CSCDスペシャルコラム

「研究の社会的責任」の四年間

「研究の社会的責任」の四年間

大学院生たちが、アカデミックな研究が現代の社会状況や文脈の中でどのような位置におかれているか、自分たちの知識や能力、専門性をどのような方向に伸ばし、またそれを活用するかについて考える授業、「研究の社会的責任」。4年間の授業からみえてきた、大学と社会の現状と課題とは?

高田 珠樹(たかだ たまき)
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CSCD教授。専門は、哲学・現代思想。
もともとハイデガーを中心にドイツの哲学・思想を研究してきたが、現代ドイツの様々な動きに関する授業を担当しており、思想に限らず現代社会の諸問題に関心をもつ。インターネットを通して発信される膨大な量のラジオやテレビのニュースや討論、教養番組を、各種端末プレーヤーで随時視聴するのが日課。視聴覚メディアを授業や教養教育に用いる方策を試行している。

スタッフ紹介


 大阪外国語大学が大阪大学と統合してこの秋で四年になる。統合した際に、外国語学部からこちらコミュニケーションデザイン・センター(CSCD)に移ってきた。といっても、個人としては今でも外国語学部で「専任教員」と位置づけられており、ほとんどの授業は外国語学部のある箕面キャンパスで行なっている。全学的な会議は吹田キャンパスで行われるのが普通だから、会議などが多い時期は、正直なところ、授業との兼ね合いで、キャンパス間の移動が結構大変である。統合後、実際に大阪大学としての新しいカリキュラムは翌年の春から始まったが、私はCSCDのコミュニケーションデザイン科目のひとつとして、「研究の社会的責任」という科目を豊中キャンパスで担当してきた。今では大学の大概の授業がそうだが、この科目も一学期分の科目で、春に始まる学期で行なってきたから今年度はすでに終えており、これまで都合四回これを行なったことになる。履修者数が長期低落傾向にあるのに加え、統合後四年を経て科目の構成が比較的に自由になることから、今年度で一旦閉じることにした。

 とりあえず哲学が自分の研究分野ということになっており、哲学も以前のような古典的な文献の読解をやっていればよいという時代でなくなっているから、社会が直面する諸問題に哲学の研究者が向かい合うのは、当然、時代の要請である。ましてや、大学に籍を置く以上、自身に対しても、学生に対しても、研究者としての社会的責任の自覚を促す授業を積極的に担うのは当然ではある......。と勇ましく言い放ちたいところだが、昔からこういった倫理的な問題に直接に関わることには、多少、引っかかりを感じてきた。授業でこれを担当することもあまりなかった。倫理や責任を論じるのは、どこか他者に一定の価値観や道徳的な行為を求めるような気がするし、そもそも他人に倫理を求めるとなると、何かと自分の姿勢も問わなくてはいけないから荷が重い。哲学は、もともと多少へそ曲がりな学問だから、世の中で通用しているルールを疑うことの重要性を説いたりもしているので、何らかの定まった価値観に収斂することが期待されるようなところには、どうしても二の足を踏んでしまう。一度、他の哲学研究者たちと雑談していて、私がこの種のことを言ったところ、自分もそうだという人が何人かいたから、普段、似たようなことを思っている人は意外に多いのかもしれない。もちろん、社会の一員として生きている以上、没価値的なところに安住できようはずはない。それどころか、「腹立ち日記」という誰が言い始めたか知らない言葉が、自分の心情にいちばん合っていると思われるようなときもあり、その際には自分なりに、人間の振る舞いとはこうであるべきだ、という漠然とした要請が、当然、それなりに働いている。ただ、それはあくまで身辺のこまごました事柄についてのものだし、考えてみると、そこにも大概のところ同時に自分自身の中にある様々の身勝手な動機も目に付くから、到底、世間の倫理として一般化できるものではない。

 ともあれ、統合や教員の所属先の変更、各教員の担当科目の決定、それと当時たまたまCSCDに寄せられた付託などが重なり、いささか慌しい事情の中から、長年、ひるんできた倫理的な主題に関わることになった。現在の大学を取り囲む事情からすると、これは、研究費の不正流用やデータの捏造など、研究に対する社会の信用を揺るがしかねない事案が何件か続出したことに対して、大学院教育の段階でこれらの問題について考える機会を与えることが求められているという事情があった。

 ただ、ふたを開けてみると、もとからさほど多くない履修者の中でも、狭い意味で研究者を将来の職業として考えている大学院生はごく少数だった。年によっては皆無であった。大学院生が増えているわりには、研究職の門戸はむしろ狭くなる傾向にあるのだから、研究者としての道を歩むことを学生たちが忌避するのは、むしろ当然の成り行きである。もちろん、大学院に在籍しているのだから、少なくとも世間でそういった分野に疎い人から比べれば、専門的な知見はそれなりに持ち合わせている学生が多い。大学や研究機関に残らず、一般企業などに就職しても開発などに関わる広い意味での研究者となる学生は少なくないだろう。ただこの種の概説書や入門書などによって説かれる、研究者になることを目指す人たちの心得などは、承知しているに越したことはないと言っても、授業では時に場違いな感じもした。

 年によって履修者の人数や所属も異なるから、やり方を一定にするのも難しい。最後の年になった今年の場合、おおむね講義のような形式をとった。今年の場合、実際に履修したのは理系の学生ばかりで、このようなことは初めてだった。もっとも、講義形式になったのは、何も今回に限ったことではないが討論や質疑が必ずしも盛り上がらず、なんとなく自分にとっても長年なじんだ形式に落ち着いてしまったのである。授業を準備する中で、何冊かこの分野の著名な人の本にお世話になったが、特にいろいろ啓発されたのは、大阪大学の出身者でもある池内了氏の『科学者心得帳』(みすず書房、2007年)だった。あまり形式ばらずに、実際に研究の場にいる人の実感として、若い研究者に心得を説いており、もともと、理系の研究現場の在りようについて知識や経験のない私にとって教えられるところが多かった。
 もっとも、余談ながら、この本の中に「「健全な批判派」が存在することが、科学の暴走を防ぐのである。アメリカのスリーマイル島原発事故やソ連のチェルノブイリ原発事故は、「健全な批判派」がいなかったことを意味している。日本の原発は、数々の小さな事故を起こしてはきたが、それほどの大事故が起こらなかったのは「健全な批判派」がいたためと言える」(157ページ)という一節があった。今年三月の東北の地震と福島の原子力発電所の事故のあとから読むと、どこか遠い世界について書いてあるような気もする。僅か四年前に刊行された本なのだが、何かひどく遠い感じがしたのは、東北の地震や福島の事故は知らないうちに私たちのものの見方や感じ方を変えつつあるせいなのかもしれない。

 この授業を担当して今さらながら感じたのは、一言で理系と言っても研究や実験の在りようが千差万別だということで、同じ研究科の院生同士でもそれぞれの研究の在り方についてはお互いほとんど知らないことが多かった。豊中で開講しているせいもあり、基礎工学研究科の学生が多く、互いに面識のある学生もいるのだが、研究室が違うと、やっている中身についてはお互い知らないことが多い。また、理学研究科でも数学を専攻していると実験のようなことは全くしない学生もいる。私のように、もっぱら文系の専攻にいた者は、理系の学生と言えば、大掛かりな実験に従事しているかのようについ考えてしまいがちなのだが、数学だと、実際には文系の大概の分野よりも、装備は簡単であったりする。互いに、どんな研究をしているかを紹介しあうのは、学生にとっても、私自身にとっても、刺激的で面白かった。

 半面、分野や研究内容、研究の手法が、専攻ごとに互いに大きく異なると、当然のことながら、研究室の運営やその風土にも大きな差が生じる。研究の場を取り囲むいわばエートスが違えば、当然、そこで語られるべきエーティクとしての倫理も違ってこよう。研究の倫理や責任を云々しようというとき、実際に現場での諸問題に日ごろから接していないと、こちらの話も付け刃になりがちで、学生に語る言葉にはどうしてもリアリティーが欠ける。研究の倫理や責任を説く場合、それもあくまで世間の常識としての倫理の一部であって、基本的な方向としては世に通用する人の道から離れないのだから......、などと言えばそのとおりなのだが、語ることが求められているのは、やはり研究の場における倫理でもあるから、そうなると、分野や組織での実体験のある範囲内でしか語れないことも多い。分野ごとにやはり研究の倫理や責任の在り方や所在はいくらか異なっている。分野を越える、越境するというのは、聞こえもいいし、それ自体としては悪くないことだろうが、下手をすると、何もかもあやふやな話になってしまう危険もある。

 履修生の減少に加え、このあたりのことで単独での授業継続に困難を感じ、今回、ひとまず閉じた次第である。おそらく、次に再開することになるなら、誰が担当するにしても、もう少し開講の体制そのものを考えなおしたほうがいいかもしれない。いろいろ反省すべき点の多い四年間だった。


(たかだ たまき/大阪大学CSCD教授)

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