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ベンヤミン「ニコライ・レスコフの作品についての考察」について

Scrath in Russian Literature, and/or the context of Michael Bakhtin's polyphony and unfinalizability theory

池田光穂

ここで出てくるレスコフとは、あのベンヤミンの「物 語作家」に出てくる、Nikolai Leskov, 1831-1895、その人である。

Nikolai Leskov, 1895-1931

聞き手の語り手に対する素朴な関係語られたことを覚えておこうという関心によって支配されている、 ということは、これまでほとんど顧みられることがなかった。無心な聞き手にとって重要な点は、話を再現する可能性を確保することだ。記憶(ゲデヒトニス)こそ、他の何ものにもまして叙事的な能力である。すべ てを包括する記憶によってのみ、叙事文学は、一方では事物の成り行きをわがものとし、他方ではそれら事物の消滅、すなわち死の暴力と和解することができる」—— ヴァルター・ベンヤミン「物語作家」1936年(Banjamin_NIkolai_Leskov1936.pdf

■ベンヤミンのレスコフ論への、ハンナ・アーレント の短いコメンタリー

"He [=Benjamin] wanted to preserve it even though it was not truth, if only for the sake of this "new beauty in what is vanishing" (see. Benjamin's essay on Leskov); and he knew, on the. other hand, that there is no more effective way to break the spell of tradItIon ,than to cut out the "rich and strange," coral and pearls, from what had been handed down in one solid piece. (Arendt 1973:41-42)- Introduction, Walter Benjamin: 1892-1940. In "Illuminations," Translated by Harry Zohn, Glasgow: Fontana.

■最後の締めくくりのことば:「物語作家=義人」か ら考えよ!

【最後の言葉】

「物語作者——それは、自分の生の灯芯をみずから の物語の穏やかな炎で完全に燃焼し尽くすことのできる人間のことだ。ハウフと同様レスコフにおいても、スティーヴンソンと同様にポーにおいても物語作者の 周りに漂うあの比類ない雰囲気は、まさにこの事情に由来している。物語作者とは、義 人が自分自身に出会うときの姿なのである」(pp.333-334)。

■170311のノート(晶文社版)

・物語作家とは、どんな親しい響きをもっても、必ず しも僕らに生き生きとした印象をもってうかんでくる者ではない。誰々(=レスコフ)を、物語作家として呼ぶ/描くことは、その人と我々を近づけることには ならない(p.178)。——ページは野村修編(晶文社版)

・ある視覚体験をもつ:ある岩塊=人間の頭部と感じ る、動物の胴体に見えてくる→特徴が顕れてくる。(=ジェームス・クリフォードの犬という、ダナ・ハラウェイの命名の朽ち木と苔)

・経験は物語るという。それは芸術の経験の終焉を告 げる。「まっとうな何かを語るひとと出会うことが稀になってゆく」(p.179)→ベンヤミンのいうアウラ経験の喪失/消失

・まっとうな何かを語る人と出会うことが稀になって いく(179)——アウラの消失の語りに類似

・アウラの消失がもつ社会的意味の両義性:1)古典 的なハイカルチャーの消失、2)複製芸術を通した大衆への動員力、想像喚起力の登場

・そもそも人生の経験が有限であり、自分にとって意 義のある人の語りに出会うことすら稀である(希少性の原理)

・1)マニュアル化、2)プロトコル化、3)リソー ス化

・A)歴史家の資料フェチ(アウラ探求)——歴史の 物象化、方法論的限界

・B)社会学者の(語りの)データフェチ——データ のなかに真実があるという錯認、ロマン主義

・「このような現象のひとつの原因ははっきりしてい る。経験はその株価を下げてしまったのだ」(179)。

・(第一次大戦の)「戦争が終わったとき、戦場から 帰還した兵隊が一様にむっつりおしだまったのに、ぼくらは気がつかなかったのだろうか? ひとに告げることのできるような、ゆたかな経験などなかった。経 験はすっかり貧弱なものになってしまった」(179)——ヴァルター・ベンヤミン。アラン・ヤングのPTSD著作(「幻影のハーモーニー」)

・ニコライ・レスコフ(1831-1895):オ リョール出身で、ペテルブルグで死去。

・農民への関心をもったトルストイと、宗教的傾向の あるドストエフスキーの中間に属する作家

・初期創作、晩期物語(作家)

・アウエルバッハと、ベンヤミンの比較文学評論・論 は可能か?

・アウエルバッハ:アレゴリーの永続性、普遍性、レ ジリエンス性を強調する

・ベンヤミン:アウラの消失、複製芸術のなかに一縷 の可能性を見いだす(不安の評論)/それに比べると複製メディア論のマーシャル・マクルーハンの楽観主義的なこと!

・私たちが考えていることが、現実のものと錯認を起 こしていても、何ら問題がない。理論を現実なるものにあわすのではなく、現実を理論に近づける態度こそが近代啓蒙思想の産物である——池田のつぶやき。

・この機能的な意義は、現実は我々がそう思っている そのものであることについて、確信をもてる人は楽観論者すぎるということか?——ヒューム的懐疑論

■170319のノート

・1)長編小説との著しい対比

・2)ニューロマンサーはポリフォニー小説たりえる か?

・3)シャーマンが、多くの精霊とのコミュニケー ションをしているのは、彼がポリフォニーの状態にいることになるのか?

・4)カーメン・ブラッカーが、大昔に、僕にむかっ て真顔でたずねたこと:「あなたは、三葉虫やアンモナイトという言葉を聞いたことがあるか?」「ええ、はい」「我々のなかには、三葉虫やアンモナイトの記 憶が息づいている」(→「ブラッカーさんからのメッセージ」):これは、さま ざまな人たちが言ってきた「語りの伝染性」というものと関係しているかもしれない。

・3)と4)を拡張すると、ポリフォニー的な状況 は、今日/日常のすべての生活世界の中の出来事にすぎなくなる。発話には、ハイライトがあり、また、聞く聞かぬ(読む読まぬ)は、聴者(読者)の主体性に まされているからである。

・読む=読解するは主体的行為に属するが、聴く/分 かる、想像するは、まず受動的な行為の系列に属する。

・ポストロマン→複製→ベンヤミン→インターネット などなど。

・克服すべき課題:ポリフォニー的ロマンとは、撞着 語法なのか?それとも冗長表現なのか?

・私(池田)の最終的な着地点とは何か?(→「病い研究とポリフォニー:ミハイル・バフチンから刺激を受けて」)

・モノロジックな誘導する論理を導けば、バフチン流のポリフォニーの復権とは真逆の背信行為になりはしまいか?:

・ハイパーリンクは、時間差によるポリフォニーだ! ——我々の脳の情報処理機構そのものがポリフォニー的エコー(反響)からなるのである。

・さらに(原点にもどり)「病いの語り」の横溢と、お手軽な称揚に警鐘を鳴らす——あるいは鳴ら したい、五月蝿い論争屋根性!

エビデンス(EBM)ナラティブ(NBM)を弄して延命しようとする近代医療への批判の再 々確認

・近代医療批判:ウィルヒョウ、AMA、構造論、象 徴論などなど

・文化主義者の基本的テーゼ:「文化というものが我 々の思念や行動をどのように形づくるのか?」——この発想には、分かったことをどのように応用したり、利用するかについての関心は低いように思われる。つ まり、文化主義者には「主知主義」的伝統があるということだ。(→「エンボディメント・身体化・具体化」)

・米国の主知主義的伝統の社会的背景についての考察

1)移民社会

2)対外戦争において、自分の国土が戦場になったこ とがなかった。→911における米国のショック、国家的PTSD

3)インテレクチュアリズムが、社会的資本の安定供 給概念なってきた

4)現今(=2017年)における、1)〜3)のす べてが崩壊の兆し、その象徴=ドナルド・トランプの登場。

参照)アーレント流の1950-1960年代のポス ト・マッカーシー時代における、一連の米国大学の知識人への態度への嫌悪。社会科学が実践の問題になることはあれ、危機を乗り越える〈手段〉としては、ま ともに議論されることはない。ライト・ミルズ「社会学的想像力

・ゲーテとしてのベンヤミン、ドストエフスキーとし てのバフチン

ベ ンヤミン
バ フチン
ゲー テ
ド ストエフスキー
・ ドイツロマン主義の完成
ポ リフォニー的文芸ジャンルの確立
・ 親和力
長 編小説

■浅井訳に準拠(章立て)

# I 284
# II 287
# III 288
# IV 290
# V 292
# VI 294
# VII 296
# VIII 299
# IX 300
# X 304
# XI 306
# XII 308
# XIII 311
# XIV 313
# XV 316
# XVI 319
# XVII 321
# XVIII 325
# XIX 329

■ここから、浅井訳に準拠

・教養小説〈対〉長編小説

・教養小説は、倫理を登場人物のなかに体現するわけ ではない(浅井訳, p.293)

・物語が、市民階級→識字→新聞、新聞小説 (294)に変わり、物語が衰退する/それと逆に長編小説の勃興する

・物語〈対〉情報

・「知らせ」=物語=物語る(295)——伝承—— 時間的遠さ、異国——空間的遠さ、そしてそれを支えるものとしての「権威」→(クリフォード:民 族誌的権威

・「情報」……検証(可能):もっともらしく響く= 普及(295)

・ゲシヒテ(Gesichte)=出来事、歴史 (295)

・事件=出来事にはさまざまな説明(修飾)がつく (295-296)

・「出来事を再現することによって、その出来事をあれこれの説明から解き放ってやることは、それだけでもう半ば物語る技術なのだ」(296)

・ここから言えることは、出来事(ゲシヒテ)の再現 は、説明からの解放であり、物語の技術に属する事柄であるということだ。

・「その点でレスコフは名人である」(296)

・「物語ることの性格」=解釈(=心理的連関)を読 者に要求しない。ヘロドトスの記述「プサンメニトスの逸話」

・物語そのものは、解釈するものに、逆に振幅を与え る。

・ヘロドトスの記述「プサンメニトスの逸話」、ヘロ ドトス「歴史」第3巻、14章の解釈をめぐって:エジプト王プサンメニトスが、ペルシャ王カンビュセスに敗北した後にみられた逸話の解釈。

・ヘロドトスの記述「プサンメニトスの逸話」を理解 しようとするモンテーニュで、この解釈議論が有名になる。そして、それをさらに講釈するベンヤミン:解釈の入れ子構造(298-299:註参照)/ブロッ ホ『痕跡』1930年、「沈黙と鏡」プサンメニトスの解釈

・1)フランツ・ヘッセル:感情が堰を切ってでてく る

・2)アーシャ・ラツィス:演劇上の修辞にすぎない

・3)ベンヤミン:大きな気持ちが堰き止められる が、小さな気持ちはそうではない。

・「物語ることの性格」=解釈(=心理的連関)を読 者に要求しない【再掲】→の隠喩的表現:「それは何千年ものあいだのピラミッドの小部屋に封印されていて、今日に至るまで、その発芽力を保持していた穀物 の種子に似ている」(298)

・情報……「情報は、それが新しい瞬間に、その報酬 を受け取ってしまっている。情報はこの瞬間にのみ生きているのであり、みずからのすべてを完全にこの瞬間に引き渡し、時を失うことなく、この瞬間にみずか らを説明し尽くさねばならない」(297)

・物語……「みずから出尽くしてしまうことがない。 物語は自分の力を集めて蓄えており、長い時間を経た後にも、なお展開していく能力があるのだ」(297)。言い換えると、物語は、長い時間的尺度のなかで 「報酬」を得る。

・簡潔さは「無垢」か? 参照:厚い記述

・「心理分析など入り込む余地のないあの無垢の簡潔 さほど、語をのちのちまで強く記憶に留めさせるものはない」(299)

・簡潔さ:(聞き手)自身の経験に同化されてしまう →いつの日か「語り継いでいきたい」という気持ちが高まってしまう。

・同化はリラックスした状態を必要とする(299) →これは気散じのなかの複製芸術の「消費」に繋がるのではないか?(池田)

・「リラックスした状態」の頂点

眠 り
退 屈
身 体的
精 神的
「物語る能力がそっと寝かされている寝床 の網」(300)
・話が記憶に留められなくなると、この技術は失われゆく
・鳥の巣の減少(現代の特徴)
「(退屈は)経験という卵をかえす夢の鳥 だ」(299)→森の葉擦れのザワザワ音(Blatterwald)→鳥を追いだす
・そこでは退屈は、鳥の巣である
・ザワザワ音は、新聞界ジャーナリズム

・「話を物語るとはつねに、つねに話をさらに語り伝 える技術なのである」(300):技術=「聞き入ることが語る能力を授かる」(300)

・「手仕事のリズム」=p.301にもレスコフの弁 として

・手仕事や必要とされなくなる。pp.301-

・芸術<手仕事(レスコフ)p.301

・手仕事=「真理に忠実な作家」(トルストイ)

・「自然の忍耐強いやり方」の「人間による模倣」 (p.303)

・永遠という思想の消滅(304)

・「マリ・モニエの刺繍」=ポール・ヴァレリー「時 間など問題にされなかった時代は過ぎ去ったのだ」(303)

・「今日の人間は、短縮されえないような仕事にはも はや手をつけようとしない」

・物語から、ショートストーリーへの生成(303)

第X章:304-

・長い時間を要する仕事への嫌悪=永遠という思想の 消滅/永遠の思想と「死」の考え

・死の隠蔽(p.304) 参照:フィリップ・アリ エス(池田)あるいはジェフリー・ゴラー

・人びとの「死にゆく者をみなくてもすむ可能性を与 える」

・死=公的出来事=他者への範例性。死は玉座に。人 びとは玉座に押し寄せる

・ultima multis

・家で死なない/死ねない。末期に、病院、サナトリ ウムに送り込まれる(かつての日本の風景と類似)

・ゲシヒテ=歴史=物語は、死にゆくものにおいて語 られる(305)

・第XI章

・「死は物語作家が報告しうるすべてを承認する」 (306)

・「彼(=物語作家)は死からその権威を借り受けた のだ」(306)

・年代記作者=救済史傾向をもつ

・物語作者=世俗的傾向をもつ

・第XIII章=記憶の問題(記憶=ゲヒトニス)pp.311-

・「聞き手の語り手に対する素朴な関係は語られたこ とを覚えておこうという関心によって支配されている、ということはこれまで顧みられることはなかった」(311?)

・無心な聞き手——話を再現する可能性を確保するこ と

・記憶(ゲデヒトニス)こそ、叙事的な能力である。

・「すべてを包括する記憶」のみ、そして、〜に基づ いた「叙事文学」のみ=事物の消失である、死の暴力と和解できる(311)

・記憶=ゲデニヒトス/叙事詩→物語——記憶/叙事 詩→長編小説——記憶

・追憶=エアインネルング(311)→ムネモシュ ネー

・叙事詩→物語——記憶

・叙事詩→長編小説——記憶

・叙事詩→長編小説→追想(エアインネルング):叙 事文学のミューズ的なもの

・叙事詩→長編小説→想起(アインデンケン)[追憶 →想起](313)

・【追想】追想は、起こったことを世代から世代へ語 りつないでいく伝統の鎖を作り出す

第XIV章 追想の遺産相続人=長編小説家(314-)

・深い憂鬱がともなう

・ジェルジ・ルカーチ(1885-1971):長編 小説=「先験的な故郷喪失の形式」=意味と生の分離

・「時間みずからの一連の構成的原理のなかに取り込 む唯一の形式である」『小説の理論』(1920)(ただし、ベンヤミンの引用は大胆な省略がある)

・生の意味(315-316) :失う=途方にくれ る

・finis 終わりには、大きな意味がない。

・これ以降の、ベンヤミンは、物語/小説の内容、要 素、意味の細部に入り、物語とは何かを問う議論は希薄になる。

・「世界劇場(テアトルム・ムンディ)の主役は義人 である」(328)

・【最後の部分】における「義人」の理解???

・ヴァレリーのいう【芸術家の観察】に注目せよ!

・「芸術家の観察は、……ほとんど神秘的な深みにま で達することができる。そのような観察が向けられた対象は、その名を失う。すなわち、そこでは陰影と明るさがまったく特別な体系を形づくり、まったく独自 の問題を描き出すのである。この問題は、いかなる学問の恩義も受けていないし、またいかなる実践に由来するのでもない。それは、存在と価値を、魂と目と手 のあいだに生み出される、ある種の譜調からのみ受け取る。この譜調は、自らの内部でそれを捉え、それを呼び起こすことができるように生まれついた人の、そ の魂と目と手のあいだで生み出されるものである」(「コローをめぐって」1932年)(332)

・「(物語るという行為は、その感覚的な面からすれ ば、決して声だけの業ではない。真の語りのうちには、むしろ、手の働きが大きく関わっている。手は、仕事の経験のなかで熟練した仕草によって、声となって 聞こえてくるものを実にさまざまに支え援けるのだ。)ヴァレリーの言葉のなかに表われている、あの魂と目と手の古くからの協調は、物語るという技術が棲 まっているところで出会うような、手仕事的なものなのである。さらに一歩進めて、こう自問してみてもいいだろう。物語作者がその素材に対してもっている関 係は、それ自体が手仕事的な関係ではないか? 物語作家の課題とは、経験という生の素材を——他人のであれ自分自身のであれ——手堅く、有益で、一回限り のやり方で加工すること、まさにこのことにあるのではないのか?」(ベンヤミン:ちくま文庫版、pp.332-333)。

・手仕事=アウラ=物語作家=消えゆく職人・工匠

・「諺というものを物語の表意文字と捉えたときに、 この意味での諺によっておそらく最も手早くそのイメージが与えられるような、そういう加工である。諺とは——こう言っていいだろう——古い物語という広場 に立っている廃墟なのであ。この廃墟には、壁に這う蔦のように、ひとつの身振りにひとつの教訓(Moral〔道徳〕)が絡みついている」(333)。

【最後の言葉】

・「物語作者——それは、自分の生の灯芯をみずから の物語の穏やかな炎で完全に燃焼し尽くすことのできる人間のことだ。ハウフと同様レスコフにおいても、スティーヴンソンと同様にポーにおいても物語作者の 周りに漂うあの比類ない雰囲気は、まさにこの事情に由来している。物語作者とは、義 人が自分自身に出会うときの姿なのである」(pp.333-334)。

・「世界劇場(テアトルム・ムンディ)の主役は義人 である」(328)を思い起こせ!

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