CSCDスペシャルコラム

場所で変わる対話の不可思議?:臨床コミュニケーション的思考のすすめ

池田光穂

場所で変わる対話の不可思議?:臨床コミュニケーション的思考のすすめ

CSCDの池田光穂先生が、授業や会議の写真を撮りまくる理由は? 今回のコラムは、文化人類学者による臨床コミュニケーションのすすめ。

池田 光穂(いけだ みつほ)

CSCD教授。専門は、中央アメリカ地域をフィールドにする文化人類学(とくに医療人類学)。国際保健医療協力のボランティアとしての活動経験から、多元的医療体系についての文化人類学的理解について長年研究をおこなう。最近は「現場力」に関する理論的考察や、中央アメリカの先住民族の人たちの文化的アイデンティティと国民国家の関係、さらには自然界における人間の宇宙論的位相(オカルトのそれではなく文化人類学という領域のなかで)も手がけている。
スタッフ紹介


banpaku_meetingroom3.JPG 2005年にコミュニケーションデザイン・センター(CSCD)が、学内の共同利用施設として産声をあげた時、その場所は千里万博公園の万博記念機構の施設の中にあった。今でもそうだがCSCDのシンボルカラーはオレンジ色。CSCDの大会議室は、オレンジを基調にした椅子、そして会議の机はなんと丸テーブルだったのである。このデザインカラーといっけん奇抜なアイディアの「源泉」は言うまでもなく、鷲田清一・前総長である。鷲田先生は、人間は異なった空間に人間が配置されるだけで、その環境におかれた人間のあいだのコミュニケーションの質が変わると喝破されて、全国の大学でも極めて先進的な本センターの基本的なデザインの構想に細心の配慮をもって取り組まれたのである。

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 はたしてその目論見は成功したか?----私の答えはイエスだ。高度職業専門人としての大学教員が、そこで働きたい場所として憧れるのは、たぶんかつてはオックスブリッジの学寮やプリンストンの高等研究所のような高尚で重苦しい知的錬成の場であっただろう。しかし現代の若い教員たちは、もっと自由で創造的な職場で働きたい人が増えてきたのではないか。そのような場所は例えば(いまは多少色あせただろうが)マサチューセッツ工科大学のメディアラボであり、いまだったら西海岸のアップルコンピュータやグーグルの遊び場のような職場だろう。もちろん、このような所で働けるのはまさに学歴背景なんかは不問にされるほど厳しい競争に勝ち抜いた一部のエリートだけかもしれない。また大人の遊び場でくり拡げられるのは熾烈なビジネスアィディアをめぐる「戦争」かもしれない。しかし『フィッシュ!』で有名なシアトルの魚市場など、楽しくて活発で、ユーモアや余裕のある場所ではじめて、活発なコミュニケーションを生むことは、エリートカルチャーだけではなく、さまざまな階層のなかで、今や共通の出来事として認識されているようだ。私の専門とする人類学においても、途上国地域への社会経済開発的関与には(当該の文化におけるコミュニケーションの基調守りながらその文化で許された)ユーモアや楽しみを極力尊重すべきだというポリシーを取ることはより一般的になっている。

 恥ずかしいことに、この「真理」に私は万博記念にいた時代にはほとんど気付くことがなかった。しかし、現在の職場である、大学教育実践センターに3年前に移転してきた時、我がメンバーたちのお気に入りの会議室がスペースの関係でなくなってしまった。しかし、組織にとって会議は必要なので、その開催場所は何の変哲もない味気ない、いかにも大学の大会議室という無味乾燥な場所になってしまった。その環境の変化なのだろうか、心なしか我がセンターのメンバーたちもまた「ふつうの大阪大学教員」----これはユニークを尊ぶ私たちにはものすごく侮蔑的なニュアンスをもつ----になってしまった。私は、この大学のふつうの教員のアイデンティティ(ふつうの教員)を持つことが問題ではないと思う。むしろ、ふつうの大学のコミュニケーションをおこなうふつうの集団になる「変容」がここでは問題なのだ!

 こんなことを経験するうちに私は、教室のスペースやその空間利用のやり方に関心をもつようになった。空間は、教員や学生・院生を動かして、教室のなかで生まれるさまざまな思いつきを創造し、彼/彼女らになにか新しいワクワクしたものを自覚させるという経験的「事実」に、とりわけ興味をもつようになった。これは私の職業(=文化人類学者)的関心でもあるのだが、対話型の授業の時に、受講生をサクサク動かして、さっさと議論に入りこませるためには、想像力を刺激する教材もさることながら、教員の身体の動かし方も非常に重要になることがわかった。今の私たちの授業は100パーセント対話型でやっているが、このような授業運営も一朝一夕で覚えられるわけではない。毎度毎度、反省会をやったりして調整をしているが、事前の打合がうまくいかず、教員の間で授業中に齟齬を起こすこともしばしばだった。なぜなら、臨床コミュニケーションの授業は担当する教員は毎回授業に「参加」することになっているからだ。

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 もちろん、対話型の授業は、お客様(=受講者)のレスポンスや議論の盛り上がり方次第であり、ドツボに堕ちることも甘美な天上にのぼることも、ほとんど開始前には予測できないきわめてリスキーな時空間である。しかし、人間の慣れというものは恐ろしいもの(そして畏敬すべきもの)で、毎回の授業で、身体を動かし、受講者と顔を合わせる毎に、つまり開講回数が進行するにつれて、受講者も教員もさっさと中核的な議論に入っていけるようになる。それは意識が授業の課題に集中できるというメンタル面だけではなく、いつもの議論ができるような空間配置の中に置かれると、身体のほうがさっさと議論する場所に移動して(=身体が自動的に向かって)、さっと座って簡単な自己紹介をやりながら、もう頭は議論に容易に集中することができるようになると言ったほうがよい。

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 これらの教員と受講者の同時進行の「成長」は毎回参加するごとに変化していき、その都度発見があって楽しくてしょうがないというのが私の実感である。本当は、このような「成長」が教員同士のあつまり----例えば教授会----になくてはならない経験だと思うのだが、結局のところ、開催されるのは、あの味気ない(事前に使用許可申請が必要な)会議室なのである。身体を自由に議論に向かって解放できないとは、実はこんなに不自由なものだったのかと今さらながら痛感する。

 これまで述べてきたようなものが、本当にエビデンスがある確かな主張なのか、読者の方は疑問に思われるかもしれない。でも私にとっては、そんなことの「科学的根拠」などが明らかになることよりも、やはり明日の授業をそして明日の会議をワクワクする楽しい経験にする実利的かつ経験主義的な「確信」のほうが重要である。この科学的厳密性と、経験主義的確信をブリッジするために、私は携帯電話で授業中や会議中に頻繁に写真をとることが癖になった。なぜだろう。私的な映像記録は、その時の議論の内容についての備忘になるだけではなく、その時の様子や活性化/不活性化の状況のなかで「私たちの身体」がどのように置かれているのかを、事後的に反省する材料になる。不鮮明な写真でも人の空間的配置と人々の姿勢がわかれば、その時の議論がどのようなものであったのか、またその時の「私の情動」は果たしてどのようなものだったか、そういうことを想起するための重要な手がかりになるのである。私の行動は、いっけん授業や会議の写真を撮りまくるヲタ(=おたく)のようだが、私には重要な思考の道具なのである。皆さんも御自身の流儀で、授業の現場における参加者の身体配置を考察することを勧めてみたい。臨床コミュニケーションとは、私にとっては、このようなスタイルにおける現場の思考のことを指し示している。

(いけだ みつほ/大阪大学CSCD教授)