かならず 読んでください

エスノグラフィー(民族誌)の極北

Writing Ethnography in Ultra

Mitzub'xi's Introduction to Ethnographic studies

池田光穂

私は受講生である皆さんぐらいの年齢(たぶん 22,23歳の頃)に、ユーリー・ボリソヴィチ・シム チェンコ『極北の人たち』加藤九祚 訳、(岩波新書)岩波書店、1972年を読んでいたく感動した覚えがあります。具体的に何がということは失念しました が、極寒に耐えて厳しい自然のなかでたくましく生き抜く人たちに共感するシムチェンコと、読者でいまだフィールドワークに憧れている自分を重ね合わせてみ たのだと思います。民族学者(=文化人類学者)って、なんてすばらしい職業なのだろうかという思いをした、私の究極の民族誌がこの本だったのです。結局、 私の長期のフィールドワークは、極北の人たちではなく、中米のメスティソ農民を対象にしたものでしたが、私の心の中のシムチェンコは、52歳(2007年 4月)の現在においてもヒーローでありつづけています。

◎講義題目【仮想シラバス/リア充シラバス】 エスノグラフィー(民族誌)の極北:バリ人の性格(または幻のアフリ カ)から攻殻機動隊(またはニューロマンサー)まで
◎授業の目的

1.文化人類学がどのように形成されてきたのかについて理解できるようになる。

2.フィールドワークという知的活動の結果の産物であり、また研究対象である人びとの生活や人生の〈表象=再現前〉としての民族誌につ いて 理解できるようになる。

3.人文社会学にとってなぜ民族誌が、これほど重要なジャンルになったのかについて、妥当な説明ができるようになる。

◎キーワード
◎時間割コード 010473(民族誌学 Ethnographic Research)/211228(民族誌特講)
◎開講区分 第1学期/◎曜日 火4/◎教室 人・本館31講義室
◎授業の内容

    【その位置づけ】

    異民族に関する生活や文化の記録である「民族誌」(エスノグラフィー)は、文化人類学や社会学を学ぶ人のためのみならず、現代世界のさまざ まな諸相の成り立ちを理解しようとする政治学や経済学、人間がつくりだすさまざまな表象そのものや表象のはたらきを理解しようとする芸術学や宗教学、ある いは他者の存在の意味について考える哲学など、さまざまな人文社会研究に多大な影響を与えてきました。

    【民族誌の宿命】

    にもかかわらず、ある人たちの生命=生活(ライフ)の「全体的記述」であるはずの民族誌が、つねに全体論的に理解されるわけではなく、当の 人類学を含めた人文社会学の研究のなかで流用される際には、しばしば断片化され、枝葉末節が利用され、人間の文化の多様性を表現するための「素材」として 利用されています。例えば、科学ジャーナリストたちは、フォーレという人たちが自分たちの身に降りかかる疫病の蔓延にどのように多角的に対処したかという ことには一切関心がなく「ニューギニアのフォーレ人はプリオンを含んだ犠牲者の脳を食したためにクールー病が蔓延した」というふうに表現(=表象)するこ とに専心しました。その結果、フォーレ=野蛮な喰人族という表象が世界中に蔓延しました。それはトロブリアンドが「未開経済」の場であると今なお信じ続け られているように……。どうも民族誌にも生命=生活(ライフ)があるようです。このような民族誌の生産と民族誌の利用の間にある宿命と悲劇、喜劇またはア イロニー(皮肉)について、この授業で考えます。

    【授業の具体的内容】

    かと言ってこの授業は文化人類学の専門家が難解なことを言って学生を煙に巻くために行われるのではありません。民族誌とは何か、著名な民族 誌の紹介、民族誌記述についてのさまざな難問などを紹介し、そのようなものが実際に数多く存在するかはさておき〈一般的な民族誌〉とは何かというイメージ を獲得した上で、〈一般的な民族誌〉から「逸脱した民族誌」「民族誌もどき」「民族誌とは言えない代物」について、さまざまな実例をあげつつ、それらが 〈一般的な民族誌〉とどのような共通点と相違点をもつのかを検討します。つまり「異常や逸脱」とみされている事例を検証することで〈正常なもの〉が何であ るのかについて考えるのです。

    【授業の具体的目標】

    すべての授業が終わった時に、皆さんが民族誌の古典的な定義のされ方について疑問を感じ、人文社会学にとってなぜ民族誌が、これほど重要な ジャンルになったのかについて、自分なりの歴史解釈と民族誌の意義について見解を持てるようになれば、この授業の目的は果たせたことになります。

    【ジョーク:余談】

    この授業は「民族誌の極北」と銘打っていますが、それは民族誌の中核的概念からはじめて、その周縁部や境界、すなわち、私たちは何を民族誌 とよび(理解し)何を民族誌だと認定しない(排除する)のかという検討を通して、民族誌とは何かについて考えることが最終的な目標です。したがって極北に 住む人々の民族誌のことではありません。しかしながら、私は受講生である皆さんぐらいの年齢(たぶん22,23歳の頃)に、ユーリー・ボリソヴィチ・シム チェンコ『極北の人たち』加藤九祚 訳、(岩波新書)岩波書店、1972年を読んでいたく感動した覚えがあります。具体的に何がということは失念しました が、極寒に耐えて厳しい自然のなかでたくましく生き抜く人たちに共感するシムチェンコと、読者でいまだフィールドワークに憧れている自分を重ね合わせてみ たのだと思います。民族学者(=文化人類学者)って、なんてすばらしい職業なのだろうかという思いをした、私の究極の民族誌がこの本だったのです。結局、 私の長期のフィールドワークは、極北の人たちではなく、中米のメスティソ農民を対象にしたものでしたが、私の心の中のシムチェンコは、52歳(2007年 4月)の現在においてもヒーローでありつづけています。

    【授業の終了にあたり受講者へのメッセージ】


●役に立たないリンク

◎教科書

◎参考文献

◎成績評価

◎クレジット

◎関連するウェブページ[下記のリンクは このページのディレクトリからリンクしています]



Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099