かならずよんで ね!

科学研究におけるアナキズム

Anarchism in Science Studies of New Millennium

池田光穂

アナーキズムについて、私が拾ってきた3つの言説の 断片を紹介する。

【断片一】

「リベラリズムやデモクラシーと同様、アナーキズムは、概念を満たすために、その性質はひとつ以上の内容を含んでいる。…(中略)…アナーキズムのどのよ うな定義も、その政治行動の記録以上の数の文献から、由来しているに違いない」アンドリュー・ハッカーによる解説『社会科学国際百科事典』(一九六八:二 八三)。

 『社会科学国際百科事典』はディビッド・シルズ(David L. Sills, 1920-2015)によって編集された社会科学事典の金字塔。第二版(二〇〇八)もあるが、現在でもこの初版のほうがよく引 用される。ハッカーは、アナーキズムを冒頭から明確に定義していない。あるいはできないのだ。アナーキズムは論者の数だけあるということを象徴的に表現し ている。これは本稿で述べる認識論的アナーキズムを理解する時にも生じる問題である。さてハッカーによる説明では、この後に、ウィリアム・ゴードウィン、 ピエール・ジョセフ・プルードン、ピョートル・クロポトキンの三大アナーキスト理論家の名前と、それらに共通するアナーキズム思想が解説される。

【断片二】

「一八〇〇年代後半では[ベンジャミン・]タッカーが、『哲学的アナーキズム』という用語を造ったのだが、彼はアナーキズムの革命運動的変種とりわけア ナーキスト的共産主義とそれを区別して、相互扶助のような平和的で進化論的なアナーキズム諸理論を哲学的アナーキズムだとみなした」アラン・アントリフ (二〇〇一:四)[ ]は引用者の加筆、以下同様。

 タッカーは米国の個人主義的アナーキズムの提唱者。一八世紀前半ドイツの哲学者マックス・シュティルナー『唯一者とその所有』の英訳者である。シュティ ルナーは自我(エゴ)以外の所有は空疎なものとして退けた苛烈な個人主義の信奉者。そこから導かれることは、自我に害を及ぼすものであれば社会や国家すら 排除してもよいということを正当化する。タッカーは、英国の社会主義者バーナード・ショーや、ドイツの特異的な哲学者フリードリッヒ・ニーチェの翻訳者で もあった。とりわけタッカーが批判したものは資本主義社会の4つの独占(金融、土地、関税、特許権)であった。彼が、共産主義と峻別して哲学的アナーキズ ムという造語に寄せたのは、シュティルナーに倣って個人の自由を脅かす社会制度的な制約を見破る認識論に大きな期待を持っていたからだ。

【断片三】

「アナーキストの見方では単純に、その[政府がもつ立法権力への]信仰が単純に誤っていることであり、国家は、その権利を要求したり、また国家の臣民が一 般的にそれを承認したりするようなこともあり得ない。これは事実についての言挙げではなく諸原理についての言挙げなのだ。権威の原理に対する攻撃——これ を哲学的アナーキズムと私は呼びたいのだが——はアナーキスト全体のポジション(まさに正鵠を得た理由なのだが)の中核に位置するように思え、この視点は それほど外れてはいない」(ミラー 一九八四:一五)。

 ディビッド・ミラーは、哲学者カール・ポパーの助手を務めたこともある英国の哲学者で、その師匠が提唱した批判的合理主義を継承信奉している。ミラーの 主張に従えば、政治的なアナーキズムには、それに先立ち、権威の原理に対する哲学的・認識論的な反発がある。これはまた、その後のアナーキズムの実践にも 結びつくはずだということになる。したがって哲学的アナーキズムは認識論的アナーキズムに繋がる可能性がある。ただし、この後に述べるファイヤアーベント のそれ——本人によると認識論的アナーキズムはダダイズムと同義と言う——とは大きく異なり、ゴードウィン、シュティルナーに加えて(寛容的アナーキズム について造詣の深い)ロバート・ポール・ウォルフという哲学的アナーキズムの理論家の仕事を、この著者ミラーは真面目に紹介している。

【断片4】

「……理路整然とした社会理論としての 個人主義の起源は後期中世スコラ哲学のいわゆる唯名論にある。唯名論の教義では、ある事物の本質と は個別性、つまり事物をこのものにしているものであり、また神にあっても人間に意志は理性 に先行する。ホッブズはこの唯名論の伝統を相続したのであり、それを近代世界に手わたすことにかけ てはほかのどの著作家にもまさっていた。かれの公民哲学の根底にあるのは、個人の価値や尊厳にかん するとらえどころのない信念ではなく、世界はもろもろの個的実体からできているとする哲学である」(オークショット 2007:72)

 では、私が考えるアナーキズムとはなんだろうか?  そのことについて、ここで簡潔に述べておこう。

 アナーキーという語の初出は『オックスフォード英語辞典』によると一五三九年のオランダのエラスムスによるものだが、一七世紀のロジャー・ベーコンやヘ ンリー・モアの著作の中にも登場する。アナーキズムとは、一般に無政府主義と呼ばれるが、その語義は「首領(arch-)を否定する」すなわち、各人がも つ権力(パワー)を最大限に尊重する政治信条ないしは主義主張のことである。アナーキズムを信奉する人すなわちアナーキストは、テロリストないしは暴力主 義者とこれまで見なされてきた。しかし、それは各人がもつ権力の上にたつ権力者を否定するための手段として「暴力」の使用をも容認してきた歴史的経緯によ るものであって、アナーキストであることと暴力は必ずしも直接には結びつかない。歴史に登場するアナーキストの多くは本来、非暴力主義者であった。なぜな ら、暴力というものは、それを行使する者に対して、その実力以上の象徴的な恐怖と権力を派生させるものだからである。言うまでもなく、この思潮の延長上に 位置づけられるのがテロリストである。だがアナーキスト=テロリストというスティグマ(烙印)はつねに権力が貼り付けてきた卑劣な糾弾のレトリックであっ たのだ。したがって、ここで私が言わんとすることは次のとおりである。《アナーキズムは、各人がもつ権力を最大限に尊重する思想ではあるが、その当の権力 が派生する暴力性につねに警戒するがゆえに、アナーキストは共同体内に流通する権力というものを最小限に食い止めようとすることにある》と。
 アナーキズムおよびアナーキストに関する私の理解は以上の点に尽きる。本稿における議論は、その内容が枝葉末節に及んでも、つねにここに回帰することを 目的とし、これ以降は、科学におけるアナーキズムの可能性と限界について検証することとする。

 科学研究においては、すでに、かの偉大なパウル(ポール)・ファイヤアーベント(一九八一)が「認識論的アナーキズム(epistemological anarchism)」という概念をいち早く提唱している。したがって、本稿はファイヤアーベントが使う科学研究におけるアナーキズムについて考察が中心 となる。なお彼の名はファーストネーム[ヴォルナーメ]で時々パウルと親しみと敬意をもって呼ぶこととする。ここでの議論は、科学の認識論すなわちある科 学的事実を「検証」する際には、我々は検証を通して審らかにされる「事実」そのものが、理解(=解釈)に伴う約束事に拘束されていることを前提にしてい る。だが約束事に拘束されているばかりでは、科学は進歩しない。マイナーな約束事の破壊(例:反証による論駁)も、メジャーな約束事の破壊や破棄(例: トーマス・クーン流の科学革命)も、科学の進歩には、まず従来のものの見方の破壊が多かれ少なかれ見られるのだ。パウルは、その認識論的破壊には、何の制 限もあってはならないとする。言うまでもなく、これもまた事実に対する言挙げよりも原理に対する申し立てなのだ。それがパウルの「認識論的アナーキズム」 の要衝である。

 彼によれば、「科学は本質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、 また一層確実に進歩を助長」し「進歩をさまたげない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)」。つまり、科学の方法論は、どのような拘束も受けない。言い方をかえると、科学研究において方法論——ここでの仮想敵は 彼の盟友イムレ・ラカトシュであるが——の制約を課すことは好ましくない。レッセフェールで行こう!というわけだ。これはファイヤアーベントがかつて師事 したカール・ポパーが主張する反証可能性をもつ科学と、そうでない疑似科学の「峻別を目的とする境界づけ(demarkation)」の議論に真っ向から 反対するものである。彼は続けて主張する。「科学が前提される限り、理性は普遍的ではあり得ないし、非理性は排除され得ない。科学のこの特徴はアナーキズ ム的認識論を要求する。科学は神聖不可侵ではないということ、また科学と神話との論争はどちらかの側が勝利を収めるという形をとらずに終息しているという ことを十分に理解するならば、アナーキズムの擁護論はさらに強化される」。そして政治哲学にはそうではないが、アナーキズムは「認識論と科学哲学に対して はたしかにすばらしい薬」だというのである(一九八一:一)。

 このように先駆者ファイヤアーベントは、科学的推論の過程や、科学という営為を最大限に保証する認識論的枠組みの基盤を、アナーキズムに求めた。しか し、認識論という形容詞がつくように、そして彼自身が、政治哲学にはベストではないと指摘するように、端的に言うと、それはヨーロッパ近代啓蒙主義の枢要 なイデオロギーである各人における「思考や想像の自由」を謳っているのみにすぎないように思われる——文学においてはすでに一八世紀後半にマルキ・ド・サ ドが試みたこの「思考や想像の自由」が二世紀も遅れてようやく主張されるとは! たしかに、科学研究において、さまざまなことを考えることは、科学研究の 大きな推進力である。と同時に、科学者自身の「科学する楽しさ」を保証する枢要な思考的な構えであることは言うまでもない。パウルは当たり前のことを言っ たのだが、それが驚きの主張であったのには、わけがある。科学研究の場は、現在においてもなお暗黒の中世よろしくドグマチズムに満ちあふれているのだ。

David L. Sills, 1920-2015, American sociologist known for his studies of organizational goals in voluntary associations

"Sills received a Ph.D. from Columbia University (1956). He served as a research analyst in the public opinion and sociological research division during the Allied occupation of Japan (1947–50). He headed the United Nations Technical Assistance Organization in Bombay, the demographic division of the New York City Population Council, and the Columbia University Bureau of Applied Social Research. Employed by the publishing firm of Crowell Collier & Macmillan (1962–67), Sills was the editor of the 17-volume International Encyclopedia of the Social Sciences (1968, with a later supplement). He served as a fellow at the Center for Advanced Study in the Behavioral Sciences at Stanford University and as a visiting scholar at the Russell Sage Foundation. Sills also served as executive associate for the Social Science Research Council, an international organization promoting social-science research and education, from 1973 until 1988, when he retired with emeritus status. In 1989 he received the American Sociological Association’s Distinguished Career Award for the Practice of Sociology. Sills is the author of Accident at Three-Mile Island: The Human Dimensions (1981), with C.P. Wolf."

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