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太田好信編『政治的アイデンティティの人類学:21世紀の権力変容と民主化にむけて』

書評:Book review of "Anthropology of Political Identity," T. Ota ed, Kyoto:Showa-do, 2012.

池田光穂

政治的アイデンティティ(Political identity)とは、狭義には(1)法やイデオロギーが要請した「集団」に対して、政治権力構造が画一的な対応 をする際に、その構成員とみなされる人々のなかに生まれるアイデンティティのことである。そして、この法やイデオロギーの社会的機能から派生する、広義の 政治的アイデンティティの定義とは、(2)法やイデオロギーがつくりだす秩序や抑圧構造に抵抗する人たちが、集団的行 動や実践をおこなう際に、その人たちの間に生まれる連帯感や一体感あるいは価値観の共有を構成するものもまた、そのように呼ぶことができる。(→出典:「政治的アイデンティティ」)

(投稿直前のヴァージョン)
(最初の草稿、少し長いヴァージョン)
 現代社会における「文化の政治化」や「アイデンティティの政治」につ いての論集だろうという予見をもって本書を紐解く人は、編者である太田好信による序論を読み進めるうちに奇妙な気持ちに苛まれることになる。現代を生きる 我々の時間性についての議論、時間と歴史認識論が今日の文化理論にもたらす影響、国家の先住民に対する責務の見直しなどの種々の議論が、本書のタイトルに もなっている「政治的アイデンティティ」という新たな理論的枠組の提唱と明確な交差点をいっけん持たないように思えるからである。しかし推理小説を読むよ うに冒頭から謎掛けを浴びせられることは、我々にとっては既に経験済みだ。こう考えてほしい。人類学者が放り込まれたフィールドが渾沌であればあるほど、 それに一度嵌まってしまうと彼/彼女はますます再訪の念を募らせてゆくものであり、渾沌の謎解きの探究が止められなくなる。フィールドの魅力とは、この謎 掛けと謎解きのコール&レスポンスがその人の心に響いてくることだと——人類学の現場は大いなる辛酸と無けなしの快楽の繰り返しである。評者は、本書を知 識や理論の源泉としてではなく、現場からの問いかけに耳を傾けること、端的に言えば、フィールドワークの実践の仮想的な代替としてこの本を読んだ。


 さて本書は、2007年から09年度まで続いた国立民族学博物館共同研究会の報告書として公刊され、その内容は4部構成で1本の総説(序論)と10の論 文(各論)からなっている。総説をふくむ11本の論考をその(章の序数)「題目:副題」(執筆者)について以下に列挙し、その後に各章の要約を付してみよ う。




(序)「21世紀における政治的アイデンティティの概念化」(太田好信)、(1)「政治的アイデンティティとは何か?:パワーの視点からアイデンティティ を分析する批判理論に向けて」(太田好信)、(2)「キベラ・レッスン:ケニアにおける土着性とヌビのアイデンティティ」(慶田勝彦)、(3)「国家のな かで民族を生きる:2007年ケニア総選挙後の牧畜社会におけるアイデンティティの出現と消滅」(内藤直樹)、(4)「博物館と政治的アイデンティティ: 北海道の地方博物館を例に」(出利葉浩司)、(5)「ジェンダー・エスニシティ・宗教との交渉:北米アジア系女性の複合的アイデンティティ」(黒木雅 子)、(6)「国際法から「先住の民、先住民」への呼びかけ」(清水昭俊)、(7)「カラハリ先住民の静かな戦い:南部アフリカの先住民運動と政治的アイ デンティティ」(池谷和信)、(8)「ナシオン・プレペチャの試み:メキシコ・ミチョアカン州における先住民地域自治の模索と挫折」(小林致広)、(9) 「ジェノサイドと排除:内戦後のルワンダと国際社会」(武内進一)、(10)「国家と民族に背いて:アイデンティティの生き苦しさ、韓国を去りゆく人び と」(太田心平)。

 第1部「政治的アイデンティティの系譜」では、太田好信・慶田・内藤の3論文が含まれる。太田論文は、副題の「パワーの視点」にみられるように権力から 当事者アイデンティティを構成する議論すなわち「政治的アイデンティティ」の理論構築に力が注がれている。これは、アイデンティティをベースにした当事者 集団がその社会的承認を得ようとする運動の他称である「アイデンティティの政治」とは趣旨を異にすることが雄弁に述べられている(pp.42-48)。政 治的アイデンティティの理論的彫琢のために取り上げられる主たる2つの事例は、ルワンダの虐殺事件とメキシコのチアパス州におけるサパティスタの軍事的蜂 起であるが、そこから派生する議論の範囲は1848年のマルクスの著作「ユダヤ人問題」から、クリフォード・ギアツの1960年代の新興国家論、オバマ大 統領就任以降のポスト人種社会論まで多岐にわたっている。

 慶田論文と内藤論文は、2007年のケニア総選挙の前後をめぐるそれぞれ異なった社会状況に焦点が当てられている。慶田論文は、ケニア・ナイロビ郊外の 世界有数のスラムであるキベラで2007年の総選挙後の不正抗議に端を発する暴動での「線路引き剥がし」事件を扱う。この暴動は、アカデミズムが複数政党 による国内の統治の脆弱性に着目することに注意喚起する一方で、他方ニュースメディアは部族的・民族対立にすぎないという「単一の物語」に回収しようとし た。慶田は、メディア情報と歴史資料の詳細な分析から、キベラの「主」であるキベラ・ヌビ(スーダン人退役兵士が語源)のアイデンティティが(a)軍事 的、(b)脱部族化した、(c)再部族化した、という3つの特性からなることを指摘する。そこからキベラ・ヌビが、自らの植民地支配とケニアへのディアス ポラ経験を通して「線路」がケニアとウガンダの領土問題とケニア政府の統治能力を問う象徴的抗争の場とつくりだした。それゆえ「線路引き剥がし」は粗暴な 暴力の発露ではなく政治的諸権利の主張の隠喩的表現となりえるとしている。内藤論文は、ケニア北部のサンブルとレンディーレの混成牧畜集団であるアリアー ルが、彼らのライサミス選挙区において、財政配分制度などを社会資源として、レンディーレとサンブルという2つの出自や文化的来歴のエピソードを使いなが ら「マサゲラ」というアイデンティティを主張し政治的言説を構成(しかつ選挙後に消滅)したかが、事例を通して検討されている。

 第2部「文化的アイデンティティと政治的アイデンティティの差異」では出利葉・黒木の2論文が含まれる。出利葉論文では、アイヌの人びとをアイデンティ ティの観点から捉えるのではなく、道立の北海道開拓記念館という博物館が、アイデンティティをどのように理解し、それを様々な民族表象を通して政治的に構 成しているのかという議論がなされる。具体的には、アイヌの工芸家が、自己の創作活動のために博物館展示物の借覧を求めたケースと、展覧会に先だって内見 会に招待された工芸家グループが、借用を受けた海外の資料館からの要望をそのまま受けて(彼らの制作活動に不可欠な)手で触れる許可が認められなかった ケースが扱われる。文化を担う当事者が、自らの文化の展示物にアクセスできないことの政治的含意が議論される。ここではアイデンティティの帰属の問題より も、文化資源としての展示物の管理を通して、実際のところ誰がその管理権限をもつのかということが焦点化され、博物館やそれを運営している行政自治体の 「所轄」にあることが事件を契機に暴露されてしまう。

 黒木論文は、日系アメリカ人女性への調査を中心とし、北米アジア系女性のジェンダー、エスニシティ・宗教をめぐる種々の文献を広く渉猟した広闊な議論が 展開されている。そこでは、アジア系アメリカ人、汎エスニシティなどの分類範疇が疑問に付され、筆者のいう「はざま」の存在としての彼女らのアイデンティ ティのゆらぎが指摘されている。ただし様々な理論や先行研究が広範囲に引用されており議論の幅もフェミニスト神学などにも言及されているため、門外漢の評 者は十分な論評と判断をすることができない。

 第3部「先住民という政治的アイデンティティの行方」は、清水・池谷・小林の3論文が含まれる。先住民の国際法と条約について研究を積んできた清水によ る該博なこの論文は、先住民の概念を規定する(先住民当事者のみならずそれ以外の様々な)エージェントやそれらの国際的な関係構造、部族(tribe)、 先住民ないしは先住の民(indigenous peoples)、民(peoples)やそれを支える自己決定権などが、とりわけ2007年の国連総会で決議採択された「先住民権利宣言」をめぐってダ イナミックに議論され、国際政治力学の中で固有の概念の場所をみつけたことが詳細に分析されている。先住民の概念には自己決定に訴えるイデオロギー性がみ られ、何人の介入をも退ける政治的機能をもつと主張されている。だが、それはもうひとつの「政治的な介入」である学術の関与をも退ける概念だと筆者は締め くくっている。






 池谷論文は、1990年代後半からはじまるボツワナ政府による中央カラハリ動物保護区をめぐる立ち退き政策に直面した先住民サンの訴訟運動、それを支援 する(先住民概念の意識を異にし、それに従い支援の方針も異にする)ヨーロッパの2つのNGOとの絡まりと、さらには国連人権委員会をも介入した、事件の 顛末を活写する。そこでは、外部からの介入による先住民の政府に対する抵抗の様式も分化、多様化し、また時系列においても動態的に変化する。先の清水論文 で指摘された「先住民受け口(tribal slot)」が1990年代以降に状況を複雑化することを教えてくれる貴重な報告になっている。

 小林論文は、メキシコ中部の先住民プレペチャ(かつてタラスコと呼ばれた)で試みられた自治をめざすナシオン・プレペチャというNGOの組織の立ち上げ と頓挫について、国際援助組織との関係、先住民集団を尊重するのではなくむしろ「多様なものを管理」する傾向を強めてゆくメキシコ合衆国中央政府との複雑 な関係の顛末について書かれている。プレペチャの中心地であるミチョアカン州は中南米の初期インディヘニスモ運動の基盤となった1940年第1回インディ ヘニスタ・インターアメリカン会議の開催地であった。1975年には「参加型インディヘニスモ」を謳う第1回メキシコ先住民会議が開催されている。そのた め先住民自治組織の政治化は早くから進み、国会政党の各派組織と密接な関係をもって発展してきた。この自律した動きは、1994年1月のメキシコ最南端の チアパス州におけるサパティスタ国民解放軍(EZLN)の蜂起以降もゆるやかな連帯をもっていた。小林はその内部崩壊の理由を、司法権の確立がサパティス タに比べて不十分で、また行政執行職者の輪番制が十分機能せず固定化したことに求めている。

 第4部「政治的アイデンティティの外縁」では、武内論文と太田心平論文が取り上げられている。

 武内論文は、人口少数派であったトゥチが主に50万人(当時の国内人口の3/4に相当)も犠牲になったルアンダにおける、内戦後にトゥチを中核にする政 府の反ジェノサイド政策の分析である。政府は内戦後の反対派勢力を「ジェノサイド・イデオロギー」の体現派とみなし、特定の民族が殺されるジェノサイド概 念を使って、多数派フトゥにも生じた犠牲者の存在を認めない政策をとってきた。論文の大部では虐殺の経緯に加えて、国際刑事裁判所の設置や国際社会からの ジェノサイド認定と、そのイデオロギー化の過程が詳細に描かれている。武内によるとこれらの政治的アイデンティティの形成は、ジェノサイドを生むに到った エスニシティの政治化が、トゥチとフトゥともにステレオタイプを伴って再編制されている。このことが「ジェノサイドを繰り返さない」という国際社会に是認 された標語を通して、このステレオタイプに該当しない、反体制勢力やフトゥの内戦犠牲者、あるいは二分化されない民族アイデンティティをもつ人たち——例 えば第1章で解説されている「クウィフトゥラ」——に対する社会的排除の原因になる可能性を示唆する。

 太田心平論文は、ニューミレニアム以降に、貧困からの脱出やよりよい生活を求めて海外移住する人以外に、「韓国にいたくない」という理由により海外に移 民する「絶望移民(チョルマン・イミン)」と呼ばれる人びとの語りとその動機を分析したものである。筆者は、韓国内における文化の均質性と社会的分節の多 様性の歴史的動態について説明した後に、絶望移民に多い三八六世代(1990年代に30代で、1980年代に大学生でかつ学生運動に参加し、1960年代 生まれの世代)の語りについて分析している。とりわけ三八六世代が同時代に体験したユートピアとその挫折が、このような移民を生んだことを示唆している。

 編者の太田好信は、序論において政治的アイデンティティの理論と、これらの各論文がもつ位相について4つのポイントを指摘しているが、それらすべては民 族誌事例を分析する際に、各研究地域やその研究ジャンルの中ですでに決定済みで定番とされてきた先行する理論的枠組が、現地の人びとの政治的アイデンティ ティに注目することで、疑問に曝されたり、場合によっては解体されたりする可能性を強く示唆している(pp.22-26)。本書は、各論文が抽象度の高い 民族誌報告の内容が数多く含まれており、それぞれの論者が編者の提唱による独自な(sui generis)な「政治的アイデンティティ」の理論を受けて、中味の濃い議論をおこなっている論文集である。それらを評者が過不足なく紹介できたかとい うと心もとない。最後に評者のコメントとして一点のみを指摘する。

 それは、政治的アイデンティティという理論的枠組みの可能性についてである。編者は、政治的アイデンティティを含めて、権力(パワー)により構築される 範疇とみなす発想が、人びとが直面している歴史認識、国家とそれに帰属する少数民との権力関係、多様性を認めつつもそれが国民国家の統合を揺るがすのでは ないかという多数派への危惧などの難問に回答を与えるのではないかと示唆する(p.26)。そして範疇による本質化が否定され、政治権力が担保され、社会 から排除がなくなれば、財産・人種・宗教・ジェンダー・文化的実践などの「構造化の土台となった特徴は……集団化の原則として無意味になるだろう」 (ibid.)と述べる。

 だが、寄稿された諸論文には、権力により構築される範疇が、様々な政治過程の中で解体されると同時に、別の権力過程により再構築、再々構築されてゆく様 が、多く指摘されており、その後の展開を見るにつけ容易に「本質化が否定」されるようには思えない。範疇による本質化が否定されることが(ヘーゲル的な意 味で)止揚され社会から排除がなくなるのは、それだけでは自明な過程ではなりえない。再範疇化による本質主義の再生産を明らかにすることと、それに抗する 別の次元の社会的状態への移行の処方箋の間には、更なる議論が必要であるように、評者には思われる。だが「政治的アイデンティティ」議論の始まり=大いな る一歩として本書はその使命は十分に果たしている。以上、拙い内容だが本書評が契機になり、近い将来それぞれの問題関心に引きつけてより深い読解と議論が できるよう、会員諸氏への便宜としたい。

 現代社会における「文化の政治化」や「アイデンティティの政治」につ いての論集だろうという予見をもって本書を紐解く人は、編者である太田好信による序論を読み進めるあいだに奇妙な気持ちに苛まれることになるだろう。現代 を生きる我々の時間性についての議論、ヘイドン・ホワイトを中心とした時間と歴史認識論が今日の文化理論にもたらす影響、すでに解決済みだと言われてしま う国家の先住民に対する責務の見直しなどの種々の議論が、本書のタイトルにもなっている「政治的アイデンティティ」という新たな理論的枠組の提唱と明確な 交差点を持たないように思えるからである。しかし推理小説を読むように冒頭から謎掛けを浴びせられることは、我々にとってはすでに経験済みかも知れない。 つまりこうである。放り込まれたフィールドの現場が渾沌であればあるほど逆に、人類学者は嫌々ながら再訪を余儀なくされるものであり、もはやその探求を途 中で止めることができなくなる。フィールドの魅力とは、謎掛けと謎解きのコール&レスポンスがその人の心に響くことだ——人類学者という天職は大いなる辛 酸となけなしの快楽の繰り返しかもしれない。評者は、本書を知識や理論の源泉としてではなく、現場からの問いかけに耳を傾けること、端的に言えば、フィー ルドワークの実践の仮想的な代替としてこの本を読んだ。

 さて本書は、2007年から09年度まで続いた国立民族学博物館共同研究会の報告書として公刊され、その内容は4部構成で1本の総説(序論)と10の論 文(各論)からなっている。その4部構成の細目は、第1部「政治的アイデンティティの系譜」、第2部「文化的アイデンティティと政治的アイデンティティの 差異」、第3部「先住民という政治的アイデンティティの行方」、第4部「政治的アイデンティティの外縁」となっている。総説をふくむ11本の論考をその (章の序数)「題目:副題」(執筆者)について以下に列挙し、その後に各章の要約を付してみよう。
(序)「21世紀における政治的アイデンティティの概念化」(太田好信)、(1)「政治的アイデンティティとは何か?:パワーの視点からアイデンティティ を分析する批判理論に向けて」(太田好信)、(2)「キベラ・レッスン:ケニアにおける土着性とヌビのアイデンティティ」(慶田勝彦)、(3)「国家のな かで民族を生きる:2007年ケニア総選挙後の牧畜社会におけるアイデンティティの出現と消滅」(内藤直樹)、(4)「博物館と政治的アイデンティティ: 北海道の地方博物館を例に」(出利葉浩司)、(5)「ジェンダー・エスニシティ・宗教との交渉:北米アジア系女性の複合的アイデンティティ」(黒木雅 子)、(6)「国際法から「先住の民、先住民」への呼びかけ」(清水昭俊)、(7)「カラハリ先住民の静かな戦い:南部アフリカの先住民運動と政治的アイ デンティティ」(池谷和信)、(8)「ナシオン・プレペチャの試み:メキシコ・ミチョアカン州における先住民地域自治の模索と挫折」(小林致広)、(9) 「ジェノサイドと排除:内戦後のルワンダと国際社会」(武内進一)、(10)「国家と民族に背いて:アイデンティティの生き苦しさ、韓国を去りゆく人び と」(太田心平)。

 第1部「政治的アイデンティティの系譜」では、太田好信・慶田・内藤の3論文が含まれる。太田論文は、副題の「パワーの視点」にみられるように権力から 当事者アイデンティティを構成する議論すなわち「政治的アイデンティティ」の理論構築に力が注がれている。これは、アイデンティティをベースにした当事者 集団がその社会的承認を得ようとする運動の他称である「アイデンティティの政治」とは趣旨を異にすることが明確に述べられている(pp.42-48)。政 治的アイデンティティの理論的彫琢のために取り上げられる主たる2つの事例は、ルワンダの虐殺事件とメキシコのチアパス州におけるサパティスタの軍事的蜂 起であるが、そこから派生する議論の範囲は1848年のマルクスの著作「ユダヤ人問題」から、クリフォード・ギアツの1960年代の新興国家論、オバマ大 統領就任以降のポスト人種社会論まで多岐にわたっている

 慶田論文と内藤論文は、2007年のケニア総選挙の前後をめぐるそれぞれ異なった社会状況に焦点が当てられている。まず慶田論文では、ケニア・ナイロビ 郊外の世界有数のスラムであるキベラで2007年の総選挙後の不正抗議に端を発する暴動での「線路引き剥がし」事件を扱う。この暴動は、アカデミズムが複 数政党による国内の統治の脆弱性に着目することに注意喚起しながら、最終的にはニュースメディアでは部族的・民族対立にすぎないという「単一の物語」に回 収された。しかし慶田は、メディア情報と歴史資料の詳細な分析から、キベラの「主」であるキベラ・ヌビ(スーダン人退役兵士が語源)のアイデンティティが (a)軍事的、(b)脱部族化した、(c)再部族化した、という3つの特性からなることを指摘する。そこからキベラ・ヌビが、自らの植民地支配とケニアへ のディアスポラ経験を通して「線路」がケニアとウガンダの領土問題とケニア政府の統治能力を問う象徴的シンボルとなりえ、「線路引き剥がし」が粗暴な暴力 の発露ではなく政治的諸権利の主張の隠喩的表現となりえるとしている。内藤論文は、ケニア北部のサンブルとレンディーレの混成牧畜集団であるアリアール が、彼らのライサミス選挙区において、財政配分制度などを社会資源として、レンディーレとサンブルという2つの出自や文化的来歴のエピソードを使いながら 「マサゲラ」というアイデンティティを主張し政治的言説を構成(しかつ選挙後に消滅)していったかが、事例を通して検討されている。

 第2部「文化的アイデンティティと政治的アイデンティティの差異」では出利葉・黒木の2論文が含まれる。出利葉論文では、アイヌの人びとをアイデンティ ティの観点から捉えるのではなく、道立の北海道開拓記念館という博物館が、アイデンティティをどのように理解し、それをさまざな民族表象をとおして政治的 に構成しているのかという議論がなされる。具体的には、アイヌの工芸家が、自己の創作活動のために博物館展示物の借覧を求めたケースと、展覧会に先だって 内見会に招待された工芸家グループが、借用を受けた海外の資料館からの要望をそのまま受けて(彼らの制作活動に不可欠な)手で触れる許可が認められなかっ たケースが扱われる。文化を担う当事者が、自らの文化の展示物にアクセスできないことの政治的含意が議論される。ここではアイデンティティの帰属の問題よ りも、文化資源としての展示物の管理を通して、実際のところ誰がその管理権限をもつのかということが焦点化され、博物館やそれを運営している行政自治体の 「所轄」にあることが事件を契機に暴露されてしまう。

 黒木論文は、筆者の日系アメリカ人女性への調査を中心とし、北米アジア系女性のジェンダー、エスニシティ・宗教をめぐる種々の文献を広く渉猟した広闊な 議論が展開されている。そこでは、アジア系アメリカ人、汎エスニシティなどの分類範疇が疑問に付され、筆者のいう「はざま」の存在としての彼女らのアイデ ンティティのゆらぎが指摘されている。ただしさまざまな理論や先行研究が広範囲に引用されており議論の幅もフェミニスト神学などにも言及されているため、 門外漢の評者はここでは十分な論評と判断をすることができない。

 第3部「先住民という政治的アイデンティティの行方」は、清水・池谷・小林の3論文が含まれる。先住民の国際法と条約について研究を積んでこられた清水 氏による該博なこの論文は、先住民の概念を規定する(先住民当事者のみならずそれ以外の様々な)エージェントやそれらの国際的な関係構造、部族 (tribe)、先住民ないしは先住の民(indigenous peoples)、民(peoples)やそれを支える自己決定権などが、とりわけ2007年の国連総会で決議採択された「先住民権利宣言」をめぐってダ イナミックに議論され、国際政治力学の中で固有の概念の場所をみつけたことが詳細に分析されている。先住民の概念には自己決定に訴えるイデオロギー性がみ られ、何人の介入をも退ける政治的機能をもつと主張されている。だが、それはもうひとつの「政治的な介入」である学術の関与をも退ける概念だと筆者は締め くくっている。評者もその通りだと思うが、それは我々が切歯扼腕するようなルサンチマンではなく、それ自体が研究対象になり、我々の前に呈示されている点 で学術からの「再関与」の可能性が完全に閉ざされているわけではないとも考えられる。


 池谷論文は、1990年代後半からはじまるボツワナ政府による中央カラハリ動物保護区をめぐる立ち退き政策に直面した先住民サンの訴訟運動、それを支援 する(先住民概念の意識を異にし、それに従い支援の方針も異にする)ヨーロッパの2つのNGOとの絡まりと、さらには国連人権委員会をも介入した、事件の 顛末を活写する。そこでは、外部からの介入による先住民の政府に対する抵抗の様式も分化、多様化し、また時系列においても動態的に変化する。先の清水論文 で指摘された「先住民受け口(tribal slot)」が1990年代以降に状況を複雑化することを教えてくれる貴重な報告になっている。

 小林論文は、メキシコ中部の先住民プレペチャ(かつてタラスコと呼ばれた)で試みられた自治をめざすナシオン・プレペチャというNGOの組織の立ち上げ と頓挫について、国際援助組織との関係、先住民集団を尊重するのではなくむしろ「多様なものを管理」する傾向を強めてゆくメキシコ合衆国中央政府との複雑 な関係の顛末について書かれている。プレペチャの中心地であるミチョアカン州は中南米の初期インディヘニスモ運動の基盤となった1940年第1回インディ ヘニスタ・インターアメリカン会議の開催地であった。1975年には「参加型インディヘニスモ」を謳う第1回メキシコ先住民会議が開催されている。そのた め先住民自治組織の政治化は早くから進み、国会政党の各派組織と密接な関係をもって発展してきた。この自律した動きは、1994年1月のメキシコ最南端の チアパス州におけるサパティスタ国民解放軍(EZLN)の蜂起以降もゆるやかな連帯をもっていた。小林はその内部崩壊の理由を、司法権の確立がサパティス タに比べて不十分で、また行政執行職者の輪番制が十分機能せず固定化したことに求めている。

 第4部「政治的アイデンティティの外縁」では、武内論文と太田心平論文が取り上げられている。

 武内論文は、人口少数派であったトゥチが主に50万人(当時の国内人口の3/4に相当)も犠牲になったルアンダにおける、内戦後にトゥチを中核にする政 府の反ジェノサイド政策の分析である。政府は内戦後の反対派勢力を「ジェノサイド・イデオロギー」の体現派とみなし、特定の民族が殺されるジェノサイド概 念を使って、多数派フトゥにも生じた犠牲者の存在を認めない政策をとってきた。論文の大部では虐殺の経緯に加えて、国際刑事裁判所の設置や国際社会からの ジェノサイド認定と、そのイデオロギー化の過程が詳細に描かれている。武内によるとこれらの政治的アイデンティティの形成は、ジェノサイドを生むに到った エスニシティの政治化が、トゥチとフトゥともにステレオタイプを伴って再編制されている。このことが「ジェノサイドを繰り返さない」という国際社会に是認 された標語を通して、このステレオタイプに該当しない、反体制勢力やフトゥの内戦犠牲者、あるいは二分化されない民族アイデンティティをもつ人たち——例 えば第1章で解説されている「クウィフトゥラ」——への社会的排除の原因になる可能性を示唆する。

 太田心平論文は、ニューミレニアム以降に、貧困からの脱出やよりよい生活を求めて海外移住する人以外に、「韓国にいたくない」という理由により海外に移 民する「絶望移民(チョルマン・イミン)」と呼ばれる人びとの語りとその動機を分析したものである。筆者は、韓国内における文化の均質性と社会的分節の多 様性の歴史的動態について説明した後に、絶望移民に多い三八六世代(1990年代に30代で、1980年代に大学生でかつ学生運動に参加し、1960年代 生まれの世代)の語りについて分析している。とりわけ三八六世代が同時代に体験したユートピアとその挫折が、このような移民を生んだことを示唆している。

 編者の太田好信は、序論において政治的アイデンティティの理論と、これらの各論文がもつ位相について4つのポイントを指摘しているが、それらすべては民 族誌事例を分析する際に、各研究地域やその研究ジャンルの中ですでに決定済みで定番とされてきた先行する理論的枠組が、現地の人びとの政治的アイデンティ ティに注目することで、疑問に曝されたり、場合によっては解体されたりする可能性を強く示唆している(pp.22-26)。本書は、各論文の民族誌事例が 詳細で豊かで、それぞれの論者が編者の提唱による独自な(sui generis)な政治的アイデンティティの理論を受けて、各論者が非常に中味の濃い議論をおこなっている論文集である。それらを評者が過不足なく紹介し たとは決して言えないが、最後に評者のコメントとして一点のみを指摘する。

 それは、政治的アイデンティティという理論的枠組みの可能性についてである。編者は、政治的アイデンティティを含めて、権力(パワー)により構築される 範疇とみなす発想が、人びとが直面している歴史認識、国家とそれに帰属する少数民との権力関係、多様性を認めつつもそれが国民国家の統合を揺るがすのでは ないかという多数派への危惧などの難問に回答を与えるのではないかと示唆する(p.26)。そして範疇による本質化が否定され、政治権力が担保され、社会 から排除がなくなれば、財産・人種・宗教・ジェンダー・文化的実践などの「構造化の土台となった特徴は……集団化の原則として無意味になるだろう」 (ibid.)と述べる。

 だが、寄稿された諸論文には、権力により構築される範疇が、様々な政治過程の中で解体されると同時に、別の権力過程により再構築、再々構築されてゆく様 を、読者は見る(=読む)ことになる。範疇による本質化が否定されることが(ヘーゲル的な意味で)止揚され社会から排除がなくなるのは、それだけでは自明 な過程ではありえない。再範疇化による本質主義の再生産を明らかにすることと、それに抗する別の次元の社会的状態への移行の処方箋の間には、更なる付加的 議論が必要であるように、評者には思われる。だが、始まりとしての議論の使命は十分に果たしている。本書評が契機になり、近い将来それぞれの問題関心に引 きつけてより深い読解と議論ができるよう会員諸氏への便宜としたい。


注意、実際に印刷された書評(出典は下記)とは異な りますので、文献引用される際には、原著(=書評:文献に出典を明記)にあたってください。

本章の章立て(著者)

クレジット:池田光穂,書評:太田好信編『政治的ア イデンティティの人類学:21世紀の権力変容と民主化にむけて』世界思想社、2012年、『文化人類学』第78巻3号、Pp.426-430、2013年 12月31日、の投稿前の原稿に関する考察。

文献

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