークとホルクイストによるバフチンの伝記によりと、隠棲的な生き方あるいは著作における複数の著者性(バフチンはヴォロシノフやメドヴェージェフという実在するあるいはペンネームで書くことでスターリズム下の政治状況を生き延びた――医師であったラブレーの評判は毀誉褒貶であり、また偽作やペンネームあるいは正体すら不明の点が多い)など、私(池田)はラブレーとの人生の比較をおこない、年表における対話論理を実践してみたい気に駆られます。
バフチンの有名な真理観は、特定の唯一の視点(単声的論理)から絶対的なものをみるというものではなく、(i)複数の視点から複数の可能性のある声が交錯するポリフォニー(多声)なものであり、また(ii)それらの複数の声は互いに対話して別のものに展開する(対話的論理→「対話論理」)というものです。
また、これも有名なバフチンのテキスト論があります。それは、小説(とりわけドストエフスキーの作品)を、批評家が登場人物と対等な視点にたつ内在的な理解も、また、歴史的所産やイデオロギー作用の結果(=表象)として読むことにも彼は限界を感じます。ではどうすればよいのか?――バフチンによれば、小説の登場人物は、それぞれ個性をもった人格であり、読者からは解釈されることを待つ主体であると同時に、 自らが何者であるのかについて行為や発話を通して主張するというものです。【バフチンのテキスト論】
ここには、どの人物のどの主張のなかに「真理」があるわけではなく、対話をおこない、複雑な動きをしている多元的な状況そのものが、「ありのまま」の真実であるということです。この「ありのまま」という表現は、日本人には「自然に」とならんでありきたりの用語ですが、肯定も否定もされない点で価値中立的であり、また安易な道徳的判断を拒絶します。そしてありのままが基調となるのは、事物の複数性、視点の多様性ということに集約されます。どこか文化相対主義と似ていますね。【バフチンの真理観】
■ 文献
クラーク,カテリーナとマイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』川端香男里・鈴木晶 訳、せりか書房、1990年
1483 この世に生を受ける(1553年に70歳で死亡説「ラブレー遺産相続書」の記録による)
1494 この世に生を受ける(この時11歳という説もある)
1895 この世に生を受ける
1520 フォントネー・ル・コント・フランシスコ会修道院の修道士となる
危険な古代ギリシャ語を学び、ヘロドトスのラテン語訳を試み、ビュデと文通する。
1525? リギュージェ修道院長の秘書役(ベネディクト修道会)
1927 ボロシノフ名義で『フロイト主義』を公刊
1528 無許可で修道着を脱ぎ在俗の司祭になりすます。
1928 メドベジェフ名義で『文学研究における形式的方法』を公刊
1929 本名で『ドストエフスキーの創作の諸問題』公刊。ボロシノフ名義で『マルクス主義と言語哲学』公刊
1530 モンペリエ大学医学校に登録、11月医学得業士
1531 ギリシャ語原典により古代医書を講じる(大学史上初めてという)
1532 リヨンに出没、『ヒポクラテスならびにガレノス文集』翻刻注解などを公刊す。
リヨン施療院の医師として活躍。同時に変名で『第二之書』を公刊、類似の戯作小品を本名で公刊、しかし、医学博士ならびに占星学教授という怪しげな肩書きを僭称。パリ大学神学部より異端の名誉を戴き、発禁処分を受ける。
怪しげな図書が収載されている「サン・ヴィクトール図書館蔵書目録」。
1534 弟のパリ司教・駐ローマ大使ジャンJean du Bellayの侍医兼秘書となる(1534年、35〜36年、47〜49年ローマその他に外遊し、フランスより逃れる)。この時『第一之書』公刊
1537 モンペリエ大学より医学士ならびに博士号を取得、死体を用いた解剖学を講じる。
1938 大粛正の時代
1546 『第三之書』公刊
1551 司祭食禄を得る(39〜40年、41年、42年:イタリア・トリノ滞在)
1552 『第四之書』公刊、この年の秋、投獄の噂がリヨンに流れる。
1553 1月、2年間に渡って得た食禄を辞して、その後行方知らず。
1963 1929年公刊の改訂版『ドストエフスキーの詩学の諸問題』を公刊
1564 『第五之書』公刊されるが、それまでの売れ行きから偽書との噂が絶えず。
1965 『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』公刊
1975 死亡、『文学と美学の諸問題』公刊
1979 『文学と美学の諸問題』
ミハイル・バフチン
Михаил Михайлович Бахти Mikhail Bakhtin/1895−1975
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