かならずよんで ね!

名指す人類学から「名指しから反省する」文化人類学へ!

Cross-boundary Studies of Rethinking of Global Studies from the Indigenous people's points of views

池田光穂

太田による国立民族学博物館・共同研究会「政治的分 類——被支配者の視点からエスニシティ・人類学を再考する」(2014-2017年度)は、支配の対象として集団化されてきた人たちの視点を名指し行為と してみて、従来の人種や民族(エスニシティ)を再考するプロジェクトであった。この研究会はそのような名指しをローカルな人種や民族として捉えることをや め、その名指しをコロニアリズムへの反省へと照射し、他者と相対するための倫理の構築学として構想された(太田 2015,2017)。研究代表者の太田のこの指摘はきわめて重要であり、人類学を含めた人文社会科学の脱植民地化のためには重要なプロジェクトをなす提 案だと考えるに至った。

太田による国立民族学博物館・共同研究会「政治的分 類——被支配者の視点からエスニシティ・人類学を再考する」(2014-2017年度)は、支配の対象として集団化されてきた人たちの視点から人種や民族 (エスニシティ)を再考するプロジェクトであった。カシュラン(カクチケル語)、シナクやシヌーラ(マム語)、ハオレ(ハワイ語)、シャモ(アイヌ語)、 ヤマトゥ(シマクトゥバ[沖縄語])など、先住民が外部の人を名指しする言葉の中には、敵 意・反感・服従・差別などの対抗的な概念が付与されており、国民 国家に先住民が包摂されてもコロニアルな関係が今なお継続していることが明らかである。この研究会はそのような名指しをローカルな人種や民族として捉える (=再定義する)ことをやめ、その名指しをコロニアリズムへの反省へと照射し、他者と相対するための倫理の構築学として構想された(太田 2015,2017)。研究代表者の太田の指摘はきわめて重要であると同時に、人類学を含めた人文社会科学の脱植民地化のためには重要なプロジェクトをな す提案であると、私は受け止めている。

つまり、人類学者や支配的な民族や統治者だけが、先 住民や研究対象を名指すだけでなく、「被支配者の側にも支配者をエスニシティや人種 として名指す行為」がある。なぜ、被支配者の側にも、それがあるのか? その多くは対抗的行為と言われ、また両者の間にはコロニアルな構造がいまだ継続中であるからだ。太田好信(2017:20)はこのことを 指して、人種やエスニシティとは、自然界や社会的な違いによる客観的な分類とは言えず、それらは「政治的分類」であると指摘する。ジュディス・バトラーらのフェミニズムの議論に 引きつけて言うと、セックスやジェンダーもまた、自然や社会的な違いによる客観的分類ではなく、セックスやジェンダーは政治的分類概念なのである。

さらに太田(2017:20)は、先住民が支配的民 族に対して行うこのような名指し行為を、人類学者である「自己への呼びかけ」として受け取った時に、どのように(先住民など文化人類学における研究対象と みなされてきた)人々すなわち「他者と相対(あいたい)するための必要な倫理を探る べき」であると主張する。

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■オカの危機(The Oka Crisis, Crise d'Oka)について

"The Oka Crisis (French: Crise d'Oka) was a land dispute between a group of Mohawk people and the town of Oka, Quebec, Canada, which began on July 11, 1990, and lasted 78 days until September 26, 1990 with one fatality. The dispute was the first well-publicized violent conflict between First Nations and the Canadian government in the late 20th century." - Oka Crisis.

The Oka Crisis in 5 minutes


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オカの危機に立ち向かい、先住民に対する王立委員会に参加した、ジェームズ・タリー教授(James Tully, 1946- ) から学ぶこと。

1)先住民から学び、自己を変容させること、

2)自らの理解がつねに不完全であることを自覚すること、

3)誤った議論の誘導に気づいた時には、再びやり直す勇気をもつこと。

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そこから導かれる、太田(2017:21)の文化人類学と先住民の倫理的な関係

1)文化人類学が、自らの理論のみで他者を完全に掌握できるという確信を疑うこと、

2)コロニアリズムの歴史を自ら背負うこと、また、それに自覚的になること、

3)自己を他者に対して開くこと。

が、相対(あいたい)の倫理の最初のレッスンとなる。

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太田好信『人類学と脱植民地化』岩波書店、2003年ノート

序章 回帰する過去と批判的人類学への要請

第1部 歴史の語り直し

1章 「ポストモダン人類学」を語り直す

2章 フランツ・ボアズ——移民としての人類学メイキング

3章 文化への閉ざされた道

第2部 知識人と近代——リベラリズムと真正さの言説

4章 沖縄発「土着コスモポリタニズム」の可能性

5章 知識人への経路——グアテマラ、そして日本

6章 マヤ民族とグアテマラ多民族国家建設の理念

7章 先住民性とポストコロニアル理論

8章 脱植民地化におけるグアテマラと日本——構築主義と本質主義との対峙

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序章 回帰する過去と批判的人類学への要請

0.1 プトマヨのロジャー・ケイスメントと「死の空間」

0.2 ケイスメントと終焉しない脱植民地化

0.3 本書の構成

0.4 植民地的想像力がつくりだす現実

0.5 「認識論的暗闇」からの第一歩

第1部 歴史の語り直し

1章 「ポストモダン人類学」を語り直す

2章 フランツ・ボアズ——移民としての人類学メイキング

3章 文化への閉ざされた道

第2部 知識人と近代——リベラリズムと真正さの言説

4章 沖縄発「土着コスモポリタニズム」の可能性

5章 知識人への経路——グアテマラ、そして日本

6章 マヤ民族とグアテマラ多民族国家建設の理念

7章 先住民性とポストコロニアル理論

8章 脱植民地化におけるグアテマラと日本——構築主義と本質主義との対峙

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■『人類学と脱植民地化』読書メモ

マヤ運動は一枚岩なのか?

〜すべきという主張は、どういう時に作動するのか?(=効果を有する)

ポルノグラフィーとしての民族誌——民族誌は劣情をもたらすのか?/読まれることを禁止される/読むことがはばかられる/ひそかに熱望される/などなど

聖書としての民族誌——夜寝る前に読む民族誌/教会=大学の講義室で使われるべき/道徳的物語である/などなど

テキストはつねに生産され、消費されることを「待って」いる。

否定語の人類学

民族誌的近代への介入

民族誌的知識とは?——「文化という意味体系から脱中心化してしまう経験が生む何 か」であり「文化のなかにいたまま、それを外から眺める行為が生む何か」である(太田 2001:15)

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[余滴]

先住民はもういなくなるから人類学もいらなくなるだろうという学問神話に支えられているからこそ生きている先住民を無くなる前に調べつくさなければならないという神話も強化されるのである——マーシャル・サーリンズの議論に引きつけられて......

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アラスデア・マッキンタイア『美徳 なき時代』:我々は、自分の家族、自分の属するコミュニティ、自分の民族、国家の過去の経験から、さまざまな負債や、遺産、責任受け継いでる。それが私の 人生に与えられたものであり、私の道徳の出発点になる。社会は、そのような負債(等)を受け継いでいない人たちから構成されるのではない。

リンク

文献

その他の情報

Maya_Abeja

Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2017-2018

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