はじめによんでください

ブルーノ・バウアーを批判するカール・マルクス

Karl Marx criticize Bruno Bauer on "Jewish Question"

左:バウアー、右:マルクス

池田光穂

《マ クレラン・ノートの続き》

ユ ダヤ人の解放要求とは?:国家が市民として認める 解放、すなわち《政治的な解放》である——「第1論文」冒頭

ユ ダヤ人解放論に反対する者は、(ユダヤ人解放論) 擁護者よりも優勢である。反対者は、キリスト教を解放する以前に、ユダヤ人がユダヤ教から解放されるべきだと考えた。反対者も擁護者も、ユダヤ人とキリス ト教徒が共存するためには、その「差別の原因」を廃棄しならないが、両者ともこのことについて理解していない。そのため、ユダヤ人もキリスト教徒も人権を もつことができなかった。解放を必要としているのではユダヤ人だけでなく〈すべての人間〉である。市民権は、絶対主義国家では実現しない。宗教偏見と差別 は、市民的かつ政治的身分と特権がなくなるとともに消滅する、というのがマルクスの予言である。——マクレラン『マルクス主義以前のマルク ス』西牟田訳、 勁草書房、1972年

ク ロイツナハのユダヤ人協会の会長が、マルクスに対 して1842年8月頃、ラインラント議会に請願書を提出してくれるように依頼した。マルクスはそれを了承した。同時期にルーゲに対して彼は手紙を書き 「(自分は)ユダヤ教はきらいだが、バウアーの考え方は少し抽象的すぎる」と書いた。マルクスの真意は、政治的権利の承認の人間的解放に対する関係を理解 していないという批判にある。

マ ルクスのスキームでは、ユダヤ人問題は、さまざま な国家が実現している「世俗化」の程度により異なることを指摘した。

    1. ドイツ:ユダヤ人問題は純粋に神学的問題。ユダヤ人は国家に対して宗教的に対立している。
    2. フランス:立憲国家では、政治的解放は不十分であり、国家宗教(=多数派の宗教)が残っている。ユダヤ人問題は神学的偽装をした政治的問 題である。
    3. アメリカ(北アメリカ諸州):ユダヤ人問題は現世的問題=どのような批判も政治的。「宗教が存在していることは国家の完成と矛盾しない

宗教たいする政治的解放の関係の問題は、われわれにとって は、人間的解放にたいする政治的解放の関係の問題と なる。われわれは、政治的国家を、宗教的欠陥とは切りはなして、それの現世的な構造について批判することによって、政治的国家の宗教的欠陥を批判する」 (ルーゲへの手紙、MEGA I i(2):308)

し たがって、宗教からの政治的解放は、人びとを宗教 的な考えから自由にしない。(バウアーが試みる)政治的解放は人間的解放ではないからである。「宗教とは周り道(=媒介物)による人間の承 認である」。そ の媒介とは、国家であり、人間と人間の自由のあいだを媒介する(マクレラン 1972:204)。

国 家は憲法により選挙には財産資格の要件がないと宣 言している。しかしこれは逆に(市民生活おける)私的財産を逆に前提しているからそう言えるのである。国家は、自己の普遍性を確認するのに「私的所有、教 育、職業その他」と対立することで「自己の普遍性」を獲得する。(それゆえ)人間存在は分割される。

「完 成した政治的国家は、その本質上、人間の類的 生 活であって、彼の物質的生活に対立している。この利己的な生活の一切の諸前提は、国家の領域の外に、市民社会の中に、しかも市民社会の特性として存続して いる。政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思 考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自 分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生 活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となってい る。政治的国家は市民社会にたいして、ちょうど天上が地上にたいするのと同じように、精神主義的に臨む。……人間が自分にも他人にも現実的な個人だと考え られている市民社会のなは、人間は一つの真でない現象である。これに反して、人間が類的存在だと考えられている国家のなかでは、人間はある仮想的な主権の 空想的成員であり、その現実的な個人的生活をうばわれて、人間は非現実的な普遍性でみたされている」「ユダヤ人問題によせて」MEGA I i(1):584.(マクレラン翻訳、Pp.205-206)

こ の人間の二重性を表現するのに、ルソーから借り た、ブルジョアと市民 (シトワイヤン)という用語を用いる。

市 民社会で宗教がさかんなのは、分離(ブルジョアと 市民という二重性)があるからだ。「この分離の理想化にほかならぬ宗教は、この分離の完成である政治的解放のなかに最上の基盤をもっており、宗教の諸形態 は政治組織の型の機能にすぎないからである」(マクレラン, p.206)

キ リスト教はたんなる政治的道具である——国家は市 民社会の他の要素も宗教をいっしょくたにしてしまうからである。

に もかかわらず、政治的民主主義は毀損されてはなら ない。既存の世界秩序の内部における人間解放の最後の形態だからだ。(→この時点では類的人間存在ではない)そこで、市民権と人権を区分する。

人 権は宗教を信じる権利を否定しない。なぜこれを人 権と呼ぶのか? それは市民社会の成員と考えられた人間の権利(私的個人の存在と所有権を認める)である。

政 治的解放は、古い市民社会、つまり封建制度の解体 を意味する。「だから人間は宗教から解放されたのではない。宗教の自由を得たのである。所有から解放されたのではではない。所有の自由を得たのである。営 業の利己主義から解放されたのではない、営業の自由を得たのである」(ユダヤ人問題について)


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