中米先住民運動の民族誌学的研究を通した「先住民概念」の再検討
Rethinking Concept of "Indigenousness," or Indigenousness as polical identity:A Case studies of the Mexican and Central American Indians
解説:池田光穂
本 研究は、メキシコとグアテマラの両国に おける先住民というアイデンティティを土台にした 社会運動の隆盛とそれに対応する両国家による先住民への具体的な民主化政策を考量しつつ学際 的に検討することを通して「先住民・先住民族」の現状を明らかにする。
具 体的には、先住民を これまでの「文化的アイデンティティ」としてではなく、周縁化による排除から国政参加を目指 す「政治的アイデンティティ」として捉えなおす。農地改革や土地権利運動ならびに文化的多様 性の保全を国家に求める運動の歴史の中でしばしば閑却されてきた「政治的アイデンティティと しての先住民」という未知の論点をあぶり出す検証をおこなう。そのことを通して現地の社会科 学者の助言と協力により地域研究の新しい実践的協働のスタイルをめざす。
※1843年「ユダヤ人問題に寄せて」のなかでマルクスは、ユダヤ人がキリスト教国家と調停するために[国家制度によるユダ ヤ人 の保証と見 返りに]ユダヤ教の棄教を考慮すべきであるという考えを展開するヘーゲル左派であったB・バウ アーを批判して、国家が人間の解放を保証するあり方を〈政治的〉とするならば、ユダヤ人性を保証しつつ国家と交渉するユダヤ人は政治のカテゴリー で自らを考えているとした。ロバート・マイスター[1990](Robert Meister, 1947- )によると、ヨーロッパにおける政治的アイデンティティの議論はここにまで遡れるとした[太田 2009:251-252]。
政治的アイデンティティ(Political
identity)とは、狭義には(1)法やイデオロギーが要請した「集団」に対して、政治権力構造が画一的な対応
をする際に、その構成員とみなされる人々のなかに生まれるアイデンティティのことである。そして、この法やイデオロギーの社会的機能から派生する、広義の
政治的アイデンティティの定義とは、(2)法やイデオロギーがつくりだす秩序や抑圧構造に抵抗する人たちが、集団的行
動や実践をおこなう際に、その人たちの間に生まれる連帯感や一体感あるいは価値観の共有を構成するものもまた、そのように呼ぶことができる。(→出典:池
田光穂「政治的アイデンティティ」)
20 世紀末、冷戦構造の崩壊は、資本主義に対抗するイデオロギーの終焉を記した。と同時に、 アイデンティティを土台にした「差異の政治学」が台頭し、エスニック・ナショナリズムが国際 問題となった時代でもある。一方でグローバル化と、他方でナショナリズムの同時進行が起きた。 先住民運動もナショナリズムと同一視され、外部には排他的であり、内部には抑圧的であるとい う批判を受けている(たとえば、A.クーパー)。
また、国連の「先住民族の権利に関する国際連合宣言(A/RES/61/295)」2007年の成立過程を検討した清水昭俊(2012)は、宣言の中にこめられた先住民の概念には自己決定に訴えるイデオロギー性がみ られ、何人の介入をも退ける政治的機能をもつと主張されている。だが、それはもうひとつの「政治的な介入」である学術の関与をも退ける概念だと指摘し、人類学者が、今後も先住民と以前のように無反省な態度で調査ができなくなる可能性を示唆している。
し かし、先住民運動は、反グローバル化運 動、 環境保全、フェミニズム運動と連携し、民主化運動の一翼を担っていると評価もされている(た とえば、A.ツィン)。
本 研究では、これらの相反する評価は、先 住民を文化的アイデンティティ として考えていることに起因し、それを国家形成における排除と部分的包摂の過程が構造的に生 み出した集団が、社会参加を求めるときに主張するアイデンティティである、という仮説をもち、 それを検証する。先住民という集団を政治的アイデンティティとして理解することにより見えて くるさまざまな理論的産物について考える。
こ のような発想は、アイデンティティの形 成を構造 的過程の結果として捉える思想の系譜から着想を得ている(C.B.マクファースン、E.P.ト ムスン、最近では、A.マークス、M.マムダーニ、C.ユングなど)。そこでは国家内部でのエス ニシティ集団を所与として位置づけず、国家が権力と資源のアクセスを左右する境界を画定する 過程で形成した集団として考える。つまり市民権をめぐる境界が画定されれば、その境界をめぐ り民主化闘争が起こると考える。
18 世紀における労働者というカテゴリーも、無産階級には市民 権を与えないことが基礎となっていたが、先住民も文化的実践という条件により、市民として扱 われてこなかった。先住民運動を市民とは誰かを決定する境界の再画定を求める運動と捉えれば、 それは民主制を脅かす差異の政治学ではなく、むしろ民主制の不完全さを指摘、改善する運動で もあることが分かる。
こ れまで多文化主義的市民権に関する議論 の資料は、カナダ(C.テイラー、W.キムリカ、J. タリー[ジェームス・トゥーリイ:James Tully, 1946-])オーストラリアや米国(J.ロールズ、S.マセド)、などの事例から 議論されてきた。だ が、新自由主義経済体制の導入後のメキシコや内戦終結後のグアテマラでは、先住民は無視でき ない政治主体(サパティスタ運動やマヤ運動)となっている。中米の事例から問題を捉え直すこ とにより、多文化主義的市民権に関する議論が広がる可能性がある。
サンデルのロールズ批判:ロールズはその人間の前提に「負荷なき自己(unencumbered self)」というものを用意しているのだという批判。ロールズの原初状態(『正義論』第3章)において、我々はいかなる共同体、道徳的紐帯から自由になり、 独立に選択がおこなえる能力をもつ、という人間観が前提にされていることを批判する。サンデルによると、人間は共同体への愛着をもち、そのことが自らのア イデンティティを現実に構成しているのだと考え、共同的で具体的な価値こそがまず一義的な善(good)であるとする。そして、そのような善よりも正義= 正しいこと(right)を優先するロールズの自我観——「ひとつの人格の理想」(邦訳、2010:769)——をこのように批判するのである。 (Michael J. Sandel, Liberalism and the limits of justice. New York : Cambridge Universtiy Press, 1998[1982])(→「負荷なき自己」と「位置ある自己」)
ロールズの正義論の第1原理は「他人の自由を犯さない限り、もっとも広い自由を平等に有する」というもので、第2原理は「最も不幸な人々の利益
を優先する」である。しかしながら、ケネス・アローからアマルティア・センまでの論者は「平等と自由は両立しえない」という結論にたち、ロールズの第1原
理に修正を迫るものになっている。また、第2原理は、マキシミン原理(ミニマックスの原理)——マックス(最大)の損失をミニマム(最小)にすること——
であるが、ジョン・ハルサニ(John
Harsanyi, 1920-2000)は、マキシミン原理では道徳の原理は達成できないことを証明しており、ロールズはこの原理も撤回するに
至っている。(→「ジョン・ロールズの正義に関する2つの原理」)
こ の研究の淵源となる冷戦期における土地 問題と農民運動に関する我が国の中米地域の先駆的 研究には、石井章による広闊な研究の蓄積があり本研究でも十全に活用される。だが先住民運動 と農民運動はスタベンハーゲンらが切り開いたように当時の農村社会学の多くはマルクス主義的 階級闘争観から理解されており、本研究では先行研究が示した数量データを利用しつつも上掲の 理論枠組みのなかで再解釈、再定位することが必要であるが、これはラクラウやジジェクらの挑 戦的な社会理論とも関連性を持ちうるだろう。
左 翼運動やそれに支援された農民運動と、 先住民運動との複雑な関係の歴史が未解決の問 題として残っており、これらの解明は急務である。両者には断絶があるのか、それとも左翼運動 が先住民運動へと変換したのか。この具体的問題を考えることから本研究は始まる。
1970 年代まで盛んだった農民運動は、左翼思想を基盤にし、土地回復を求めた(利益集団によ る)階級闘争であるが、1990 年代に隆盛した先住民運動は、アイデンティティの承認を求める(ア イデンティティ集団による)差異の政治学であるといわれた。両者には断絶が存在するといわれ てきた。このような見解に対して、本研究では、メキシコ----先住民人口が1 千万人以上----と グアテマラ----先住民人口が総人口の過半数----という中米では先住民の存在を無視し得ない二 つの社会を比較し、次の2点を具体的に検証する。(1)階級闘争と差異の政治学が同一の目標を目 指した解放運動であることの可能性と歴史的現実、(2)先住民運動は文化を守る必要から生まれた のではなく、農民運動組織が発達していた地域で起こった政治運動であること可能性と歴史的現 実、についてである。
ま た、労働移民がもたらす彼らのダイアス ポラ経験は、これまでの移民送出地の伝統的文化としてのアイデンティティ/移民先の一時的な文化形成と してのアイデンティティという単純な二項対立では捉えきれない、移行する意識こそが彼らの政治的意識の形成に大いに影響を与えることを示唆する。
理 論的意義:
これまで所与と考えられてきた人種、ジェンダー、階級、エスニシティなどの諸 集団が国家により構築された集団であり、そのために民主制はそれらの集団からの異議申し立て に対処する責務があるという視点は、批判的リベラリズム理論(Critical Liberalism)として提示さ れてきた。文化人類学では、先住民は文化的アイデンティティであるという前提はいまだに払拭 されておらず、それが構造的に構築された政治的アイデンティティであるという視点がないため、 中米の先住民運動についても相反する評価がある。本研究は、文化人類学と政治理論と交差させ ることにより、個別の歴史と社会状況から先住民運動と民主制との関係を再考する。その成果は、 政治理論の短所である普遍的モデルにそって理論化する傾向、文化人類学の短所である文化とア イデンティティとを結びつけて考える傾向、この両者から離れ、中米の個別事例から先住民を民 主制度改良に向けて闘う政治的主体として評価することになるだろう。すなわち民族的少数者の 包摂という課題は民主国家建設のジレンマではなく、むしろ社会の健全性のバロメーターである。 民族誌調査をとおしてこのことを実証的に検証できるという意義がある。
実 践的意義:
政治的アイデンティティとして先住民を捉える視点は、国家がエスニシティ集団 からの政治的主張にどのように対処するべきかという、多文化主義社会あるいは在日外国人の市 民権の可能性を模索している現代の日本社会にとっても重要な意義を持ちうる。またこの研究の 成果がメキシコとグアテマラの近未来の社会にも還元されるよう、すでにメキシコ・チアパス州 の農民運動の大学研究者(Dr. Gabriel Asenso Franco)ならびにグアテマラのウェウェテナンゴ県の 先住民研究において定評のあるNGO 機関の研究者(Mtro. Ismar S. Figueroa Mont)と2009 年9 月に 接見折衝し、現地からの研究の学術的助言者として参画することについての同意を得ており、本 研究グループの成果がリアルタイムで彼ら現地の研究グループの成果と比較参照されるような研 究協力の枠組みを提供するための基本的合意を得ている。 本研究は長期に渡りメキシコとグアテマラの先住民の現在を実地調査から明らかにしてきた文 化人類学者と政治学者(ならびに民族音楽学専攻の連携研究者)とによる共同研究として、フィ ールド調査からの結果を踏まえた理論構築を目指すと同時に、学術研究をとおして、日本と現地 社会の未来の市民の連携関係を提案するという意義をもっている。
Anthony Simon Laden & David Owen eds., 2007. Multiculturalism and Political Theory. Cambridge: Cambridge University Press.
Introduction;
Part I. Trajectories:
Part II. Approaches:
Part III. Critical Issues:
文献
中米先住民運動の民族誌学的研究を通した「先住民概念」の再検討
Rethinking Concept of "Indigenousness," or Indigenousness as polical identity: A Case studies of the Mexican and Central American Indians
Chiapas 州の複数民族音楽集団 Sak Tzevul, ca,.2010
Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2010-2016