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ベンヤミン、ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念

Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik, 1919.

池田光穂

ベ ンヤミン著作集4.『ドイツ・ロマン主義』晶文社,1970年
※大峯顕による解説、Pp.160-173,
「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」章立て

「ア カデミック界の慣行で、ベルン大学でも博士論文の本文原稿といっしょに思考過程の「要約」もベンヤミンは提出しなければなりませんでした。この博士論文が 1920年に「哲学および哲学史に関するベルン大学論文」の第五巻として出版されたとき、その思考過程を述べたベンヤミン自身の要約が実際に「自著紹介」 となって出ました(ヴァルター・ベンヤミン全集第1巻第2冊、707-708ページ、フランクフルト・アム・マイン、1974年)。テキストはこんなふう にはじまります。……

「研 究対象はロマン派の芸術批評概念で、超歴史的(メタヒストーリッ シュ)に、すなわち絶対的に措定した問題に光を当てて論述してある。その問題とは、一つに芸術の理念という概念が、またもう一つに芸術の理 想という概念が芸術理論に対しいかなる認識価値をもつのか、というものである。この脈絡において理念とは、方法論のア・プリオリのことをいい、その場合、 配分された内容のア・プリオリとしての理想が理念に相応する。当問題自体は、本研究で実際には論じることができず、むしろ最終章ではじめて姿を現わす。 ゲーテの理想(ないしは原現象)という概念をロマン派の理念という概念と比較しながら、最終章はこの超歴史的に措定した問題と哲学史の流れとのもっとも純 粋な意味関連の説明を試みる」」(マイヤー 1994:30-31)。

よ り後年になり、マルクス主義や弁証法的方法論に傾倒するようになるとこの「超歴史的」というアプローチは後退すると、ハンス・マイヤー(1994)は言 う。

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1.序論
2.反省
3.芸術批評
4.初期ロマン主義の芸術理論とゲーテ
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Vor allem ... sollte der Analytiker untersuchen, oder vielmehr sein Augenmerk dahin richten, ob er denn wirklich mit einer geheimnisvollen Synthese zu tun habe, oder ob das, womit er sich beschäftigt, nur eine Aggregation sei, ein Nebeneinander, ... oder wie das alles modifiziert werden könnte.

Goethe, WA II. Abt. II. Bd., 72.

「まずなによりも……分析家は、かれが本当にひとつの霊妙な綜合にたずさわっているのか、それともかれが従事していることがただの寄せ集めや寄せ並べにす ぎないの、あるいはこれらいっさいはどのようにすれば変容されうるだろうか——この点を研究すべきであろう、というよりむしろ、この点に注目すべきであろ う」——ゲーテ

——「初期ロマン主義の芸術批評の本質は、それが作品についての判定でなく、作品そのものの完成であるというところにある。そして作品の完成とはあくまで も作品が自己自身を完成すること、作品がそれ自身へと反省し、自己自身に目ざめ、真実に作品自身になるということである」(大峯 1970:169)。

【表 1.ロマン主義と近代批評】


・「芸術作品の批評とは何か?」を明らかにする。
・焦点のあてられる作品:フリードリヒ・シュレーゲル『アテネーウム』(〜1800年ごろ)、『断章』、『ヴィンディシュマン講義』(1804)——そこ では「哲学上の問題」とされる。
・兄のA.W.シュレーゲルは、いまだ、批評=文学史上の圏内にいる。

■批評の問題(ベンヤミンにおけるF・シュレーゲルの位置づけ)

1. 批評とはなにか?

2. 批評の自己反省と自己認識

・ 批評実践と理論の統一:『ヴィルヘルム・マイスター(の修業時代)』:ゲーテの作品
・「フリードリヒ・フォン・シュレーゲルは、近代の三大所産として「フランス革命、フィヒテの知識学、ヴィルヘルム・マイスター」を挙げている。また教養 小説(ビルドゥングスロマン)という形式も含めて、この小説は若い作家たちに小説の規範として受け取られた。ヴィルヘルム・マイスターを意識して書かれた 小説には、ノヴァーリスの『青い花』などがある」ウィキペディア「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」https://goo.gl/c5ZytV
・ロマン主義における芸術批評:批評={批評と結びついた認識}(=純粋認識)
・批評=批評と結びついた認識=純粋認識
・ロマン主義〈対〉近代批評

《作 図参照》

■実験と観察

・ 実験 Experiment
・観察 Beobachtung

の ロマン主義における特異な解釈・理解

・ 芸術のロマン主義批評の認識論的前提を明らかにするWBのやり方
・F・シュレーゲルの著作の分析、プラス、ノヴァーリスの作品分析(初期「断章」、後期「ヴィンディッシュマン講義」)
・実験 Experimentと観察 Beobachtung、は反省(Reflexion)という「ロマン主義・認識論の根本概念」につながる。

■反省とは?

・ 反省とは「思惟の内部構造のこと」である。
・思惟はつねに、同時に「思惟自身を思惟する」

《比 較》フィヒテのドイツ観念論

・ 『知識学』(1794)=絶対的自我の観念論
・「生産的構想力」「知的直観」よりも「反省」の概念を重視する、ロマン主義、そこから得られた結論。
・WBは、ロマン主義に肩入れするのか?「生産的構想力」や「知的直観」を議論から締め出している。
・また、「生産的構想力」や「知的直観」はフィヒテ的宇宙と呼ばれる。

1) 反省は直観ではない。
2)反省は体系的思惟(Begreifen)である

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【凡 例】
※大峯顕による解説、Pp.160-173——この文章は33のパラグラフ(段落)に分かれる。
以下の文章の冒頭の数字は、このパラグラフ番号で、適宜、ページ数指示、をおこなう

【各論】
1.ベンヤミンの学位論文等の書誌上の解説

2. ロマン主義と(その精髄である)フリードリヒ・シュレーゲルの芸術論を検討する

3. 批評=認識論、というロマン主義のテーゼを確認せよ(→作図)

4. ロマン主義の芸術批評を理解するためには、ロマン主義の認識論が明らかにされる必要がある。これは、ロマン主義者の芸術家(例えば、詩人)が認識して いたか、否かの問題ではない。ベンヤミンの野心は、当事者の意識や意図とは関係なく、その認識論を抽出できるかであり、それ「自体」で説明できるかにあ る。『断片』『ヴィンディシュマン講義』における思想が重要であり、それが素材にされる——反省の概念。反省はロマン主義の認識の根本概念。

5. ロマン主義認識論=「反省」

6. (p.162):参照点としてのフィヒテ『知識学の概念』(1794年)が重要。シュレーゲルとノヴァーリスは、ともにフィヒテの思想から産まれて、 そして、そこから飛翔(=離脱)した。ベンヤミンは、フィヒテの従来の評価とは異なり、フィヒテの根本思想を「反省」としてとらえ、ロマン主義がそれをさ らに推進させたと考える。ロマン主義の反省は、直感ではなく、思惟(それも体系化された!)である。ロマン主義の反省は(また)概念的把握 (Begreifen)である。

7. なぜ、シュレーゲルやノヴァーリスが「反省」を重視したか?→認識の直接性や認識の無限性の「2つの契機が保証されていると考えたからである」 (p.162)。

《認 識の直接性》

8. 反省=直接的な認識、という議論は、フィヒテ『知識学の概念』(1794年)が嚆矢。

《根 本的な神秘形式主義》
「一体、知識学という学問は、外部の客体にかかわる対象認識の立場ではなく、このような対象的な知の世界を成り立たせているところの知の形式そのものを知 る立場、つまり知の知(=自覚)の立場である。この立場では、知が知自身へ還るから、知のこの自己反省において知は知自身に直接している。すなわち
「反省は認識の直接性の真の根拠である」。——反省という意識の自己内屈折の構造のうちに、直接的な認識というものを発見したフィヒテをベンヤミンは高く 評価し、これを「根本的な神秘的形式主義」とよぶ」(大峯 1970:162)。

・ ロマン主義は、フィヒテから、この形式主義を芸術理論に基礎をおく。

・ 他方、フィヒテは1797年に「知的直観」という概念を導入し、「認識の直接性を認識の直観的本性というもの基礎づける立場」へと展開。ここで、ロマン 主義とフィヒテは袂を分かつ。ベンヤミンにいわせると、フィヒテは、思想を自我意識の中に留まる。(だから、対象を《芸術》という外部に向けたロマン主義 を高く買うわけだ!)

9. 同様に「無限性」の概念。——反省概念は、無限に反省をつづけるという作業を求める。反省の反復(=「体系的進行」)が、自我の発展に他ならない。た だし、フィヒテには、これはただ単なる「理想」として捉えられていたにすぎない。「ロマン派においては無限性とは現実的認識の内容である」 (p.163)。

《「反省の無限性」の称揚から「多様な連関性」の強調へ!》

10. フィヒテの知的直観の概念の批判——「絶対自我のうちで反省の無限性は止揚されている」(ベンヤミン)引用は大峯(1970:163)——ただし、 これはベンヤミンにとっては解決でも何でもなく「反省の無限性の破壊」である。

11. フィヒテ:思惟の思惟、ロマン主義:思惟の思惟の思惟の……。ベンヤミンは、ここで何を言おうとしたのか? それは進行の無限性を称揚したのではな く、「あらゆるものが無限に多様な仕方で直接につながっているような充実した体系」を示そうとした(p.164)。

12. フィヒテの「対象的思惟」=客体についての知は、シュレーゲルでは「感覚」。フィヒテの「思惟の思惟」=知の知は、シュレーゲルでは「理性」。

「と ころがシュレーゲルの思惟の特色は、理性の立場が感覚の立場に根源をもつと見る点にある。理性とは高次の感覚であり、感覚の自己認識である。「自己自 身を見る感覚は精神になる」。これは感性のうちにすら理性的なものを目撃しようとするフィヒテの観念論と反対に、理性を感性の変貌もしくは展開とみる立場 である。それゆえ、ロマン派のいう「思惟の思惟」は、たんに形式の側からだけでなく質料の側からも、あらゆる段階の認識を自己のもとに包括するひとつの発 出論的な認識の原理である。ロマン主義的反省は世界の内容的生産者にほかならぬ(これはある意味でヘーゲルに近い立場である)」(大峯 1970:164)。

【表2.ロマン派シュレーゲルと知識学のフィヒテの位相】

13. 反省の反省(思惟の思惟)=第2次の反省段階から、第3次の反省段階(=「思惟の思惟の思惟」)における、後者の根本的変化。

「思 惟の思惟の思惟」の2重の意味:「思惟の思惟の【思惟】」という客体化された思惟の存在と、「【思惟】の思惟の思惟」という【思惟】する主体の存在で ある。
「このことは、反省の原始形式としての「思惟の思惟」そのものが或る固有な二重性のうちへ投げ込まれ、震動させられることを意味する。しかもこの二重性は 第三次以上の反省段階において無限に多くの反響を展開してゆく。それが無限なる反省の立場なのである」(大峯 1970:165)。

14. この事態は、反省の形式そのものが無くなる、という。つまり「絶対者へむかつての本来的な反省形式の解消」——私(池田)は、このあたりには論理の 飛躍があり、なかなか分かりづらい。
「反省形式そのものの立場(絶対反省〉における思惟にとっては、形式はあっても無いのと同じである。形相なき思惟において絶対者は直接に自己をあらわにす る。それゆえ絶対反省とは、絶対者の自己反省、自己把捉なのである」(大峯 1970:165)。

15. 反省が存在の上に解放される、というのである。一切が自己(ゼルブスト)であるという。ここでは、ロマン主義に〈反省〉の概念の特異性について押さ えておくこと。
「知の「形式そのものを内容とするような形式」の立場、すなわちフィヒテの純粋自我の立場が、いっさいのもののうちにおいて不断に成り立つ、というのがロ マン主義的世界観だからである。自我だけが太陽ではない。世界は無数の太陽系からできているのである。それゆえ、ロマン派においてはじめて、反省が方法に なっている、とベンヤミンは言う。フィヒテ哲学の方法は、自我の弁証法的な定立作用であって、反省作用ではない」(大峯 1970:165)。

16. シュレーゲルの(フィヒテとは異なる)ラディカルな方法:「充実した反省=直観」と呼ばない。それは概念的思惟の立場である。知的直観を認識を有限 な範囲に閉じこめる。それに対して、ロマン派の概念的思惟=「それじしんの直接的な認識」。「思惟=直接認識」と理解するカント思想との決別。直接的な思 惟や媒介された直接性。これがロマン派の「反省」の概念。

17. 反省の対象は、絶対者、あるいは反自我(Gegen-Ich)ないしは汝(Du)、原自我(Ur-Ich)——ベンヤミンは、それに対してこのよう な絶対者を「反省媒質(レフレクシオンス・メディウム)」と呼ぶ。「反省は絶対者を構成する。しかもそれをひとつの媒質として構成するのである」——ベン ヤミンからの引用だが(大峯 1970:166)。

18. 絶対者の本質は、媒介性(メディアリテート)にある(p.166)。——シュレーゲルの場合は、メディアリテートは、「ロマン化」や「潜在力浮揚 (ポテンツィーレン)」と呼び、ノヴァーリスは「光」と呼ぶ。ノヴァーリスが光の隠喩を使うのは、自我が思惟を内側から照らすからである。

「あらゆる思惟において、ひとは自我(自己〉を発見する。思惟はいつでもどこでも自己思惟である。絶対者のこのような構造が「反省媒質」といわれるのであ る。反省というはたらきは、絶対者の媒質の内部において遂行されるのであるから絶対者は反省の客体であると同時に、反省それ自身の基盤である。そうして反 省が絶対者を構成するとは、絶対者のこの媒介的構造そのものを照明し、明瞭化することである。すなわち、「媒質における媒介者」を目撃することにほかなら ないのである。もちろんその場合でも、絶対者が反省にさきだって存在するのではない」(大峯 1970:166-167)。

19.初期シュレーゲル:絶対者=「芸術(Kunst)」と呼ぶ。芸術の立場は、自我を絶対者とせず、自我意識の枠の外へでた立場。これは、自我絶対者と する立場ではなく、自我の立場からの解放だということだ。自我が、創造的/想像的無から構成される——「反省は第一(最初のダス・エルステ)のものであ る」(→18.で指摘)。自我からの自由な反省=芸術という絶対者のうちなる反省

《体系は包括的概念である》

20. 絶対者=ひとつの体系、というのがロマン主義の到達した重要なポイントであり、ベンヤミンはそれを高く評価する。ただし、シュレーゲルの体系は「ふ つうの」体系ではない。絶対者が体系を把握するのではなく、絶対的な体系の把握であり、体系は一個の個体であること(p.167)。ベンヤミンは、ここに シュレーゲルの神秘思想(神秘主義)をみる。そして、その神秘主義には、直観が排除されて、言葉が要求される。
21.これがシュレーゲルの「神秘的用語法(ミスティッシェ・テルミノロギー)」であり、《論理的思惟》と《知的直観》のそれぞれの対象ではなく、それれ らの立場の媒介であること。「体系をとらえる一般的言語はないが、そうかといって体系はたんに言語表現を絶したものではない。かえって体系は、神秘的な個 別概念、神秘的用語のうちに、自己をあらわすのである。むしろ、そのような概念が根源的な体系そのものである」(p.168)。
・神秘的用語法の例:機知(ヴィツツ)、イロニー、超越論的ポエジー、魔術的観念論、断章など…

22.「批評」「批評的」——批判、批判的と同義か?(池田)——は、初期ロマン主義の主要概念、秘教的概念。

23. カントの批評概念への対抗。では、カントの批評概念とはなにか? それは「独断的合理論」と「懐疑論」の綜合した自分(カント)の立場を「批判主 義」と呼ぶ。それ(=批判主義)は熟慮から派生する客観的・生産的・創造的な立場をいう。他方、ロマン主義では、批評は「精神の洞察的な高揚」。そして批 判という仕事には、完結というものがありえない。永遠に続くもの。(カントとは異なり)自分たちの努力の必然的な未熟さを批評の名のもとに暗示——これは 今日における文化人類学的「批評」にも通底するものがある(池田)。

24. このロマン主義が芸術論に導入された時、芸術判定家から芸術批評という表現が確立された。これにより、(α)芸術作品より外部から判定・判断(=裁 判の隠喩を用いる)できるという考え方〈=独断論〉と、(β)あらゆる判定・判断(=裁判)はできないという考え方〈=懐疑論〉、という2つの立場から克 服された。これはカントが、独断論と懐疑論のジレンマを批判主義を通して克服したのと同じやり方である。
・α派=芸術は判定できる:レッシング、ヴィンケルマン、ゴットシェッド(=独断論)
・β派=芸術は判定できぬ:シュトゥルム・ウント・ドラング

25. 芸術批評の本質=作品の完成とみる、初期ロマン主義。作品の完成は、作品が自己自身を完成させること。作品がそれ自身に反省し、自己自身にめざめ、 真実に作品になることである。これはベンヤミンがいうところの「内在批評」。これを可能にするには、批評するものが、作品の内にはいることが要求される。 この考え方(=視座や考察の構え)、今日における近代批評が前提とする、〈認識するもの〉と〈認識されるもの〉の対立にもとづくものとまったく違った批評 の立場である。

※ 池田コメント:民族誌を読むことに、ベンヤミンの「内在批評」を多くの人類学者がおこなっていることは明々白々なのだが、今日の文化人類学者の問題は、 その当の人類学者である自分が、そのような文化的実践をおこなっていることを「忘却」していることにほかならない。

《ロ マン主義批判の独自性について》

26. ロマン主義批評の対象は、「自然」と「芸術作品」である。繰り返すが《批評はひとつの認識である》というテーゼを前提にした対象化である。
・いっさいの「現実的なもの」は、反省媒質のうちに存在するので、対象もまた《反省する存在者》である。「それゆえ、ロマン主義の対象認識の理論は、反省 の概念の対象的展開にほかならない」(大峯 1970:169)。

27. ロマン主義「あらゆる客体の認識は、客体の自己認識によって制約されている」〈対〉フィヒテ「客体的認識を主体の自己認識というものに基礎づける」 /ロマン主義「一切が自己性をもつ。(自我は、自己性がとりうる無数の形式のひとつ)」〈対〉フィヒテ的「フィヒテ的な自我のみ」/ロマン主義「死んだ対 象そのものが我々をみることすらあるうる」〈対〉フィヒテ「非我=死せる自然など存在しない」。
・「「われわれがそれにおいて化石を見るところの一切の述語において、化石がわれわれを見る」。人間が自然を認識することと、自然が人間を認識することと が、ここではひとつの自己認識である。客体の自己認識という立場は、認識における主体—客体—関係の図式そのものを破った立場である」(大峯 1970:170)。

28. 《作図参照》

【表 3.ロマン主義とフィヒテの立場の相違】



・ ノヴァーリス『断章』から:「ひとつの存在者が他の存在者によって認識されるということは、認識されるものの自己認識、認識するものの自己認識、そしてさ らに、認識するものが、かれが認識するところの存在者によって認識されるということ、——これらのことと同時に起こる」(大峯 1970:170)。

28. 観察(Beobachtung)と実験(Experiment)という、ロマン主義独自の考え方の導出(p.170)

《事 物が自己認識にいたる過程?》
「事物がいかに自己認識にいたるかは、事物自身の事柄であって、研究者の事柄ではない。それゆえここでは一種の観察と実験とがおこなわれる。ベンヤミンは 言う。「実験は観察されるもののうちに自己意識と自己認識とを召喚することを本質とする。ある事柄を観察するとは、それを自己認識へと動かすという意味に すぎない」(大峯 1970:171)。

《実存的観察》

「実 験という概念は近代の科学以外には、中世の神秘家たちの神体験、自己の内面を実験台としての神の「実験的認識」cogito experimentalis という立場に見られる。ニーチェが自らの歴史的実存の認識を「実験哲学」Experimental-Philosophie とよんだのもこれに似たような立場である」(大峯 1970:171)。

《魔 術的観察ならびに魔術的支配》——作図参照
【表4.ロマン主義的宇宙とフィヒテ的世界の相違】

「存 在は行為を意味し、知識も行為を意味する」——スピノザ

31. ——作図参照

【表 5.さまざまな学の位相における「実験」と「観察」概念の多様性】

32. 《大峯先生によるまとめ》=批評は芸術の完成

「ロ マン主義にとって芸術とは反省の媒質であり、そういう芸術を批評するということは、芸術という反省媒質のうちにおいて対象を認識するということを意味 する。批評とはそれゆえ、芸術作品について外からなされる判定ではなく、批評する者と作品とが一つになったところでの実験と観察なのである。この観察にお いて、芸術作品はそれ自身のうちへ反省し、自己意識と自己認識とへもたらされる。それは作品自身のうちに本来かくれていた萌芽の自己展開を通じて、作品が 作品自身として完成することにほかならない。批評なくして芸術作品は完結しない。芸術は芸術の批評をそれ自身のうちにふくむのである」(大峯 1970:172)。

33. 批評そのものが対象となる芸術になると共に、それ自体が芸術作品となる。(このレトリックを敷延すると)「詩はただ詩によってのみ真実に批評される うる」(大峯 1970:173)。——詩的批評の地平=ロマン主義批評の立場

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文 献



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